トークイベントへの一つの精神分析

  • 2017.04.20 Thursday
  • 11:56

トークイベントで語ることに対して、何にこだわり、私は逡巡しているのあろうか?

願望を充足させるためではない、願望は充足されないことを知っている、つまり「不満足な欲望を持ち続けている」ということだ。

それは、欲し続けることを欲している、

何を? 聴衆がわが書を読んでくれることを、欲望している、しかし、その欲望は永遠に満たされないであろうことを知っていながら、認めることができずに、欲し続けている。

聴衆が、こちらへの関心を持つことではなく、関心を引きつけることができる自分を私が欲している。それは、聴衆がその欲望、関心を持つことを、欲望することになっている。それは、私ではないゆえ、不可能である、私にとって欠如となる。

聴衆を媒介にして、人々を見ようとしている、一体なぜ、国家を考えようとしないのかを、考えないでいられるのか、考えている私は、一体どこにいるのか、書いた本の中か、そこをはみ出した場所にいるのか。

意識的な願望と無意識的な願望は、このようによじれる。

私は、国家論を対象化しえた度合いに応じて、共同幻想の外部に立つ目を持ったが、同一の共同幻想の下にいる。この矛盾とズレにこそ、知の言説化が産み出される裂け目がある。書かれたことに解はない、書いたことと書かれ得なかった所との間に、真の問題がある。だが、それこそが、国家資本の欲望のシニフィアンの場である。聴衆を含んで人々は、国家資本の欲望の原因である、それを人々は欲している。何に、人々は魅了されているのだろうか。

大思想家は、そこで、、自らを「ファルス」機能させる。だが、私は、ファルスになることを、自らに拒否し、心的な去勢を構造化して行くことが、知への道であると思っている。聴衆に歯がゆい思いをしているのではない、自分へ歯がゆい思いをしている、読まれえないものを書き上げているからだ。なのに、呼びかけている、国家の呼びかけとは異なる呼びかけがありうるのだと幻想して。しかもトークイベントでパロールしたことは、しなかったことのことであり、書いたものをほとんど何も語っていない。

そして、断念された願望を現実生活へもたらして、また書き続けていくことを欲していく。私が願うものを私にくれては、だめだ、と言いながら。

欲望とは、存在への憧れであり、同時に欠如であることの帰結である、欲望を享楽へ転じなければならない。欠如が満たされないことを保障している、私が発したいかなるシニフィアンであれ、意味されたもの=シニフィエは決して完全には明白ではない、なぜなら、曖昧でないものは何も言うことができないからだ。つまり、人々に、国家は曖昧ではない。

マルクス主義的言説がダメなのは、意味すれば意味したものは明白になっていると幻想したままであるからだ。言葉で定式化されたことは、私/人々の欲望のシニフィエではない。

私のトークイベントでのパロールは、無数の意味を喚起して、特定の指示対象を特定することはできない。欲望される何かが、いつも残されていく。

終わりのない探求が続けられていく。

享楽は、他者を設定しないところに働く、読者を考慮せずにこの二十年書き続けてきたことだ。そこに欲望は出現しない。

欲望の罠にだけはハマってはならない。

 

出版社一般が書き手に求める「わかりやすさ」は、読者の欲望に応えうるからだと錯認しているものだ。何にとっても十分ではない。

わかりやすさなどは、どこにも存在していない、存在はただ探求的である。

ある出版社の社長は言った、読者はバカである、バカに向かって書けと。それはバカであることを出版社が欲しているだけに過ぎない。そういう出版社と作業はしえないが、圧倒的な書物はそうなっている。すると読者は著者は自分よりバカだと、読んで安心する、欠如に傷がつかないからだ。

私は、読者は私以上に知っていると前提にしている、人々は知っているから問題などにしていない、曖昧さなどないのだ、それが再認の構造であり、幻想の力である。主体が、現実に対してもつ関係を修正する必要などはないのだ。著者の無力さの方を、読者は知っている。

だが、私は、現実への関係を自らに対して修正ないし転移しようとしている、自由でありたいからだ。人々が知っていることを知ることである。それとは知らないで知っていることを知ることである。対象を分析することではない。フーコーや吉本を解釈することではない、国家という自分を知ることである。想像的関係において、自分の偏見、物の見かた、現実についての考えを語るだけの大学人、大卒知性に「対象」はない。自分の像があるだけだ。レーニンは国家権力という像を自分で作って、自分で行使しただけである。象徴的な水準は、マルクス主義によって何も解明されていない。どうあっても言い得なかったから、想像的に国家権力、権力奪取を想像し、想像的に実行した。凄まじいことだが、その効果は、スターリニズムの現実をもたらしただけだ。企業が今、そうなっている。国家資本の壁で、現実的なものが、象徴化に抵抗しているからだ。現実的なものが、さらに抵抗してくる。

だが、象徴化=ファルスは、もはや何らの力も持ちえない。主語制の疎外でしかないからだ。ここが、精神分析的思考からの離脱のポイントになる。アルチュセールは、象徴化から落下した、ブルデューは象徴化の欠如に落下した、フーコーは、想像化も象徴化も拒絶した、吉本は、象徴化をはじき飛ばした、そこに共同幻想の穴が出現した。だが、述語制シニフィアンは、共同幻想の穴を充満させている。それを、まだ、誰も知らない。共同幻想シニフィアンから排除されるシニフィアンがある。そのシニフィアンは、なんの意味も持っていない。。。。。。。

 

 

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