企業病は、なぜ不可避におきていくのか:偉大なる父祖を文化継承しえない本質

  • 2015.10.14 Wednesday
  • 02:19
大きな企業であれ、小さな企業であれ、その創設者=父祖がいる、それが成功し、何代かのちに、企業組織を守るというかたちで、現象としては組織スターリニズム化していく。活気ある健全だと言われたいた企業が、いつのまにかおかしくなっていく。松下電機=パナソニック、東芝、そしてシャープ等、赤字企業体になっていくそれが典型であるが、いくつもの大企業が、人間の成長が老化して死していくように、50年を超えると100年目へと衰退していく。
東芝は、1875年、田中久重(和時計やからくり人形を造っていた)、松下は1917年、松下幸之助、シャープは1912年、早川徳次、資生堂は、1872年福原有信、ソニーは戦後で、1946年井深・盛田が創設。松下=パナソニック、シャープは、100年越えのときに完全に壁につきあたったということであり、東芝は、そこを超えてはいたが、やはり自然不可避衰退にあったということか。資生堂は、福原義春氏の新父祖で、そこをのりこえていたが、その後々は、社外社長をもってこざるをえなくなっていった。
大手電機会社8社の、他の、三菱は造船から独立し1921年、日立製作所が完全独立したのが1920年、富士通が1923年、そしてNECが1899年であった。何らかのかたちで、限界に達している。
さらに自動車会社は、トヨタが1933年、日産1911年、ホンダは戦後1946年だが、トヨタの危機は1995年バブル期、2008年リーマンショック、日産は1999年ゴーン体制へ転化、三菱は2004年赤字、など。
世界市場と外部経済情況等とリンクしての危機への直面であるが、それだけではない、日本の主要経済が、自然成長過程として不可避におっていく生命的成長・死の100年というある節目があるのだと思われる。
日本の近代化における商品製造の、100年越えという不可避の自然過程には、経済のある種の生命活動的な流れが関わっているのだということだが、世界市場構造、科学技術変容、社会関係変化、といった総体からの企業変容は、まだ経験的にしか認識されていない。外在性だけの変容ではない、内在性の生命的変容がおきているのではないだろうか。

わたしは、商品再生産構造が、資本との関係で、不可避に利潤率の平均化と停滞をもたらすと、マルクスが1850年代にすでに解明していた理論根拠が、すべてを明らかにしていると踏んで、そこからの尺度から「資本喪失」した企業衰退・停滞の根拠をみているが、もうひとつ心的な不可避性が、生命的にあるように思いはじめているのも、人間関係が企業経営していることから不可避に規制されると考えるからだ。
資本喪失は、経営者が賃労働者でしかなくなり、資本の動きをまったく理解しえなくなるという人的な経済要因としてみているが、心的にいかなることが本質的にあるのか、まだ気づかなかった。それは、フロイトである。集団心理の無意識構造が、父祖=創始者との関係でおきるということだ。ある原始共同体での不可避の心的構成である。それはまた、過程で、創始者の意志・理念をついだ優れた経営者が登場した、その後にも、心的に再生産されることが、おきる。
 
原始群族の「父祖」は、原始的集団の息子たちには「理想」かつ「畏怖」であった、つまり禁制の対象になる両価性の条件をもっていた、そこで息子たちは団結してこの「父祖」を倒した、ところがその内の一人が父祖の肩代わりをしても不安定で争いがたえないので、だれもが自分が父祖になるのを断念して、代わりに禁制の対象である条件をもったトーテムで父祖を象徴させた。しかし、「父祖」でありたいという願望を圧殺できないので、共同の集団の中ではなく、〈家族〉のなかで父祖の位置を満足させた。集団の共同性にたいして、はっきりと固有の位置づけと根拠をもった、新たな家族である。こういう新たな〈家族〉をつくった息子たちは、「父祖」を倒した時代にできた女性の支配を破壊し、その償いとして母性神化を認めた、それが「母を対象とした父親への息子の両価的な心理(エディプス・コンプレックス)」であるというのが、フロイトの考えだということです。(つけくわえれば、エディプスは両眼をつぶし盲いになり彷徨うほかないことになっていきます。)

吉本共同幻想論を解読しながら再確認した論点であるが、これが企業体において原始共同体の本質心性を構成することとして、血縁ではない現在でもおきてしまうということだ。血縁でなくとも、継承の関係において、同質の原始心性が構成されているということだ。原始心性としての心的関係構造が本質的にあるということだ。

つまり、父祖、またその質を継承しえた新たな父祖、という大きな「偉大な」存在にたいして、その息子たち=社員たちは、どんなかたちであれ、「父祖を倒す」という不可避の挙動にでないと組織継続ができないと思い込む、無意識にそれをやる。実際に、わたし自身が、観てきたことでもあるゆえ、確信をもてるのだが、「理想でありかつ畏怖」でもある「偉大な」父祖の継承を息子たちがしえないのだ、そこで「断念」する、かわりに両義性を父祖がもつため、禁制として父祖をトーテム化する。実際には、継承するとして実質拒否、否定して行くのだが、理想は外在化したまま触れえぬものと祀りあげていくことしかしない。ところが、父祖のごときでありたいという願望が捨てきれない、するとその父祖としての地位を、企業活動そのものではないところに配置するほかなくなる、「家族」は企業体には不在であるから、そこを「組織体の維持そのもの」と転化するのだ。つまり、企業の企業活動それ自体と組織体維持とが、分裂する。だが、禁制として、理想・理念はひきついでいる、けだし実行不可能なものとして設定している。企業組織体そのものを母性神化するということだ。だが、血縁ではないから、実際に母はいない、父祖を倒してまつりあげた女性支配も無い、それを代行する何かを要することになる。そこにうまれるのが、「企業コンプレックス」という、心的な集団心理構造になる。
実際にいくつかの企業でかなり近傍で経験して観たことでいうと、新父祖が引いた後、急速に縮小した小粒の停滞した動きに、急になる。露骨に、父祖を、否定し、倒したつもりになっている言動を吐く輩までが登場して来る(否定すれば客観的なものとして所有したと思い込むマルクス主義的な態度)。それで、改善した意識でいる。とくに、文化的なものを無駄であると否定する挙動に顕著になる。父祖は、総体を背負っている、それが重荷であり、余計な物と感知される。そして、商品=マネー利益だけが、経済再生産の可能条件だと、かんちがいされていき、組織体として不祥事をおこさないことのみが優先事項とされ、企業活動は、粛正的に処理されて行く、つまり、ビジネスをするのではない、禁制とされた組織体維持のみが、構成されて行く、これは病理である。

父祖が欠如とされた、神経症的な動きになるか、まったく欠如の分裂病になる。東芝の粉飾決算等は、そのひとつの極致であろう。
それは、「資本」の核の完全な喪失となっていくのだが、東芝が「和時計」や「からくり人形」をなす技術の文化に初源があったこと、トヨタが織物のキモノに初源があったことなどは、時代錯誤であるかのごとくになっていくのだ。目先の、かつて成功した同じ商品だけの再生産保持となって、新たな創造は新奇なタブーに抵触するものだとされる、企業コンプレックスである。
それは、エディプスが自ら盲いとなって彷徨うほかなかった、そこへはいりこんだということだ、しかも、母がいないから、もう心的に傷ついた病理以外のなにものでもなくなる、「償い」が心的にどこにもない状態である。組織体を守っていれば、正しいのだと正当化されているが、社員を実質守っているのではない、自分の不能化を守り正当化しているだけである。構造として集団的スターリニズム体制になるほかなくなる、規範規則遵守だけで保持されるものだ。しかも、商品生産の本質構造からして、利益をもとめればもとめるほど、利潤率は低下していくほかない構造が、イノベーションされていかないから、ごまかし粉飾するほかなくなる。実質倒産しているのだが、公的資金投入や合併などの社会力学でかろうじて存続している。などなど。さらには、バブルだリーマンショックだ、円高だとか、外部根拠で、自分の責ではないと弁明される。社員の個人意志は、企業体の共同意志と同調され、自分ではない逆立した存在が自分なのだとなっていく。個人も病理となって行く。とくに、対幻想的な1対1の信頼関係が容認されなくなって,排除されていく。経済行為のなかで、ホスピタリティ的な働きとして、対的信頼関係は大きな位置を占めていたのが、消失されていく。
こうした構造は、経済ではない、組織保持だけの転倒規範化でしかない。

これは、大きな会社でも小さな会社でもおきる。父祖から可愛がられた息子たちが、父祖の偉大さを了解しえないで、無意識に、集団心理的に踏襲とし、禁制を畏怖において祀り上げていくからだが、実際には父祖を倒しながら、独自のことをしていると錯認し、実際には混乱し、不能化し、自ら盲いとなって彷徨うだけになる。父祖の水準に達しようとする努力や研鑽を怠って、コンプレックスのなかに停滞彷徨うからだ。父祖が負った総体を部分で、しかもかんちがいでしか継承しえないからである。自らで両眼をつぶしているのだ。父祖総体を規制条件として負うことで創造がなされうる、その努力をするしかないのだが、それを初発から放棄する。
小さな会社では、むしろ血縁継承した方が、偉大さの象徴権威が、継承され、アカの他人が継承するより健全になるのではないか、それはコンプレックスの場が家族という別次元へ閉じられうるからだ。非血縁だと、かわりに社会共同幻想の転倒が入り込むように不可避になる、普通精神病的状態としての本質と核軸の欠如が必然のようにおきていく。継承者が偉大であれば、それはおきえないが、多分にそうはならない。

国家次元でも、この原始的心性が現在的におきている、岸を父祖にした安倍首相の、安保体制や「1億総活躍」である。国民ひとりひとりが、完全に無視されて行く共同意志の転倒だが、巷次元でのコンビニなどの店員ひとりひとりにさえも起きている集団心理現象でもある、目の前の客の顔がみえなくなっていることに同調している。

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