横綱道をめぐる、白鵬・対・貴乃花の対立の「欲望三角形」:貴乃花の無意識の嫉妬構造の歪み

  • 2017.12.03 Sunday
  • 09:46

 

つづき

前回への追記:理事会後

 

構図は、はっきりしてきた。かなり根深い。

根本に、前回でも示したが、貴乃花と白鵬の対立がある。そこがもっとはっきりしてきたが、かなりの蓄積結果から、この事件は不可避的に起きているようだ。

だが、本質は、貴乃花の嫉妬構造が、横綱道をめぐる典型的な「欲望三角形」として、モンゴル=白鵬のそれは横綱道ではない、という否定姿勢になって「対立」「競い合い」にでている。一つの目標へ向かって、両者が対立・競合するのだが、そこに負ける側が嫉妬構造を構成する。関係の不可避性である。

貴の岩は、その双方からの「指導」の板挟みに配置された。

しかも、部屋の違うものが指導などすべきではないという軸と、モンゴル力士たちが、日本でしかも相撲界で生きていくために、日本人に恥を欠かせない、モンゴルとしても恥をかかないなど、礼節・礼儀に従属する仕方の指導の軸とが、対立してしまっている。

モンゴル横綱が3人も出てしまっていることからの、不可避の構造が設定されてしまっている。しかも、白鵬は「大横綱」の業績を成し遂げてしまっている。(小田原巡業で、力士たちがすぐ目の前にいる、その雰囲気で感じたことは、白鵬のオーラ、迫力は半端ではない。正直、稀勢の里はただの大きな人であった。取り組む姿勢が違うのだと思う。ただの「大」横綱ではない。)

 

モンゴル側の軸から、貴の岩はユダ的扱いにされ、お説教が始まった。そこに至る経緯、伏線が積もっていたであろう。そして、貴の岩の、礼節のない無礼な態度になっているものが、積み重なってある。

白鵬が、貴乃花「親方」「理事」から侮辱的にいびられた(白鵬を置き去りしてバスを出発させた、そういう餓鬼行動へ至る蓄積が長年あったということだ)、無礼な貴乃花の愚かな行動だが、貴乃花から見れば、勝手にバスを止めていい気になるなであったのだろうが、置き去りにする対応の仕方は現役横綱に対していかに理事・親方であれ、人として無礼である。(日馬富士と伊勢ケ浜親方が謝罪に行って、その目の前で無視して車で去る仕方のどこに礼節があるというのか。)

土俵上で自分より「横綱」としてはるかに超えてしまった白鵬に、嫉妬構造が蓄積しての歪みが、餓鬼行動を貴乃花に取らせている。

 

その「大横綱」の「さとし」を聞けないのかと、日馬富士は貴の岩をかばっていたのだが、その貴乃花と同じ不遜な態度についに切れた。日馬富士も、双方の間に配置されてしまったのだ。

貴乃花は、自分の弟子=子が、親代わりに、自分が認めていないモンゴルの会の場で、「諭し」の名でいびられた、のみならず傷害まで受けた、その「私的」感情を、協会関係内(つまり、貴乃花の業績より白鵬の横綱としての業績を価値づける協会)では認められないため、社会的な警察へ、売り渡し、自分を正当化しようとした(貴の岩を守ったのではない)。協会からの貴の岩の聴取では、そこが露見してしまうから、貴乃花は捜査妨害になるからと世間無知から警察依拠で協会を拒否したが、警察が「当たり前」だが、なんの妨害にもならないということで、警察捜査後、聴取に応じると折れざるを得なくなった。

加害者側からの見解ばかり出ていると言うが、被害者側が沈黙しているのだから、そうとしかなるまい。

協会を拒否しているなら、自分の側から勝手に公にしていけばいい、なのにいかにも筋を通しているかのようで、警察へ放り出しているに過ぎない。警察が正義の場であると思い込んでいる、社会化された転倒である。

 

全てが、「貴乃花」が原因である。よかろうが悪かろうが、貴乃花が元凶である。

貴乃花を擁護する弁が、あちこちで起きているが「社会」規則に依拠した判断評価であるに過ぎない。貴乃花の行動スタイルは、明らかに不遜である、礼節・礼儀がない。理事会の椅子にふんぞり返って、姿勢を他の理事たちと違えているのは、俺はこの場で意見をこいつらと一致させていないという、あまりのあからさまな一般身体行動形態であるが、幼稚すぎる。

事件局面だけ切り離して、さらに物理的暴力だけ分離して、「社会」の文脈の中に配備する仕方が、一般化する。その加害・被害の関係へ収まっている問題ではない、相当な蓄積された問題が、白鵬対貴乃花の構図としてあるが、白鵬を指導しうる力量が理事としての貴乃花にあるかといえばない、だからこんな風によじれて出てくる。

(物理的暴力が「よくない」など当たり前のことだが、その判断だけから、そこだけが分離されて全てが裁断されていくとき、象徴的暴力の作用が認識から消され、権力関係の巧妙な諸関係の暴力的作用が認識から消える。個人間関係で、どうしてそこまでいってしまうかの根拠が消される。そして、他方で、集団的物理暴力が暗黙に正当なものだと容認されていく。認識が浮遊していくのだ。善良さから、暴力は無くならない。暴力擁護ではない、暴力の不可避的な出現は、善意などで対処はしえないものがあること。殴られるようなことまでしでかす殴られるがわの問題は、関係性として否応無くあるということ。そこを加味しての暴力拒否へ行かねば、対処はしえない。非暴力は、暴力以上に、本質が問われる。言葉の暴力が、物理的暴力以上に人を傷つけることがある。暴力一般はないのだ。「戦い」のゲームが、なぜかくも氾濫しているのか、イメージ処理・昇華だ、では済まされないものがあろう。)

協会がだらしないのは、誰しも感じるが、だから貴乃花が正当だとはならない、双方、ずれているから、事態が宙吊りにされる。

 

かわいそうに、二人の力士が、その犠牲になった。ともに、幼くして親を亡くし、日本へ渡って自分の生きる道を見出した力士である。

協会がだらしないから、そこへの対処が遅れた。

そこから、振り返ると、白鵬の「膿みを全部出して」とは、貴乃花に見られる「道」の逸脱=歪みへの対処だ、とわかり、それゆえ協会から行き過ぎだと注意される、となる。

 

貴乃花は、「協会理事」としてかつ「巡業部長」として組織人として失格である。社会人としては無知だとしか言いようがない。警察の監視・処罰システムが、「正しいことをする」と前提にしている誤認があるから、そういう。

そして、今回事件の元凶が貴乃花である。力士を守ってもいない、親方としても失格である。なぜなら、社会世界一般と固有の組織世界と、それぞれの個人生存世界が次元を別にしてあることの理解・認識が全くないから、餓鬼だという。つまり、自分の経験と複雑な良しも悪しも抱えている世間との折り合いの道への調節が取られていないからだ。

私見でしかないから、しかもパブリック共有されないから、そこで無機質な社会へ放り出して、その他律依存へ任せているから、餓鬼道だと言っている。横綱道ではない。巡業部長で、横綱・大関が稽古している時、飯を食うな、見ていろなどの「管理」をしているだけで、しかも直接言わずに隠微な仕方をする、相撲道に名を借りたただの管理主義だ。

正々堂々など、聞いてあきれる、手続きも規則も不当だらけだ。

貴乃花には、横綱道など語る品性もないことは、その行動スタイルにもうはっきりした。

黙して語らずが横綱道など、ただ言語化能力がないだけであり、実際は隠微な管理をしている、裏方への配慮は自己正当化に使っているに過ぎない関係性になる。

 

それは、突き返され、それでは白鵬の横綱道は、真に横綱道であるのかどうかが、問われていくことになる。立ちあい、平手で、勝ったならガッツポーズをかすかにしてしまう、表情に「やった、よし」と出てしまう、そうしたことに表象してしまうが、おごりになっていることもあるのではないかとか、貴乃花基準からではなく、相撲道としてどうなのか全体において、真に問わねばならない。「品格だ」などという曖昧次元ではない。モンゴル力士が、偉大な横綱になってしまった、しかも日本人力士よりも勉強している。しかも、白鵬は、民族差を超えた「人間」として同じだと主張している。そこに、普遍次元と「ナショナル」次元でしか日本文化・相撲文化として把捉されていないものとが、葛藤を巻き起こしている、そういう新たな次元が否応無く開かれている。貴乃花としては、もうどうしようもない差が実際についてしまった。部屋が違うからとして叱ることも言うこともしない、それが礼節だとされる、だが行動スタイルには礼節がなっていないではないか。傲慢不遜でしかない、品性がない。反逆の仕方さえ勘違いしている。

 

確かに「勝ち」に対する白鵬の執念はすごい、それが特に「負けた時」、相撲慣習に外れている発言となっていくつも出てくる。

だが、勝たねば、優勝せねば、横綱になれない、品行方正・礼節礼儀があれば横綱になれるかというとなれない。

だから、勝ったなら、なおのこと礼節を持てとなるが、朝青龍の荒ぶれを見ての反省をもってしても、異国出身で勝ち続けてきた「強さ」が、新たな横綱道を作りつつあることを指導しうるような水準に、貴乃花がいないことは確実であろう。おごりではない、たおやかさの新たな次元として、白鵬個人も追及せねばならないことであろう、それはもう業績という規準ではないものだ。

それに比して、貴乃花の欲望三角形の構造は、嫉妬構造として歪む関係の絶対性へ置かれている。そのまま、出てしまった愚行である。嫉妬意識ではない、不可避に構成される嫉妬の関係構造である。相手を殺すこと(モンゴル力士文化の排除構造)にしか作用しないものだ。

 

日本の相撲伝統をもう一度見直し、しかも国際化していく大相撲の「過渡上」の事件だが、少なくとも貴乃花の餓鬼道次元で開かれていくものではない。「日本」がなんであるのか、彼らにはっきりしているとは思えない、つまりナショナル化された日本と、もっと本質根源としての日本がある、そのクリティカルな了解がなされていない。まして、貴乃花は「日本」文化へ無知であるとしか言いようがない。狭い経験則があるだけだ。白鵬の方がはるかに勉強しているのではないか、それが白鵬にはわかってしまって、見えてしまっているゆえのものがあるように思える。貴乃花が、相撲道は日本文化だというが、何をわかっていると言うのであろうか、「道」ということ自体が、術からずれる儒教的作用が無意識に介入してくることへの認識などあるまい。だから、道の名で管理するだけになる。相撲は神事だと主張しながら、その神事を一体どこまでわかっているというのか。ただ、相撲管理へ使っているだけの挙動だ。国つ神の闘いとしての相撲神事、そして宮廷への奉納相撲、そして興行化された大相撲、など文化的な複合体の根源的な見直しが要されるのだ。日田神社へ優勝奉納されていたことが、切り替えられたのは、どうしてなのか、何がそこで喪失されたのか、など見えていない問題も多々ある。興行の組織管理などで済まされる大相撲ではない。

親方たちが、理事たちが、また横綱ではない人たちが多くなっている、逆に苦労を知っているであろうが、頂点を極めていない、そこも問題になろうか。「横綱になったのだから」では済まされない物事もあろう。親方=指導者とは何かも問われていく。

 

日本の文化資本、相撲の文化資本が、はっきりと把捉・了解されていないままだ。そこが本質問題であろう。

 

【付】

他方、日馬富士は、もう日本で相撲へ関わることができないのだから、モンゴルでプロ「相撲」を立ち上げていくようなことをしたならいいのでは。

白鵬引退後、白鵬が親方になったなら、貴乃花的なものとの対立はもっと激化するであろう、何せ、業績レベルがもう違いすぎるのだから。道でなくとも、「技」からの水準ははるかに高度になってしまっている。道としての「物言い」は許されなくとも、「技」からの物言いは、もう白鵬の次元の方が高い。心技体の規準が、揺れてしまっているが、「心技体」なる概念はあまりに近代的なものでしかない。よく「伝統だ」などというが、明治以降の近代的なものでしかないことが多々ある。今の大相撲は、双葉山以降でしかないのではないか?

プロ野球も、USAではない、ラ米だけでない、アジアの日本で、韓国・台湾でなされて、日本プロ野球は、もう一つ別のベースボールがあった、と揶揄されながらも、大リーグレベルまでのし上がってきた。

国技とスポーツは違うなどと言っている次元が、もう通用しなくなる水準まできているのではないか、日本人横綱がやっと出てきたなら故障続き。もう、明らかに、モンゴル力士の方が主力軸になりつつある。「国技」だなどとして、文化基盤さえ喪失して、ただの道の管理に堕してきている。八百長騒ぎから、立て直しがなっていないようだが、八百長日本人力士に巻き込まれるな、とモンゴル力士たちは自重統御してきたのではないか? 白鵬たちは一切、口をつぐんでいたのだから。

曙のように格闘技に出ての無様な姿に日馬富士もなっても仕方ないのではないか。日本人相撲人も、引退後の生活があろう。ちゃんこ鍋屋ぐらいでは、悲惨ではないのか。大鵬、そして高見山らからの苦闘は、今も変わらないのではないか。部屋制度も機能しなくなりつつあるのではないか、などなど。国技は、ただの「体育」に成り下がっているのでは。髷をゆっているのは、大相撲だけ、学生相撲はスポーツになっている。「儀礼儀式」が、興行大相撲でなされているだけではないか。

外国人力士で、補充してきた、そのつけが回ってきたのだ。

柔道も剣道も、国際化している。「道」がルールへとずれている中で、「日本」柔道が頑張っているように。

日本大相撲が、世界からの憧れるになるような世界配備に置かれる次元が、否応無く始まっているのではないのだろうか。そういう方向へ、貴乃花自身が内部からぶち壊したのだ。関係の絶対性をわかっていないから起きた。

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