『ブルデュー国家資本論』脱稿:国家論3部作完結:国家資本とは主語制様式の集中化において形成されてきた

  • 2017.02.20 Monday
  • 22:28

 

昨夜、ようやく『ブルデュー国家資本論』を脱稿、同時に印刷へおくった。発売は、3月15日。640頁。どうしてもこうなってしまった、いたしかたなく、かなり文字を詰めこんで、レイアウトしている。

これで、吉本共同幻想国家論、フーコー統治制国家配備論、ブルデュー国家資本論、の3部作が完成、ひと区切りがついた。

はっきりいって、世界初の「国家論」だ。この3極を構成した論理を、誰もなしとげていない。そもそも、吉本の日本語を世界の一流の論者たちが読み得ていないのだから、たどりつくはずもない。それほど、世界は、もう遅れている。こちらは向こうを読んでいるのにだ。

国家を論じるにあたって、共同幻想概念をもたずに、何ごともなしえない。

 

この3著は、方法を一貫させた。それぞれ、一つのテクストを徹底して読むこと、そこから「意味するもの」の作用を、読みとること、そして3者を総合交通させる、という手法である。

邦訳が使いものにならないから、必要な補助物も、すべて原著で読み直し、「国家」論へ関係付けた。

ブルデューの『国家について』は幸い邦訳されていないので、それ自体にとりくむことができた。9月に本格的にとりくみはじめ、12月末には読了できていたのだが、どう整理づけるかで、2ヶ月さらにかかってしまった。やはり半年以上かかってしまった。もう、これは知力ではなく、体力であった。かなり、目にきている。

字をつめこまざるをえないのも、32頁の1折りのコスト削減のためゆえ、ご容赦ねがいたい。普通の組みにしたなら、640頁は、1000頁なってしまう。うちからの書は高いなどといわれているが、まったく原価コストを再生産するだけで、儲けなどはまったくない。流通が、3割5分とるゆえ、そうなってしまうだけで、うちの出版局の問題ではない。

直販になりうれば、半額近くになりうるのだが、読者の方がまだその次元にいない、仕方ない。

 

ブルデュー自身の論理が、穴ぼこだらけであり、かつ、なにもかも行きつく先には国家があるという短絡手法であるため、どうこれを生産的な継承へひきだせるかで、苦闘した。

「意味されたもの」は単純である、家族・「王の家」の世襲的再生産様式から、国家貴族の「能力・メリット」再生産様式へ移行した、そこに法律家たち・司法界の編制がなされて「官僚制再生産様式」が出現した、という軸である。もう、これは、論理的に、国家次元と法・官僚次元とが同一化された論理破綻なのだが、それではどうしようもないゆえ、思考されている理論要素を再構成して、自身が提示しながら何ごとも概念化しえていない「国家資本」「国家アクトactes」を練り上げていくほかない、と象徴資本や「再認」など理論基礎を見直しながら、わたしなりの構築をなした。

象徴資本の集中化によるメタ資本が、国家資本だというのだが、それは何ごともいいえていないで「支配」へと短絡されてしまう。

ここに、国家を生産者であるかのようにしているもの、つまり「能力」に依拠した法律家や官僚を産み出しているものは、「主語制様式の集中化」において蓄積してきた国家資本の「効果」であることがわかってきた。

なぜ、学校文法で、主語がありもしない日本語だと主語化するのか、それは諸個人の認知思考において、国家や社会を主体化・生産者化・行使者化するためであることが見えてきた。自分は社会的代行為者となってこそ、主体化・主語化できるということがかさなる。

レーニンが「国家権力」所有があるとしたものさえをもつくりだしてきたのは、国家を西欧でも主語化していたのだということが、みえてきた。言語市場の統一化は、主語制様式の統一化であったのだ。

「共同幻想の統治制化は「国家資本」を主語制様式へ集中化し、そこからさまざまな諸制度。諸機関を国家配備してきた」と、3極がまとまった。

 

国家に実体などはない、しかし、国家は国内の物事のすべてを統治しているだけでなく、生産者として、行使者として振る舞っているかのように思われている「国家思考」が、「わたしは日本人だ」という末端にまで無意識に浸透し、国家が国民を守り、安全であるかのように防衛していると「国家認識」されている、しかも主権は国民にあるとされて、国家の国民無視の横暴さに、政治家たちの考慮の無さに憤ったりしてもいる。こうした、国家認識・国家思考は、認知諸構造と客観諸構造とが一致されたもので、社会的代行為者の諸個人が形成されていく過程で領有され、知覚・評価カテゴリーになって身体化されている。それが、国家・国家資本がつくったものだとされてしまう。

すると、自分がなしていることとは別のことを実際には為しており、自分がこうだと考えていることとは別のことを為している日々の様態になり、それが「それはそのようにある」と自然化されていく。国家は国家である、学校は学校である、経済は経済である、という「界」が実際にすべてだとなっていく。

これが、国家資本であり、共同幻想であり、統治制である。

国家は支配も、命令も、抑圧もしていない、そうであるかのように思考されているだけのものだ。

 

ここが改めて把捉されると、自分の再認の認知構造がどうなってしまっているのかが、すうっとみえてくる。

そこへたどりつくために、各600頁もの言説思考過程の訓練を自らに課すしか無い。

国家を知らないことは、自分を知らないということだ。

だされた結果だけを構成していけば物事はなされるとみな思い込んでいるから、同じことしか繰り返さない。

だれがみてもおかしいという物事が、確固として維持されていく。

自分が日本や物事をかえていくことはできない、国家がなすべきことだと外化されていく。主語制は国家が集約しているからだが、それは、しかし自分がそうしたものにしているからだ、ということは考えられもしなくなっていく。

もっとも遠いもの、それはもっとも身近なものであるのだが。

さて、この日本で、いったい何人が、この3著をよみこめるのか。

わたしは売れる市場のために書物を書いてはいない、完売して制作コストがまかなえゼロになる。損も得もしない。物事の事態の本質を見極め、現実実際がどうなっているかをひたすら言述生産している。書かれないかぎり現実にはならないからだ。

この先に、思考や理論は拓かれていかねばならないのだが、そうしないかぎり

知の腐敗の国家思考が蔓延してしまっている情況をつきぬけていくことはできない。

Japan vision会議は、この先へ、プライベートな資本の力としてのビジョンを開く。そのための地盤は開削した。

 

 

 

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