場所を考える基礎文献:5冊

 場所論の文献を、逐次紹介していきますが、まずは、基本文献からです。
基礎とは、ある到達地平から遡及されるものであって、初歩段階から高次へという、学校化されたはしご段式の学習ではありません。つまり、場所論は、世界線として2004年ごろまでに、総体的にほぼすべて産出されえています。その知的成果の地平を、きちんと領有することが、「基礎」の意味です。専門分割された領域での所有ではない、超領域的に「場所」を考えていくうえでの基礎を領有することです。以下の、基礎を総体的にふまえないと、場所の「地域主義」や新カント主義の人間論や、環境物理学的な測定された場所実体論へと、横滑りしてしまいます。場所論は、近代学問大系の地盤を変えていかないと、つかみえていくことができません。「思考コード」をまずは自らへむけて転移(デプラスマン)することです。
 
1)Place
 
 Tim Cresswell, Place: a short introduction,Blackwell, 2004
 
文化地理学からの、非常に簡潔明解な、学生用文献。のちに紹介していく、Doreen MasseyやDavid Harveyなどの理論もやさしく論議されている。エンピリカルな考証と理論的考察とが、マッチしているまさに、ショート・イントロダクションです。これで、「有の場所」とその対象化の基本が領有しえます。
内容は、まず、「場所」の定義化から。場所と空間、場所と景観、場所の理解の仕方が説かれる。
ついで、「場所の系譜学」、場所がいかに認識・認知されてきたかの歴史軌跡。地域地理学、人文地理学、ラディカルな人文地理学、場所の政治、「世界の中の場所」対「社会構築としての場所」、場所とプラチックとプロセス、場所の公開性と転換、など場所をめぐる見解が検証される。
ついで、「場所のグローバルな意味」、「場所とともに働く」エンピリカルな考証。
そして、場所研究の文献紹介。
欧米の入門書は、本質をのがさずに簡明です。
WPuni.では、この入門書は、1、2週間でまず読んでもらいます。そして、日本における「場所学」のテクストを、参画者とともに作成していくプロジェクトを動かします。
  
2)ケーシー「場所の運命」
 
 Edward S. Casey,
 The Fate of Place: a  Philosophical history
 (University of California  
 Press, 1997)
 エドワード・ケーシー
『場所の運命:哲学における隠された歴史』(新曜社、2008)
 江川隆男/堂囿俊彦/大崎晴美/
 宮川弘美/井原健一郎 訳
哲学の歴史のなかで、空間概念がいかに出現し、また場所概念がいかなる運命を辿って来たのか、プラトン、アリストテレスのギリシャ哲学から、中世、近代哲学、ニュートン、デカルト、ロック、ライプニッツをへて、カント、現象学、ハイデガー、そしてフーコー、デリダ、イリガライなどにいたる、場所概念の隠れた系譜を明晰に追った考察。新曜社の亡き堀江社長に翻訳出版を依頼し、若い優秀な方々に翻訳していただいたもの。ケーシーとは、ボストンで会い、インタビューしました。著者は、大きく二通りいて、書いた書を超えるパワーをもった人と、著書以上のものをもちえていない人がいる、ケーシーは後者の、まじめな普通の学者でちょっとがっかりしましたが、しかし彼の場所や記憶に関する他の著書もふくめての検証は、重要な作業であることにかわりはない。一種の現象学的な実証的考察で、理論的な深みがないですが、西欧哲学の批判的継承をしていくうえで、基礎となる教養的文献です。この書に対応する、日本版系譜学を、WPuni.では、つくっていく予定です。
ケーシーは、場所論としては以下の書を刊行しています(現象学的考察として、rememberingとImagingをだしていますが)、それらは、おって紹介します。
1993年
 2002年            
 2005年 
               
2007年













 
3)山本「場所環境の意志」
 
 山本哲士『場所環境の意志』(新曜社、1997)
もう、15年も前に記した書ですが、いま、その有効性が見えて来ているのかと感じます。新たな場所論を記しても、基本にかわりはないといえます。場所の述語的意志を、近代人間の意志に変わって、エピステモロジックに明示しながら、場所の具体活動や建築などにもふれている、環境設計の基本指針です。場所の生命的な意志をふまえて、人間はそれを「判断」して、場所の暮らしを営んで来た。場所が、自分が立っている地球環境であるということですが、環境物理学/環境人間学をこえていく、実際です。均一・均質空間である<社会>設計をしているかぎり、場所環境は出現しない。場所は、多角的、多彩的に在るものです。『国つ神論』とあわせて、読まれたなら、その根源がみえてきます。『国つ神論』は、場所の初源的本質論、つまり日本という種別性の歴史本質論といえます。場所の歴史相は、いづれ『武士制の日本』として示します。<場所>は、「人間」や「社会」の概念をたてているかぎり、見えて来ません、出現しえません。つまり、近代様態において消されて来たからです。

 


4)西田「場所」
 西田幾多郎「場所」(1926.6) 
 (西田幾多郎哲学論集鵯、岩波文庫、所収)
場所の哲学的基礎です。世界で、場所の哲学としてこの右にでるものはない。ただ、ひたすらこの論稿のみを読んでください。なんども、なんどもです、自分の場所に照らして、自分がしていることを理解することとして読んでください。西田解釈は、役にたちません、また他の西田の論稿も必要在りません、これだけを読み込んでください。有の場所が、実際にあります、それをしっかりと調べて、そこにたいして、その規制のもとで、想像的な場所をイメージ、企画することです、そして実際に、そこに無かった「絶対無の場所」を出現させることです、これが「場所の設計」です。形而上学と認識論を混同しているなどの批判の先に、西田哲学が、西欧哲学がなしてない閾へひらかれているのは、「述語面」を了解しえているからです。西田主義者になることではない、その思考技術を活用する事です。
 これは、わたしが、西田の「場所」論稿を、いろいろな角度から読み込んだ「場所論ノート」です。品切れですが、主要な図書館にははいっています。











5)宮崎「風の谷のナウシカ」
 宮崎駿『風の谷のナウシカ』全7巻
 (徳間書店、1994)
 13年間にわたって描き継がれた、大長編マンガ、世紀の傑作。
 「風の谷」が、「場所」です。「土鬼(どるく)」が、バナキュラーな存在です、そして「国つ神」の場所の象徴です。土の「鬼」とされています。宮崎さんとのわたしの対話(『出発点』に収録)が、ずれているといわれますが、そうではなく、西田的に言うと、天才宮崎さんがクリエーターとして、「どこまでも述語となって主語とならない」超越論的述語面の「意識の場所」の底に「意識面を破って真の無の場所」、つまり「直観の場所」にたって、創造活動をなされている、そこを宮崎さんは対象化していない、する必要も無い位置にたっておられる、それをわたしが意味が生産される認識過程として解きほぐそうとしただけのことです。王蟲はなぜ、あそこで停まったのか、作品の対象的客観化を批評的立場は追究する、しかし作品の創造者は、そうだからそうなのだと、直観の場所の確かさに立つ、などなど、批評と創造との本質的な関係の問題です。ともあれ、このナウシカは、20世紀最大の芸術表象のひとつです。全7巻をなんども読まれてください。産業社会経済の崩壊、その環境破壊を想像表象しきっています。アニメは、2巻の半分ぐらいまでしか描いていません、この全7巻を読む事です。場所の想像的表象として、もっとも明解なものといえます。
以上の5点が、場所を考えていくうえでの基礎文献となります。
基礎的教養知
系譜学的布置
エピステモロジックな配置
哲学思考技術の基盤
想像的表象世界
としての「場所」が、領有しえます。
WPuni.は、これらを、2〜3ヶ月で、実際の場所を観察しながら、領有し、設計へとはいっていきます。それは、同時に、批判思考理論を領有していかないとなりません、産業社会経済、その商品サービス経済と「社会」画一規範、その国家中心主義です。「商品」「労働」「社会」の概念コードにとらわれたままでは、<場所>は出現しえません。
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