横山大観展にがっかり:文化資本欠落の美術館
- 2018.05.16 Wednesday
- 13:45
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大観展に期待を込めて行ったが、「生々流転」が圧巻のメインであるだけで、大観の全貌とはほど遠い、中途半端な展示である。
近代美術館には、いつもがっかりさせられるが、カンジンスキーの時もひどかった記憶がある。
展覧会で、充足させられたのは、ロンドンで観たカンディンスキー展、パリでのモネ展だ。どちらも、3回観て回った、出口を出ても、また入れてくれる。ほぼ全貌に近い圧巻の展示であった。
日本の美術館の未熟さには、いつも愕然とさせられる。「つかめない」。ただ、いくつかの傑作の点があるだけ。傑作が生み出されて行く、背景も、流れも「つかめない」。要するに美術館に「探究」がない。
それが、日本美術史総体の、美術の述語制など把捉できない結果をもたらしている。
大観で言えば、朦朧体の探究とそこからの離脱、そして「富士」の霊感への転移、生々流転への執拗な固執など。
ただ、今回、わたしなりに感じたのは、大観は下手だったという実感だけだ。もう、若冲や雪舟や宗達、いや狩野派でさえ、光琳や酒井抱一など、また浮世絵でさえ、そういうものを観ている私たちに、素人でさえ、大観が下手だったということはわかってしまう。
すると、大観は、一体、岡倉天心という日本美術をある意味ぶち壊した人と協働して、何を破壊し、何を創出したのか、実際に感知したい、そこが開かれていない美術展になんの意味があるというのか。下手であったことにも意味があるからだ。
大観で一番好きなのは「無我」であるが、その展示さえない。「無我」がどのように文脈化されるのか、見るよしもない。
富士や龍の表出さえ、見れない。ただの御用絵師だというものが、後ろに残されたままになってしまう。そこを突き破る大観の美表出があるから存在しえているのに、何も見えてこない。国家資本化される富士の向こう側があるはずだ。
要するに、美術館にコンセプトやビジョンが全くないのだ。キュレーターたちの文化資本のなさ、知性のなさ。
日本美術は、明らかに、技術科学や哲学や学問、さらには、経済・政治の普遍指針となりうる文化資本を世界へ向けて有している。それを浮き立たせられない、ただの展示に「美術館」の意味などはもうない。日本という深い「対象」を作り出さねばならないのに。
こんなことをし続けているから、低次元の美術学者たちが、いい加減なことを言って、ごまかしている。
絵画の私的所有、公的所有がどうのの問題ではない、美表出の意味が把捉されていないからだ。所有=所蔵が美生産と分離されている規制条件など、世界のどこでも同じである。美術展覧会は、絵が世界に散らばってしまっている、そこを超えていかねばならない。
ロンドンのカンディンスキー展で、一番わかったのは、社会主義時代の暗い絵であった。またコンポジッションの全貌がはっきり見えた。民俗誌的次元からの転移もキャッチできた。いろんなことが、ほぼ全貌の脈絡から感知できた。それがあったため、わたしは、ドイツのムルナウのカンディンスキーの家まで行って、彼がミュンターと一緒に住み描いた街を肌で感じることをした。
モネ展は、いかに、彼が点描へ至り、試行錯誤で、麦わらから睡蓮へいたったのか、「光」や「水」の対象表出が、手に取るようにそれがわかり、モネ美術館へ翌日行けば、さらに根拠、格闘が感じられ、そして改めてオーランジュリーの睡蓮を見れば足跡がたどれる、そうした「パリ」の場所がちゃんとバックにある集約的展示会であった。そして、翌年、モネの棲家、ジヴェルニーへ行き、その庭園に感動に打ち震える。そのあと、ルーアンのモネが連作で描いた教会にまで、足をのばした。
言語化しえない、知覚・感覚の領有は、美術を生で見ることにあるが、「場所」まで感知してのことで、語られえていない対象aの空が、感取されるのだ。
絵画は絵画だけの点ではない、必ず「場所」がある、カンディンスキーの抽象画にさえ場所がある。
こうした、美の連関が、美術表出の全貌と根源とを感じとらせてくれる、美の場所の配備がある。
西欧礼賛しているのではない、美術への真摯な取り組みの本質的な構成が、日本には、それ以上の美の圧巻の生産と蓄積があるのに、なされていないことを嘆いている。
日本の美術書のずさんさにもそれは現れている。商業出版に負けている。
いくつも、たくさんの美術館がありながら、日本の美の文化資本はズタズタだ。
来月、いわき美術館での高倉健展に、講演で呼ばれている。
その展示写真集は、比較的に非常に良くできている。
任侠映画は、ただの時代状況の繁栄ではない、日本民俗心性の本源を表出したのだ。それが武士につながる「ごろつき」であり「侠」である。背後に「国つ神」がいるのだが天照大神へ組織が転じられてしまう。片岡千恵蔵親分は、それでも「お国」の愚行に同調はできないと「侠」を貫く。
いわき美術館の方が、拙書の高倉健・藤純子論(「高倉健・藤純子の任侠映画と日本情念:憤怒と情愛の美学」)を読んでくださっていて、招かれた。
高倉健について公の場で話せるありがたさに、喜んで即決引き受けた。一番語りたいことだ。
鶴田浩二をインテリ礼賛し、高倉健をでくの坊扱いした三島由紀夫など、日本を何もわかっていない。鶴田は脇役でこそ、高倉健や藤純子と対比的に「静」の鮮やかさを存在発揮しえている、鶴田の単独任侠物のひどさを全く観ていない三島である。(任侠だけでない、三島の神や神話への解釈などひどい三流の浅薄な代物)。三島が礼賛した「博奕打ち 総長賭博」など、任侠映画がいきづまっての、全員が失敗・挫折する最悪の映画である。亡びではない、ふんづまりである。対関係が全て破綻するからだ。何がギリシャ悲劇だと、呆れて笑ってしまう。
高倉・藤の任侠映画は、日本映画美、そして民俗心性の究極的頂点だ。他国では、絶対的に描き出せない(それは「ヤクザ」などではっきり出た)。「善」や「進歩・発展」の「社会」擬制が徹底して暴かれている、そして純愛の極致が描き出される。ラブシーンなどに「愛」は描かれない。手渡す雨傘の、微かな指の触れ、その温もりである。
先日脱走犯で騒がれた、塀のない刑務所の造船所は、「新網走番外地」(流人岬の血斗:降旗監督)で描かれている。社会善意の擬制を暴く高倉の迫力はすごい、本質である。健さんは、網走から「大学」と呼ばれていた学生さんが持ってきて植えたハマナスの花にいとしげに水をかけてやって、彼を殺した不条理な輩たちへの殴り込みに行く。などなど。
わたしが一番好きな絵は、ルオーである、そしてカンディンスキー。
モネは、論じなければならないと思っている、小林秀雄の近代絵画論批判としても。
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