西部劇、モンテ・ウォルシュの、待ちに待ったDVD発売!
- 2017.05.19 Friday
- 01:21
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リー・マービンとジャック・パランスの名作「Monte Walsh」が、ようやく発売された。
もう10年以上前、ビデオの再発売もなく、新宿のレンタル屋でようやく見つけて、ダビングして見たものだが、西部劇俳優たちが必ず自分が死ぬ最後の映画を撮る。そのリー・マーヴィンの西部劇最後の傑作だ。
老いた二人のガンマンのほのぼのした友情だが、そこに殺し屋がくる、それはウォルシュことリーが、決闘ルールもなく、相手が銃を抜く前に撃ち殺してしまう、そのペーソスがなんとも言えない。パランスも死に、愛馬に語りかけながら荒野を一人去っていくリー・マーヴィン。しかし彼は、自分が死ぬ作品にはしなかった。
西部劇で、特に好きなのは、スティーブ・マックインとリー・マービンだが、リーの「キャット・バルー」の酔っ払いの名演技も抜群だが、このモンテ・ウォルシュが一番いい。
フィルム・ノワールの「ブラック・エース」と一緒に出された。
西部劇傑作シリーズが、もう19巻にもなっていて、いわゆるB級西部劇も観れるのだが、ただ貯めていくだけで、一つもまだ観ていない。というのも、じっくり観て、西部劇論を仕上げたいからだ。基本となる代表作はほぼ全て100本ぐらいは観て、10年前に草稿をあげてから、書いていない。高倉・藤任侠論は、ほぼ全部、150本観て、納得いく形で仕上げられたが、西部劇はまだ枠が決まっているだけで、無数のB級西部劇があって、仕上げきれていない。文献は、ほぼ揃えてある。
2015年にフランスで出版された、Encyclopedie du Westernの上下2巻の大著が、1903〜1955年、1956〜2014年まで網羅しているのだが、この本ぐらい写真を豊富に使いたいものだが、無理であろう。
前段階で、サム・ペキンパー論は書きたいと思っている。
まだ、国家論補遺の書き上げに、うろついて、ラカンを踏まえた「再認・誤認論」は完成間近であるが、再生産論が残っている、正直めんどくさい。頭の中で、もうわかってしまっていることを書くのは、義務のようなもので、早く解放されたい。
述語制論も、もう基本はできていて、ただ例証、実証化するだけであるが、今年いっぱいでは終わらないであろう。江戸期の文献解読が、いささか大変である。
早くあげて、遊びに入りたい。
近年、西部劇が、作られている。やはり、西部劇を撮らないと、俳優としてはけじめがつかないのであろうか。イーサン・ホークやナタリー・ポートマンまで撮っている。キーファー・サザランドも、ヤング・ガン以来、新たに撮った。
荒野の七人の新が、作られたが映画館へあえていく気にはなれなかった。しかし、評判では面白いという、来週にはDVDが発売だ。
新作単品ものは、ボヤッと観てはいるが、正直面白くない。
なぜか? シリアスで、暗いのだ。シニフィアンが、消えて、現代のシニフィエになってしまっているためだ。
西部劇は、映画の世界遺産であると思っているわたしだが、その筋は、消え去っていない。社会を撃ち殺すメタファーが、古典的に暗黙知で作用しているのだと思う。痛快さは、そこにある。「社会」の限界が、現実になっているからだ。
西部劇の背景は、日本の明治維新期に当たる。アラモの戦いが1836年、テキサスの独立。米墨戦争で、1848年メキシコが西部領土を手放し、1849年ゴールドラッシュが起きる。いわゆる西部開拓史が、1839〜1889年だが、南北戦争(1861〜65年)後が西部劇の主なる時代である。リンカーン後だ。それ以前のものももちろんあるが、ガンマンは、南軍の敗残兵である、シェーンがその象徴になる。シェーンは1892年の「ジョンソン郡の戦争」のメタファーで、この戦争の史実に近い西部劇は「天国の門」である。ビリー・ザ・キッドの出現は1878年「リンカーン郡の戦争」の史実である。OK牧場の決闘は、1881年である。1900年を超えるとマシンガンが出てくる、リー・マービンの「プロフェッショナル」がその映画。メキシコ革命、1910年が西部劇の終わりごろになる、ペキンパーの「ワイルド・バンチ」がその頃、マシンガンが登場している。いまあるUSAの統合などは、1920年のことでしかない。
時代劇も史実を背景としているが、西部劇と何が違うのかというとメタファーのエンタテイメント化が西部劇は長けている。時代劇はメトノミー的でしかない。
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