松本卓也『人はみな妄想する』:ラカンへのもっとも明晰な導入書

ひさびさに、素直に、じっくりと読めた書だ。
ラカンについて、もっともすぐれた書の一つであろう。基本がしっかり了解されていて、基本概念が明晰に説明されていてぶれていない、ラカンで混乱していた人たちを、素直な了解の水準へとひきだしてくれる。「アンコール」の解読書も、よくできていたが、そこにはまだ難解な混乱がうみだされていたが、この書は、混乱が融かれる、さわやかな書だ。

なぜ、成功しているか、それは、ラカンを通時的に解説(解体構築)したからだ、人は通時化されるとわかったつもりになれる、そのつもりが正確に近いと快をえられる。そして、これまでの、ラカンで「意味されたもの」を説く書は、ラカンからひたすら乖離していくのだが(アングロ=アメリカのラカン論に多い、とくにFinkの書)、松本は「意味するもの」=シニフィアンの布置を的確につかんでいるから、ぶれがない、つねにシニフィアンから説いている、ラカンの機軸だ。それをなしえたのは、神経症と精神病との鑑別診断を規準にして、ラカンの通時的変節を明示しえたからだ。これは、臨床家経験がしっかり理論とむきあっていないとなしえない。これまでのラカン論は、臨床経験ない者による考察か、臨床へあまりに閉じた考察しかなかった。かろうじて、新宮、向井の書がよみえたぐらいだ。海外ものでは、ドールとコフマンのラカン事典が読みえるぐらいで(ドールの邦訳は一部でしかない、この全邦訳も望まれる)、あとは悲惨だ。ミレールのものしか、信用に値しない。これまでミレールの邦訳書がないのは、出版側の怠慢であろう。他にもたくさんいるが、部分的でしか無い、本質筋の総体からみられているとはおもえない。また、個別主体の人格関係の視座から説くから、わかりやくなっているのだが、シニフィアンをぶらせていないから根源的な誤認を回避できている。父性隠喩に関する松本の解説は卓越している。

現代思想理論のなかで、ラカンが一番難解であり、かつフーコーと並んで意味がある。ブルデューやアルチュセール等は一、二度読めば、およそぶれない、それほど明証であるからだが、ラカンとフーコーはそうはいかない。フーコーは、自分にとって近いから徹底して読みえたが、ラカンはあまりに遠く、しかも論理が反転するため、難儀である。たとえば、充満とは言わない、欠如が欠如するという論理になる、それは単純な対偶的反転ではなく、微妙にずれるから、やっかいだ。初発は結果、結果は初発、ということになる。「否定」と「遡及」の論理からなりたっている、逆向きなのだ。存在するのではなく、「存在しないということができない」、となる。大学教師になってから、ゼミではいつもラカンをとりあげつづけていた、ラカンを一所懸命読んでいる留年学生がいたからだ(下手なラカン論者よりはるかにまし、わたしはゼミ学生に非常に高度な解読を要請したがなしうるのである)、その報告を聞きながらも思考の不可能さだけがおそってくるなかで自身考えつづけて30年以上になるが、ラカンがみえてきたのはようやく「述語制」の論理を自分でみいだしたときだ、そこからみると「穴」がはっきりとみえた。「父」や「主体」が登場したときにぽっかりとあいている穴がある。ラカン当人が、父の名の喪失だ、主体がバレされると、本質をみぬいている、そこがまた主語言語であるフランス語ランガージュでは、論じえない閾になっている。

松本の考察が成功しているところは、しかし同時に限界にもなっていくのだが、それはラカンの外に出た時露出してしまう、社会的紐帯とか真理とか、資本の論理、など既存のコード判断にはいってしまう。ラカンからみれば、社会も真理も無い。「人間は、人間存在という位置そのものにおいて、彼が決してそのためには造られてはいないものにたいして、いかに依存するようになるか」(「精神病』)、それが真理生産であり社会生産であり、商品経済生産である。ラカンをもってすると、社会空間が虚であることや資本論理が悪ではないことが、みえてくるのだが、既存概念をもったままだとポストモダンの軽薄論理へおちてしまう。一般論になってしまうからだ。その典型が、浅田であり柄谷の凡庸さである。
ラカンは主体の欠如の出現を問題にしているのであって、主体概念をもったままでは了解されえない閾が残滓する、たとえば、agentは「動作主」ではない、シニフィアン代行者である、4つのディスクールが主体の人格関係で説明されてしまう、主体ではないシニフィアン対象のディスクール関係である。マルクスが資本を論じながら資本家をひきだしてしまったように、ラカンも大他者の主体をひきだしてしまうが(ラカン批判をしたアルチュセールは大文字主体にまで落下する)、主体はバレされていることは知っている。主体的シニフィアンではないのだが。ラカンにとって「主体」は、自我や話者から疎外されて布置されるから出現したり喪失されたりするものの、主語シニフィアンの規定制からのがれえていない。「誰が」ではない、シニフィアンがどう働いているのかだ。
そして、ラカン言説理論は、どうあがこうが構造論的である、それは通時変遷へと解体構築されないものにある、理論形成の過程は「意味されたもの」の確認へと後退する。年代ごとに、神経症はこう意味された、精神病はこう意味された、転じられた、と理論成果に還元される、それは「意味されたもの」であるから正しい。しかしながら、つまり松本によって簡明化されたものを、再び複雑で難解な理論構造そのものへとねりあげねばならない、たとえば「享楽」はサントームなどの後期に出現したものではない,最初から欲望と識別されてあった。つまり、欲望論は他者論もふくめ、主体論理であるが、欲動・享楽は述語論理である、したがって松本の書からは「欲動論」がはっきりとしない、という欠如になっていく。
また、ポワン・ド・キャピトンが欲望世界として構造化されたように、シェーマL、シェーマR、シェーマIは、重層構造化されないとならない、分節化したままでは臨床次元にとどまる。資本・商品・価値・利潤などの構造は、このシェーマの絡み合いから示されえていく。ラカンが言語学をうけて無意識=ランガージュ論へ飛躍させたように、ラカン理論をうけてサントームの先に欲動・享楽の構造体系理論をひらかねば、現在世界の解明はなりたたない。欲望のグラフはあまりに多くの者たちによって弄くり回されているが、松本がどうさばくかみたかった。
概念いじくりのガタリ(/ドゥールズ)や愚直なデリダの二流言説ではなく、フーコーとラカンとをつめていかないと、本格的な理論プラチックは明らかにならない。ジジェクなどの3流のインチキ言説は使いものにならないことは、ラカンをしっかり読んでいる者には自明である。
剰余享楽はマルクスの剰余価値から来ている、それは肯定概念である、欠如論理ではない、ラカンをラカンから救い出すには、欠如論理ではだめなのだが、これはラカン研究者たちには、おそらく分かるまい。
松本が明解に示した、そこから、あらためてラカンの複雑な論理構造が、しっかりと構築されなおしていくことができよう。

とまれ、松本の書は、見事である、よく勉強している、立派だ。こういう、若い人たちによって、まだ放り出されたままのセミネールの邦訳を、フーコーの講義集なみに訳しぬいてほしい、そして、エクリの訳しなおしとともに、Autres écritsも早く訳してほしいものだ、彼らには力があると思う。エクリが誤訳だらけだといってもしかたない、1970年代の日本の水準では、不可能なことであった。そもそも邦訳など不可能なラカンであるが、原書はとても門外漢が理解しうるような代物ではない、訳の欠如があって、なんとか原書が読め、理論閾がはっきりする。
現代世界を読みとく上で,ラカンは不可欠である、古いなどという者は、単なる懶惰の輩だ。資本の経済は、ラカンなくして解読不可能であるから、いつまでも商品論でおわってしまっている。フロイトは初期資本主義、ラカンは後期資本主義に照応しえている,先取り理論であるのも、精神病を徹底追求したからだ。社会科学理論は,ラカンなくして深化しない。ラカン理論体系に、マルクスの基本概念の理論体系をはずさずに照応させることができる。ラカン論者たちによる安易なラカン適用による現代社会批判は、ラカンへの冒涜である。社会幻想の規範妄想や国家幻想の依存強迫症などによる一般的依存・受容は、簡単な心的なものではない。
ラカン関係には、第一次ナルシシズムにとどまったままの乱暴者たちがフランスにも日本にも米国にもいる、その妨害になどめげずに、出版側も若い研究者も、ラカン邦訳に努力してほしい。邦訳で知的にもっとも意義あるものになる。英訳もとまってしまっている。知を妨害するものにはたちむかってほしい。

ラカン派は普通精神病だなどと社会病をもって、本質精神病を過去へ退行させてしまうのは、人間の初源を問わず、歴史表象変化の現実性にまどわされているからだ。アルチュセールの弟子だったミレールの、ある限界であるが、優れたミレールの先へいかねばならない。
臨床家たちによくみる誤りは、フロイトやラカンによって「意味されたもの」に症状判断を還元することだ、ラカンを大学人のディスクールで処理する愚行は、あとをたたない。それが、<主義>者になっていく。かつてのマルクスにたいするマルクス主義者たちが、いまだにであるが、そうだった。「意味するもの」の作用をしっかりみていくことである。

吉本「心的現象論」は、ラカンと対比させないと、しっかりした読みにたどりつかない、吉本がなぜラカンを軽んじたのか、だが、妄想が初源であることは吉本も強調し続けていたことである。吉本が、父ではなく、母にこだわったのは、記憶想起可能な下限にある前エディプス期のクラインではまったくない、三木成夫の胎児にまでさかのぼる、原初シニフィアンを感知していたからだ。乳房と母総体を区別し統合するクラインのもっともらしいばかばかしさは、ラカンによって現実界=乳房と象徴界=母とに識別されるが、ラカンは母の欲望が「父の名」のシニフィアンに代置されてしまう隠喩に疎外されてしまう、ここが疑われねばならない要なのだ。
ここは、述語制ランガージュ論をもってしないと、心的なものは読み取れないのである。S1➡S2は、主語制言語と述語制言語とでは、シニフィアン作用がまったく反対になってしまう。日本人は、主語など最初からない心的構造にある、主語=主体論から病いをとくことはできない、ベクトルはまったく逆になる。若者たちは、主語などをたてているから普通精神病になる、学校文法の犠牲者たちだ。臨床家はそこを自覚すべきであろう。根本は、助辞、助動辞が、どうなっているかである。主述の不一致の問題には無いからだ。また<もの>は回帰はしない、普遍として日本文化にはあり、かつ表出しえている、カント的に物自体は分からないのではない、またヤコブソンが、失語症として示したものは、述語言語そのものである、彼ら西欧人には、絶対的に分からない閾がある、その境界をラカンは示しえている。

<ラカンーフーコーー吉本>を共時的に理論化しえる水準から、新たな理論地平が本格的に理論転回しうる。体系化ではない、言語と心的なものが幻想・妄想を歴史段階でなりたたしめていく、シニフィアン作用の論理である、シニフィエされえないシニフィアンス存在の働きである。それが、世界水準であり、欧米人知識人にはなしえないが、いまや外国人たちは日本語を良く話せる、そのパロールはもちろん、宇野や丸山や大拙などではない吉本/西田/折口ぐらいを欧米人は読みえないと、もう世界線での思考は欧米でも産出されえない地平にきている。
騙されない者は漂流しつづける、わたしのラカン漂流はまだまだつづきそうだ