日大ラグビー部の問題と国会答弁の同質性:大卒知の退行現象の典型

  • 2018.05.26 Saturday
  • 13:09

日大ラグビーの問題に対する、監督、コーチ、司会者、そして学長などの大学対応に、「呆れ果てる」人たちは、自民党議員にまで及んでいるが、自分たちの総理や秘書官や官僚たちの国家答弁と同質であることを、知っていながら、そこは口に出さない、いい凡例がよそで出てきてくれたと、他者に依拠して、「誠実に話さない」=「嘘を正当化している」事態の日々に、鬱憤ばらしをしている。

官僚や秘書官たちは「上手にやった」、日大は「下手にやった」、これは学歴の違いだ、とでも言わんばかりであるが、「日大のブランドが落ちますよ」という記者団まで含んで、低脳な大卒知性のおしなべて同質の表れに、うんざりしているのは、もはや「国を憂う」事を超えて、崩壊する日本のいきざまに、なすすべを失っている日本があるだけの諦めと「関係ない」自分の居場所さえなくなっていく恐れを覚えるのだが、こちらの日常はまだ安全だという思い込みからであろうか、内閣支持率は、30%台で下がらない。この30%が、日本を間違いへと促進している。ノーというのは40%超えて多いのに、間違っている低いほうが日本を崩壊へと動かしていく。

 

日大監督・コーチは、大学で「無謬性」を保証された大学教師たちが、受け手の学生たちの「あきらめた寛容さ」の日々の中で、自分が何をしているのか喪失した典型的言動である。

真に何をしたかの関係がわからなくなっている典型だが、「ルール違反しろとはいっていない」、しかし社会諸関係の<結果>の中で「自分が責任をとる」と規則表明すれば、立場を保てると、結果間違った(らしい)ことの責任を自分はとるという「無謬性」を維持しているだけなのだ。だから、平然と誠意のみじんもなく、国会答弁のように「間違っていない」と応えている。追求する記者は、国会の野党と同じ、納得いかないと、同じ土俵で質問し続け、関係の本質作用に認識が及ばない。すると、司会者が「もういい」、国民が見ていようといまいと関係ない、打切りだ、と国会の強行採決と同じ仕方で、審議尽くした/答弁し続けた、つまり規則遂行はした、内容などどうでもいい、手続きは済ませた、と強行採決、強行切断する。

 

大学という世界では、(ブルデュー『再生産』をふまえてのべると)、次のような事態が常態化されている。

学者風の語りで真理を述べているかのような大学教師たちが、最良のメッセージをできるだけ最善を尽くして、惜しげも無く努力をそそぐ空しさでもって、学生たちと物理的かつ象徴的な距離をとって、裁可賞罰の権力(成績評価の絶対権力)を行使し続けている。スポーツサークルでは、選手選択の裁量認可。

学生たちは、あきらめきった寛容さでそれを受け入れ、単純化、文脈の取り違え、二番煎じ解釈、おうむ返しの言述、陳腐な答案で返していく日々を心身化している。ともかく単位だけとれて卒業できればいい、学問内容などどうでもいい。

そこで、教師側は「理解されている」という幻想をもち、学生側は「理解している」という幻想をもって、真理の最良メッセージを最悪の受け取りとして、虚構的コミュニケーションに入っていけるよう仕向けられ、良きパロールは教師から学生へ、悪しきランガージュは学生から教師へ、といつも決まってなされるとなっている。「つぶせ」と言ったが、反則しろとは言っていない、と反則行動を促す関係性了解の作用への認識が全くない。これは、大学知性一般現象で、意味された事を生み出している意味する作用が、一義的にならない事を理解喪失した「大学人の言説」の一般化した本性である。

教師のこれ見よがしの長口上を理解できずとも、「あきらめて大雑把な理解に甘んじることが大学=学校システムへの適応の所産・条件である」ことが、学校でずっと続いていて、大学で完成されていくのだ。しかも、この流通を過大評価することが、教師・学生の相互義務だとされ、互いに損害が起きない割りの合う振る舞いでもって、学校=大学の掟に従い続けている。

その効果は、大学教師も学生も、自分の理解と知識の水準が暴露されないように、二流の二次的結合でなされていくようにしていく技術の習得領有になる。

そして、「検証可能なものと不可能なものとの中途半端が、真実か誤謬か、真実か嘘かの可能性を曖昧に結果」していくのだ。今、あちこちで起きている実際である。

これが「大卒知性」である。

スポーツ部の正しいあり方の問題ではない、大学という制度編成が、知性・思考・認識認知そのものに及ぼしている、本質的な問題であるのだ。記者会見で詰問する記者たちも、日大に怒っているスポーツ評論家たちも同質である。対象がシニフィエにないことに無知である大学知性である。

 

日大は、大学の現場でそれを露出し、国会答弁は、その効果結果として、「国家最高決定機関」においてそれを実行している。

野党も記者もマスコミも、批判・非難する側も同一同質である。「真実の究明が求められます」と必ずT Vでは、締めくくられる。真実など、関係連関において明証に露呈しているのに、シニフィアンの連鎖が先行するシニフィアンを隠し、シニフィエに転化される事象しかみれない大卒知性である。

さすがに学生たちは、監督が嘘を言っていると表明するようだが、日大学生たちは、腐った大学への反乱もしない、誰かが改善してくれるだろうと、一部指導者たちの不祥事に共鳴しないが、それを輩出しているシステムに共謀し続けている。かつて、学生反乱は、日大から起きて全国へ広がっていった、大学管理への学生たちの怒りであり抵抗であった。文書真実表明などで済まされる事態ではないことに、学生たちの認識もいたり得ていない。

大学機構に限らない、大卒組織管理者たちの無能さが全ての機関で蔓延している。制度に従い奉仕するようにだけ仕向けていく、それを認識さえできていない、大学理性なのだ。

 

何が、隠れているのか、何が否認されているのか。

大学知、大卒知そのものの作用である。シニフィアンを全く認識できない、それを否認し続けている「対象」喪失の思考形態である。それは、理解されている幻想と理解している幻想との共謀において、徹底して否認されて、誤認を正統化する再認へと構造化されている。思考形式は、否認したこと自体をさらに否認する事で、自らの正当化を正統化するのだが、大卒知性は、そこに一番長けている。そして、かかる事をなす自己主体さえが<自己>を喪失していく効果になっている。誠意をもって公開記者会見さえした当事者学生は、わかっているのに反則履行した。選手登用されない目先の利益しか見れず、その反則行為の結果、アメフトさえできなくなってしまう自分喪失されてしまう関連結果を見ることさえできなくなっている。大学知性思考は、対象喪失・自己喪失を生み出す。

ここにもう一つ、監督が絶対的権力を所有しているという誤認が作用している。

権力所有者など、生活空間世界では、どこにもいない、周囲がそうなっていると承認してそう思い込んでいる転倒当事人物がいる関係があるだけだ。疑うなら、本質と筋から権力者とされている者が「間違ったことをしているなら」攻撃して見るといい、間違っている事態の時、あっという間に無力さは露見する。けだし、そうすることで自分にも害がくる、だから批判攻撃しないとなっているだけだ。自分だけ都合のいいことをする正義などは、もっと害悪だ。だが、捨て身で行くと不思議と、突破できてしまう。関係が間違いなのであって、哀れな権力当事者には退散できる出口をおいてあげないと、未熟な政治にしかならない。

 

大学知性の典型的現れが「東大卒エリート」財務官僚佐川の仕方であったが、権力利害の忖度連関は考慮して公文書改ざん、公文書隠しするが、国家政治総体への認識連関は全くない。そして、自分がなした真実・事実は「法的ルール」の庇護のもとで語られないまま、辞任した。政治的ごまかし=嘘が安倍首相であるが、ここは事実関係のみならず辞任さえ否認し続ける最悪事態になっている。以前だったら自民党でさえ、辞任不可避であったろう、指示したか否かではない、それによって起きた国会空転の元凶なのは事実だから。野党は、シニフィエから攻撃するから、反対対応になってしまう、事実連関を断定すればいい、それをそうではないなら、安倍首相側に証明させればいいのに、反対のことをしている。転倒を構造化している大卒知性の典型である。

 

日大監督を含め、彼らは「嘘を言っている」という自覚認識が全く無い。「真に」そう思っていて、連関関係を思考できないからだ。なんでそうなっちゃったのだろう、という顔と応答である。大学人一般がそうである。この選手の本気度を出そうとした、そして手続きはしかるべくした、ルールを守るなど最初からある、そこを無視していないからだ。指導の生産性の最大化は、勝つこと優勝することにあるとされた、その悪知恵が規則と善意へ転化されて、表明される。そこには、低次元の因果関係すらも否認する作用が働く。

国会次元では、消失したはずの文書が出てきても、「言っていない」主観言述が真実なのだと主張される。「嘘だった」と言わない限り、嘘は真実では無いという、否認の真実化。これはもう、首相次元にまでいたり、知的にとんでもない次元に日本がきている現れだ。他者も、言ったことだけが真実だと裁定している。告白の真実化作用でしかない。

こうした物事の元凶は、「大学知」「大卒知性」である。その主体化効果が、露呈しているが、それでも再生産は保持されていく。

大衆の存在も、大学知判断の水準へ上げ底化されてしまっている。マスメディア作用の効果だ、池上彰解説水準に「世界」現実などはない。

大学知性とは、当該の対象自体、現実そのものを見ずに、実生活から分離された文化・知識の教え込みをなす教師団が自己存続、自己保持をはかって、自らの象徴的な教育権威を存続できるように、蓄積された知識の正当性のもののみの「強制的自発の強化」によって、それを技術的技能の次元だけで学生が習得するように、形式的平等的な序列化をなす知識獲得へ押し込んで、自らがなしていることを度外視して、身につけ、誤魔化すように使える知性である。「客観的には他にも色々あるが〜」「人にはいろいろな考えがあろうが〜」と客観を装い、主観的多様さを装った言明はするが、その客観を何も知らない知ろうともしない、他の考えを探究しようともしない仕方に効果する。

 

大学システムに代わる知的生産の可能条件:装置を象徴パワーとして実際的に創出していかないと、企業も役所も含め、日本国家はとんでもないことになる。

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