国家資本とは:資本界と権力界:ブルデューの先へ
- 2016.12.07 Wednesday
- 12:13
象徴資本へ集中化されたものを国家資本とブルデューはよんでいるのだが、『国家について』で論述されているとおもいきやなにも深化されていない。
異なる諸資本の類いがそれぞれの「界」champ/fieldをつくっているのだが、『一般社会学』鵺では、そのように差異化されていくとなっていたのにたいして、『国家について』では「集中化」が論じられてていく。
ディビジョンとビジョンの原理は、ここをみておかねばならない。
さらに権力界と諸資本の差異化されたそれぞれの資本界とは識別されねばならない。
しかも、マルクス主義的な「資本が権力をふるう」など、現実誤認もはなはだしいのだが、「資本にたいする権力」がふるまうのだ。
ブルデューは、中学でおしえるプロフェッサーは文化資本をもっているが資本に対する権力をもっていない。他方、大出版社の編集者は文化資本が小さいのに資本に対する権力をふるう、と例示する。
池上彰のような文化資本が小さいものが、メディア権力に便乗して、個々人の認知の文化資本にたいする権力効果になっていく。
スイスにいるからわかったことなのだが、まず、資本スケールがちがうということ、そして世界交通での象徴資本が高い、その象徴資本の力は国家をこえた動きをなす。ここが、経済資本が巨大だからとされて、陰謀説などがこれみよがしに語られるのだが、いかに経済資本が巨大であろうが、資本の動きをなすことはできない。たとえば、ある国の大金持ちが銀行を実際スイスにつくった、それで日本の技術の協力などをいれて、自国の開発発展へ寄与していきたいとしても、なかなか共同構成ができない、それは「象徴資本」がまだ小さいからだ。声かけられても、どこのバンクだ、としかならない。ほんとにだいじょうぶなのかと不安がられる。
逆に、歴史的に象徴資本を形成してきた、巨大バンクが、日本でプライベートバンキングをしようとする。すると、その代行為者たちは、象徴資本の高さではなく経済資本の強力さだとかんちがいし、資産顧客選択で、数億円でないと近づけさせないという不遜な態度にでてくる。わたしがはじめてスイスにきたときは、十四億円であったが、日本人小金持ちを相手にと、5千万円規模に一般的にダウンしたが、しかるべき成果があがらず、スイス自体の海外圧力からの停滞・退化もあり、いまは数億円ということらしいが、このとき代行為者たちは、バンクの象徴資本にみずからの文化資本が小さすぎてとどいておらず、顧客の小さな資本にたいする権力をふるまうのだ。経済資本のおおきさだと錯認している。目立つ動きをするなというのが、プライベートバンキングの仕方だが、それは金持ちが少ないということだけではない、象徴資本が下がってしまう方が損害が大きいからだ。代行為者たちの文化資本とそのバンクの象徴資本との隔絶さに、代行為者たちはまったく近づけないから、不遜にふるまうしかなくなる。象徴資本があるからうごきがしやすくなるのだが、経済資本が巨大だからとかんちがいし、かつ自分の文化資本が高くないと、動きなどなし得ないということが、バンカーたちにはわかっていない。守秘義務とは文化資本にささえられた象徴資本維持の関係にあるのに、規則従属のことと勘違い転倒される。
他方、日本人の資産をスイスで確保するというのは、国家を越えた資本の本来の動きをなそうとしていることであるのに、まったく認識がない、つまり国家と資本との関係を知らないで、ただ個人資産へ対応している。バンカーも資産預金者もだ。
ふりかえってみると、大企業の社員=代行為者たちがそうであった.企業の象徴資本をまったく理解できず、ただ経済資本の大きさであるとしか解さず、自分の資本ではないのに、その傘の下で傲慢不遜に対応してくる。これは、代行為者の文化資本が、まったく企業の象徴資本の高さになく、経済資本を傘にして、こちらの資本にたいする権力を行使してくるのだ。大手出版社の編集者たちも同様である。こうした関係を、資本が権力をふるう、資本は悪だ、と錯認してきたまちがいが、マルクス主義の低文化資本に汚染されている大学教師知性に蔓延しているのだが、実際は、文化資本度の低い代行為者たちが資本にたいする権力をふるい、資本を権力界へおとしめているだけの実際だ。
経済資本のないわたしがスイスで動きえたのは、わたしの文化資本の高さからであって、つくられたファンドとともに、学術財団が象徴資本機能したからである。ファンドだけでは、資本の動きにならない。資本とは総体の動きである。商品は資本ではない。
資本それ自体は、権力界にはない。ここが、ほんとにわかられえていない。
近頃の大企業の社長たちは、文化資本がほんとに低いから、経営が同じことの再生産しかしえない、世界的傾向ではある。つまり、資本を動かす文化資本が小さくなり、資本に対する権力が行使される権力界次元へ、資本が落下されているということだ。不景気の最大根拠はここにある。資本低下がおきているからだ。経済<界>の基本法則は、最大利益をあげることである。これも売り上げだと経済資本へ転倒される。
このブルデュー諸概念と自分の実際体験をもって考えると、国家資本での資本の働きの布置が見えてくる。
国家資本は、国家予算規模のことではない、その90兆円とGDPの約500兆円との間のスケールで、動いている資本であると、経済指標的に設定しうる。だが、GDPは国家下の個別企業へと分断されてしまって、国家資本の動きとして文化資本的な把捉がなされていない。その国家資本には、日本の有史的歴史の2千年の文化蓄積が象徴資本化されたものとしてあり、さらに現在の膨大な技術資本の力能があり、国民が社会関係資本から築き上げてきた国民のよくデョシプリン化されたものが象徴資本となって、世界に信頼されている。国家資本は、こうした総体からなる。
この、国家資本に、安倍首相の国家意志の文化資本が、あまりに低すぎる。自民党や民進党などの党の政治資本がもつ文化資本が低すぎるのだ。すると、カジノ法案のような、カジノという人間の最大化の成熟度と最低の未熟度との両極にまたがるような(これは売春も同じ布置になる)事態にたいして、経済売り上げ効果が大きい、賭博依存症が多発する、マフィアが暗躍するなどの次元で対処され、賭け事の文化資本の問題などは完全にふっとんでいる。日本ゲーム学会があるのだが、その研究や理論など文化資本度が低すぎ、金にむらがる企業人たちでうごめいている。カジノの文化資本は、オーストリアとUSAの二つがノウハウをもっている。その文化資本の闘争が背後でなされてきたし、展開されていくであろうが、日本側は社会関係資本でしか対応しえまい、低い文化資本度にある。10兆円スケールを越えると、日本の経済資本に関係せねばならない文化資本がまったく動かなくなる。スケールアウトするのだ。
法案の法律資本をふくめて、国家資本の動きのなかにカジノが象徴的に動きはじめていくが、社会関係でうまくやってきたようなこれまでの事態では、それはおさまらない。他方の、軍事資本の方もそうだ。
言語統一市場で構成された言語資本が、主語制言語様式へまったく転倒されている(主語があると嘘を国民総体へおしつけてきた)、そこから形成される文化資本でしかないから、いきづまっている。学校システムが、国家資本において象徴権力作用しえてきた効果である。国家は物理的に強制服従させようなどとする必要がない次元にまで国家資本形成されえている。
しかし、国家資本を支えている原初的な文化資本は<もの>資本であり、述語制資本である。これは、手道具の世界でかろうじて残滓しているが、その経済資本化をなしえないできた文化資本度の低さにあるのだ。織機機械の繊細さを忘却したトヨタ、からくり人形そして和時計の精緻な機械を忘却した東芝、など文化資本喪失になっている。ソニーなどは自らが世界で築いてきた象徴資本を自らで破壊してきている。旧ソ連圏で、ソニーの偽物がでまわっていたとき、それを放置して、コロンビア映画を買収した、このときソニーは象徴資本をはきちがえて崩壊へと配置換えされたといえよう。自身の基盤を無視して、自身ではないものを領有した、目先利益からは、停滞から退化以外になにがおきるというのかだ。これらは、暗黙の国家資本配備の市場経済自由においておきている出来事である。国家資本が、外在化されたまま、資本に対する権力界、そこに商品再生産に縮小された経済資本と規範従事の社会関係資本が共謀する。文化資本は、低さへと放置される。
権力界にはない実際の資本は、なんら活用されないままほうちされていく。
他方、国家資本として歴史生成的になされてきた諸資本の象徴資本への集中化は、他の可能性を排除し、唯一の可能性であるとしてきたものであるのだが、その他の可能性を忘却した認識を国民に身体化させてしまっている。その忘却された他の可能性の核にあるのが<場所>であり、<述語制>であり、そこから構築される<資本>である。
国家資本は、国家的な資本として、それと対立的な<場所資本>の統治制化を容認して、相反共存しうる閾を開いていかないと、疲弊するだけになる。
企業は、文化資本を高度に再構築形成していかないと疲弊し、崩壊する。大学資本次元の文化資本などは通用しない。
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