「しないことがすることになる」、サッカー最終グループリーグでの「サムライ・スピリット」の喪失:W杯史上最低の試合。

  • 2018.06.29 Friday
  • 23:05

 

一つ一つの各国の試合を、感動しながら観ていた。そこに、最低の試合を日本から見せつけられた。

W杯史上、最低の試合であろう。

何がこれまでフェアプレーを重ねてきた歴史的な結果だ、だ冗談ではない。ただの試合放棄だ。

茶番以下だ。ラフプレーの禁止と、イエローカード枚数を使っての予選突破策術とは、別ごとである。

最善が最悪であることになっているのに、最悪が最善になっていると錯覚する、あまりにもの典型を観て、愕然とした。

ポーランドの方も、勝っているからいいと、日本をレスペクト?! いや、呆れ果てての試合放棄へ付き合った。

だがポーランド側は、選手交代したくともできない、試合が放棄されている証拠だ。

最後の約10分、世界最低のものを見せられた。

 

「しないことがすることになる」、この、日本が企業社会や官僚社会で培ってきた転倒構造が、ついに、W杯にまで染み込んだ。

第1戦、第2戦、と、ギリギリの、懸命な試合をしてきた日本が、チームの協働でひたすら真摯に試合に取り組み、格上と戦ってきた、その感動的な形勢と選手たちの協働のレベルアップが、ただベスト16へ進むための、最低の破廉恥な選択をさせられた。

グループ戦通過に、日本の観衆の誰一人、心から感動した喜びなど感じていない。日本の負の心的態度の遺産である、「仕方ない」、「不本意だが」の忍従の感覚を強いられた。これが勝負の世界だ!? と、冗談ではない。非スポーツの小賢しい仕方以外の何物でもない。卑怯でも、してやったりでもない、「しないことがすることになる」という行動様式の世界戦での行使という、不能化遂行の典型だ。

なんやかやと、正当化の理屈をこねくり回す、協会へ媚びた元選手の解説者たち、そういう屁理屈が、理論と混同されて、理論はエセものだという世界を作り出していくのだが、そのバカバカしい正当化が、またまたTVで普及される。

 

日大アメフトの反則行為と対極にあるが、その同質の基盤は、「勝つためにはなんでもする」という、スポーツには全く関係ない「非スポーツ」の行為である。一方は「規則を破る」暴力で、他方は「規則を守る」イエローカードの「枚数」で。だが、後者は「勝つ」為ではない、「負けている」ことが予選「通過」=結果に負にならないことの保持として、ルール「悪用」された=プレーを放棄し壊した。ただのボール回しのプレー放棄で、ルール保持をなして、試合にならないことをしでかして、利をえる。

かつて高校野球で、松井選手への全打席四球の出来事があったが、それに匹敵する。ルールを破っていない、しかし、試合を、プレーを壊している。戦うことを放棄しているからだ。

プロフェッショナルの所業ではない、スポーツではアマチュアの、官僚的数字管理プロの所作である、ゴール=到達目標をはき違えた「結果」主義への転倒だ、「これも成長への一過程だ」と、冗談ではない、得たものより失ったもののほうが圧倒的に大きい、見えていないだけだ。

スポーツの本筋は、試合をなすこと、ルールを守って負けようとも必死に「戦う」こと、それを多くの人たちが支えて戦いが実現されていく、それが人々に感動を招く。戦いを放棄しての「勝ち逃げ」ならざる「負け逃げ」など、スポーツに全く関係がない。

 

西野自身も、「選手たちは本意ではないだろうが」と知っており、長谷部は「もどかしいが」と知っており、長友は「見苦しい試合だが」と知っている。ただ、おしなべて、不本意に従ったことを、大人として不本意に心的処理している選手たちがいる。その姿こそ、哀れだ。理不尽だが黙して従った日大のアメフトの選手たちに通底するものがある、ただ内田は選手に責任をなすりつける悪人だが、西野は悪人ではない。

次のベルギー戦で、真っ向勝負で勝たない限り(だがそれしかしようがない、決勝トーナメントは本道だから)、世界最低の恥辱として歴史に刻まれよう。

ワールドカップをなめている日本として記録されよう。

だが、ボコボコにされることでの戒めを、スポーツのためには、えたほうがいい。

 

ワールドカップ自体が、スポーツの純粋さに構成されたものではないこと、あらゆる諸関係が入り込んだドロドロのものでもあるがゆえ、その浄化に、世界的な取り組みがなされてきた。その善意を踏みにじった、今回の西野采配である。ただの自国エゴだ、「国家なるもの」がエゴであることを証した事例にもなった。

 

あの、ラグビーW杯での南アに挑戦して勝利した、超感動的なスポーツ精神とは真逆の仕方だ。そのラグビーで決定したのは、しかし日本人ではない、日本をよく知って日本から学んだ外国人であった。

外国人たちが、日本の普遍力、本質力を知って、活かしている。日本人が、日本の良さを忘却している。

どこが、サムライ・ジャパンだ!?、サムライ精神はただの捨て身の斬り込みではない、徹底してフェアプレーに戦い、己が身を切られても相手の骨を切る、少なくとも引き分けまでリスクを抱えて持って行ってこそ、サムライスピリットだ。それで敗退しようが、誰も責めない。いや、今の日本チームなら、引き分けまでは持って行ったと思う。でなければ、6人まで入れ替えた、その入れ替え選手たちが悲劇である。

根性論ではない、それこそが戦略論であろう。

香川が念願のW杯でのゴールを決め、大迫が、乾が、そして本田が、ゴールを決めた。ベテランと若手の共存が見事に機能している。

だが、ポーランド最終グループリーグ戦、最初から勝ちに行く姿勢がない、もう最初から受け身に回っている、そんなことで引き分けキープできるほどW杯は甘くない。ポーランド側は、2バックとも言えるほどに捨て身できていた、それに対する戦略が最初にできていない。案の定失点する。選手が引き分けまで持っていくことも信頼していない表れになっている。託したのに信用していない、ここでも逆生産が起きている。

セネガル戦でも試合運びは優位なのに決めきれず、追いつくだけであったが、日本チームの実力の潜在性はあることが見えた、西野にせめて半年か1年あったなら、その潜在力が生かされ得たであろう。各選手が本当にしっかりしている。それをわずか2ヶ月で引き出し、まとめ生かしてきた優れた西野監督であったのに。

 

だが、本源的な述語性が「他人依拠すること」=受け身にひっくりかえった、このみっともないことが、正当化され横行するようでは、日本は崩れる。どこかの経営コンサルの社長が、「不本意な」西野選択の仕方は、経営の鏡であるかのようにたたえていた、「しないことがすることになる」そういう根元的転倒が経済では一般的に起きている、その我が身を見出したからであろう。そんな経済が破綻するのは、時間の問題でしかない。

 

かつて、中日の野球選手・監督であった山内さんが、話してくれたのだが、雨が降ってきたのでドローにしようと、打たれた球をとらないようにした。フライはあえて落とす。すると相手チームは、打っても一塁へ走らず、だらだらと歩き始めた。それを観ていた観客たちは、「てめえら何やってるんだ」と怒って、球場に乱入した。試合放棄は、観客にははっきりと見える。

それは笑い話で語り継がれているが、今回のW杯は、わらい話にはならない、世界中からバッシングを受ける。容認する人たちは、世の中の転倒世界に同調している人たちでしかない。他国の言などどうでもいい、などの言動は、世界性喪失のただの去勢への防御の自己保障だ。

日本の最低さが出てしまった、恥の究極の姿である。「逃げるが恥」とサポーターでさえ気づいている。以前にも、やったらしいが、それが日本の本性だと世界から侮蔑される。そんな次元では、永久にベスト8には行けない。

なぜか? 目先の自分利益しか考えていないからだ。それは「勝つ」名の詐称のもとでのごまかしである。自分が舞台に立っている、その舞台そのもの、ワールドカップ自体を侮辱しているからだ。他国でも、勝ち点のために類似したことがなされたからといって、正当化は保証されない。愚行は愚行である。グループ戦最終試合を、同時間にするのは、そうした愚行を回避するためであった、それを西野采配は「不本意」にやぶったのだ。

 

もうグループ敗退が決まっても、必死に戦い続けたチームがあり、どん底に追い込まれても、アルゼンチンやコロンビアのように自力で這い上がってきたチームがある。そういう圧倒的な感動にも勝るゲームをして、感動や驚きを日本だけではない世界へもたらしてきた日本が、最低のことをしてしまった。

かわいそうに、グランド上にたった長谷部のあの「イエローカードをもらうな」という指示ジェスチャーは、W杯史上、最低の汚辱の笑い物の姿として記録されよう。フェアプレーの遂行が、アンフェアであることへ転換してしまった、歴史的出来事の象徴行為になったからだ。おそらく、キャプテンとしては世界一級クラスであった彼の栄光に、西野さん、あなたは泥を塗りつけた、それをわかっていますか!だ。だが、長谷部の言動はもう、「ゴール=到達目標」と「結果」と「目的」の関係を誤認した転倒認識に入ってしまっている。それは、プロ・スポーツとして、確実に敗退する、通用しない。「できない」「しない」ことを結果が出たから良いではないかと、ゴールを喪失した、「しないことがすることになる」ことへ転倒したものであるからだ。

 

監督解任劇から、チームをあれほどみごとに形成してきた名監督が、最低監督に自分でしてしまった。

自分を守ることが、自分の喪失になってしまう、そういう逆生産が、W杯にまで出現してしまった。間違いを間違いだとも認識できなくなっている、安倍政権状態と同一である。サッカーではまだ感じられてはいるが、政治では感じられてもいないが、ともに、認識はできなくなった表れになっている。西野自身、自分では不本意だとしている、だが、認識は「仕方ない」別次元へと歪んで自己正当化していく。

逆生産とは、規則や目的を破ることではない、追求していた目的がその目的とは逆の効果を生み出してしまうことだ、産業主義の特質である。

 

グループリーグでも、引き分けになったなら、身体疲労が募る延長戦ではなく、ただPK(サッカーが構造化してきた悲劇的決着付けだが、ドラマである)にすべきだ。そのほうがスッキリする。こんなフェアプレーポイントのごまかし差別化は、ゲームそのものを壊す、それを日本が証明してしまった。FIFA官僚の誤りを、日本が露出させたとも言えるが。

そもそも引き分けで勝ち点1などとしているから、妙な計算が入り込んでくる。戦いそのものであれば、勝ち点1でもおもしろいのだが、今回みたいな不埒な計算の仕方で試合を壊すことが入ってくるのを不可避にもする。

W杯は、戦争にまでなった、選手の人殺しにまでなった、命がけのゲームなのだ。こんな小賢しいことでの予選突破などの次元にはないから、世界中が興奮し感動する。

観客からの大ブーイングは、健全な反応である、試合を見にきたのに目の前で放棄されたからだ。大ブーイングを気にせずに、放棄行動を全うしろという解説者の転倒、情けない。まだ、そんな水準に日本W杯の意識はとどまっている。初代チェアマン的なものの残滓である。

ようやく、W杯日本人監督のレベルまできたかと思いきやの、没落だ。

また、やっと日本総体がW杯の感動へ酔いしれる水準まできたかと思いきやの、脱落である。

 

W杯のフランス大会の時には、直接観戦したのだが、フランスが勝利したときシャンゼリゼ通りは、もう人に溢れ、警察も軍隊も出ていたが、なんの統制もできない状態になったその現場にわたしはいたが(また規制する必要もない、暴徒化しない祝祭であるからだ)、日本は渋谷交差点の隙間なく警察官たちが立ちはだかる規制のバカバカしさ(民衆を信用していない現れ)の未熟にまだある。

日韓同時開催大会の時には、学生たちはまだ、よくてW杯を部屋で一人ぼっちで観ているという段階でしかなかった。観てもいない学生たちの方が多かった。トルシエは、代表選手たちに、体をはってぶつかれと指導していた。それほど、まだまだ世界から遅れていた状態にあった。

亡き木之本と一緒に、できる限りのことをしてきた。青いゴミ袋を持って応援し、その試合後ゴミを拾おうということも、横浜競技場をどうするか決勝戦をどうするかの視察をしていた時、(博報堂にいた)笠原が提案したものだ。それが、もう世界的に定着した。木之本と笠原が、釜本やサンマのポスターで、サッカーのプロ化を進めはじめたのだ。我々は、高校時代の同級生であった。オフィシャルではない場所で、我々は、協会と戦いJリーグを作りW杯日本開催にまで持っていった木之本を支え続けていた。八咫烏マークもどうするかであったとき、その重要な由来と意味を木之本に説明し、維持されることになった。天つ神と国つ神との境界に象徴されるものだから、場所サッカーとナショナル日本が世界へ向かって戦うシンボルになっている、ただの神話ではないと。しかも動きの「3」である、などなど。W杯での参加選手たちへの土産も、うちの研究所が日本の文化技術を伝えようと、京団扇を選択し、英文も添えた日本文化を紹介する「文化技術デザイン」の冊子をともにあげた。などなど。利権などで、私たちは動いていなかった。他にも色々あるが、言うべきことではない。サッカーの普及、発展を多々なすことのみであった。

 

協会会長の擁護論は、日本サッカーを初代チェアマン的にはき違えたものだ、原初の木之本を見習え!と言いたい。日本プロ・サッカーの系譜には、この二筋がある、どちらが真っ当かは当事者たちは知っているはずだ。そして世界のサッカーを穿って見るのではなく、まともにきちんとしたレベルで見たまえ、学びたまえ。何が世界レベルに達した証だだ、勘違いも甚だしい、体制が、何もしっかりとできていないではないか。例えば、メキシコはヤング育成の総体制環境を構築して、アンダーで世界優勝するところまで構築してきた。W杯でドイツを破るところまできた。

しかも監督交代をもっと速やかにしていたなら、西野監督も自分でも自覚しているこんな「不本意なこと」にする羽目にはならなかったであろう。彼の苦渋は、しかし、「ゴール」を誤った選択を、「結果」のためになしてしまった、「目標」が不可避に転倒する。

ハリルの監督の無能なスタンドプレーなど歴然としていたことだ、その協会幹部の管理統率のブレぶりに根元的責任がある。今や世界一流次元で活躍し得ている選手たちのレベルに、お決まりのごとく管理者たちが追いついていない、3流以下の選手だった者たちが管理幹部に居座っている、同じようにFIFA官僚幹部も日本を擁護する、つまり、自分たちがなしたことを自己保守的に正当化しているにすぎない。ギリギリのせめぎ合う戦いで、イエローカードが不可避に生まれてしまうことがある、そこさえ去勢してしまうフェア・プレーポイントのルールだ。試合をダメにする。

 

感動、興奮、期待半分以下で、ベルギー戦を冷ややかに見ることになってしまった。

ただ、選手たちは、思いっきり自分たちのプレーをして欲しい、それしかない、もう勝つなどどうでもいい。はき違えた目標を、全うな「ゴール=到達目標」の戦いへと転じて欲しい。結果などはどうでもいい。でないと、負の蓄積の大きさに、多くの損失が生み出されていくだけになる。

ただ、もし自力で引き分けにまで持って行ったなら、ベスト8への突破はあり得たであろう、同じ位置でも全く違うことだ、そのくらいの段階まで来ていた日本チームであったはずだ。

だが、まだ、日本W杯は、その程度でしかないことが露見してしまった。

 

一番最初の、スペイン/ポルトガル戦は、最高の試合だった、それ以上の試合のすごさを、決勝トーナメントの他国に楽しむ。

フランス・アルゼンチン戦から始まる、すごい楽しみだ。

 

 

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