西野監督の言う、W杯に対して日本が「足らないもの」、または「壁」と選手が感じているもの

  • 2018.07.03 Tuesday
  • 13:19

 

「ゴール」を取り戻して、日本チームは良くやった思う。いい試合だった。

2点を先取し惨敗にはならなかったが、3点も取られた。

だが、アディショナルタイムの最後の時間を守りきれなかった、攻めきれなかったもの、

それがグループリーグ最終戦での、あの10分間のゴール放棄・試合放棄の、見えない内在化の欠落の現れである。

わずか10秒でのカウンターのツッコミだ。あのポーランドとの最後の10分間を攻撃的にしのいでいたなら、見えていた、防げたカウンターである。

 

わたしは自分が言っている事が正しかっただろうなどというせこい仕方をしているのではない。

「しない事ですることになる」ような、そんな日本で蔓延している仕方が世界戦で通用などしないということ、

またプロなるもの、どんな瞬間であれ局面であれ、戦いにおいて一瞬とも手を抜いたなら負けが結果するということだ。

ましてやゴール喪失(放棄)は、まず、論外である。

 

欠落とは、充足である、欠けているのではない、否認によって充足されているもので、

それは否認を否認するから見えない、在るのに非在化される。「得た」とき、必ず何かが「否認」されており欠落される。

「ベスト16へ」通過ということで否認されたゴール、そして本田を除いて選手たちが「ベスト8」の「まだ見ぬ世界を見たい」ということで否認されている「優勝へのゴール」である。

つまり、最初から「負け」=優勝できない、を設定しているのだ。いわば、目的の放棄であるが、低い目的であれば現実性・具体性であると思いこまれている、無意識の「しない事ですることになる」ものの内在化である。

本田のビッグマウスの次元のことではない、本田の「目的」設定は正しい。彼は、最後のキックで、時間延長という「ゴール」放棄をしなかった、攻めた、それでいい。

あの10秒を防げたなら、延長戦で、日本は勝っていたであろう、攻めての克服になるからだ。「ゴール」形成とは、そういうことを言う。しないですり抜けることではない。

 

西野監督の、「何が足らないんでしょうね」=「欠けているんでしょうね」は、不足、つまり充たされていないもの、それは欠如であるが、足らないものは別の物事で埋められている、ないし否認で充足されているものである。

日本チームとしての足らないものは、

+優勝することへの意志の共有と目的の設定

+それを可能にする「ゴール」の形成

+ゴールを形成する諸装備の構築

である。これは、4年間ごとのプレー=試合において形成されていく、その日々の「ゴール」構成である。

これに対して、海外チームへ選手たちが入る事での仕方への依拠しか協会はなしていない。日本でできていない。海外移籍組を外せとまで言われたことさえもある。

木之本が、サッカーをプロ化しようとしたとき、何をバカなことを言っているんだと対応した協会の体質は、まだ払拭・脱皮されていない。

目先の、初代チェアマン系譜の、目先利益獲得のごまかししかしない協会体質の残存だ。

西野監督に、せめて少なくとも一年以上の時間を与えていたなら、ベスト8には進んでいたであろう。

日本チームを客観的技術規準からぐちゃぐちゃにしてしまったハリルの目先ごまかしに依拠した、「ゴール不在」の協会幹部、これが根本原因だ。

その監督交代の遅れの効果が、あの10分間のゴール放棄に繋がり、決勝トーナメントの最後の10秒間を許してしまうことへ繋がっている。

選手だけが試合をするのではいことぐらいは、もう気づいているようだが、10分間の試合放棄を世界レベルに達したなどと勘違い転倒している協会会長らの三流プロの統括マネジメントが、全ての原因である。

 

わずか2ヶ月で、よくここまでゴールを取り戻したが、根底が「欠落している」構造にある。自覚せずに否認されたものの集積が、「欠けているもの」を満たし、選手たちの実感する「壁」を打ち破れないでいるものだ。

この壁は、日本文化の述語性技術の「ゴール」形成をなし得ていないことで、作られている。

個人プレーではない、組織協働だ、それが日本の特質だと「感じられている」が、認識され、技術化されていないものである。主語制と客観への総合でもって、対象が切り取られてしまっているものだ。

身長190cmに対して達しろといっても不可能だ、身長が低くとも戦える述語的協働のプレーの「ゴール」形成である。長友なりに極限までつめた、その先である。

 

スポーツのそれぞれの分野で世界一になった日本選手たちが、成し遂げているものは、日本の文化本質である「述語制の普遍力、その技術化」である、それを「ゴール」領有していることで、主語制の欧米に打ち勝っている。それは、スピードスケートのパシュートにおいて、オランダにうち勝った日本チームに典型的にはっきりと出現して、目にさえ見えた。あの巨体のパワーに打ち勝った、述語的協働である(コーチは、西欧的なものの限界、それを真似する限界を知っていた)。

それは、「スポーツ社会学会」で、わたしが基調講演したものだが、言語は、心身を規制している、その言語=日本語は述語制である、その対象化・認識化が理論的になされていない。わたしは「提起」しているが、シニフィエだけを整序する大学知が壁になって自己保守し、しかも国家資本の保証を受けて大きな「壁」になっている主語制様式(裏にある「客観への総合」)の統合化・統一化・集中化の「転倒」である。

この複合的な「壁」は、日本総体を停滞させている。もうすぐ10日に刊行される『<私>を再生産する共同幻想国家・国家資本』(ehescbook.com)で、明証化した「壁」の複合的構造である。

だが、この壁を突破しているものが二つある、日本の伝統技術、そして世界一の日本人となっているスポーツである。本質は、日本語言語そのものだ。

日本の習慣や感じ方、考え方がわかる監督がこれから必要だとされるとき、日本文化理解のことごとくが主語制へと転倒されている、それである限り日本の力、つまり日本の資本=文化資本は把捉されえていない。主語などない、動作主もない、人称もない、述語的日本語であり非分離の日本文化である。対象それ自体を把捉していない大学知の日本文化認識では、はなしにならない。

「ゴール」も本質的に述語的領域でのことで、西欧言語が理論把握しえていても遂行し切れない次元にある。そこに、デカルト哲学(主客分離)ではない、同時期の宮本武蔵哲学=技術(述語的非分離)がある、それがサムライ・スピリットの自己技術(正確には述語的な非自己技術)である。スポーツは、非分離構成であるからだ。

 

ここへ、サッカーが固有に、資力=資本をかけて取り組んでいかない限り、同じ繰り返しになっていくのみならず、劣化する。

日本経済も同じである。

<対象>それ自体に取り組み、述語的対象を創出していけばいいことで、それを「できない、しない」ことで「する」ことをしているようなごまかしや、物事への否定でもって「わかった」つもりになっている、それを放棄すればいいことだ。目先利益の獲得や結果を「ゴール」とはき違えないことだ。

 

本田、香川、長友、川島、岡崎、長谷部たちが世界で或る「協働性」の次元で築き上げたもの(カズや中田の個人海外移籍ではなしえなかったもの)、その世代が自分へ課して挑戦してきた水準がこれで終わった。次世代がそこをさらに乗り超えていかねばならないが、それは日本サッカー界が世界にない「装備」「配備」をなしうることにしかかかっていない。サッカーをプロ化した木之本のスピリット、意志の初源を見習い、新たな飛躍次元でなしていくことでしかない。

また、国民が、日本チームが終わったからもう観戦は終わったではない、最後の決勝までじっくり味わい、そこに日本が立つ「ゴール」の水準を領有していくことでサポーターとなる。サッカーW杯とはそういうものである。

 

ウルグアイ対フランス、ロシア対クロアチア、ブラジル対ベルギー そしておそらく、コロンビア対スウェーデン、

そしてフランス対ブラジル、クロアチア対コロンビアとなろうか、この先はわからない。このコロンビアの位置に、日本はあの10分をなすようなことをせずにグーループ戦1位通過で打ち勝っていたなら立っていたはずだーー優勝を見据える戦いでなくベスト16通過などと設定したこと、それが西野さん、あなた自身に「欠けていたこと」である。ベスト8どころではない、決勝進出までをも・・・・・。絵空事ではない。西野スキルに「ゴール」としてあったものだ。ランク最下位のロシアが、現にここまできている、それがW杯だ。

 

(ハメスのいないコロンビアは、PKで敗退してしまったが・・・・関係性に変わりはない。今度はベスト8だ、などとまだ言っている限り話にならぬ(目的転倒、ゴール放棄)、ということである。協会技術委員会は、また、外国人監督の要請に入ったようだが、「ゴール」の論理さえわかっていない「結果」主義査定の転倒の「技術」知らずの技術委員会である。西野が創成した「ゴール」次元をわかっていない、あの10分間が誤りであっただけだ。1勝1敗1分の結果としてではない、ゴール放棄としてである。西欧的技術と日本的技術の原理の違いさえわかっていない技術委員会、ただ、データ分析しているだけ、「情報生成」の科学技術さえわかっていない。協会総体が、誤認を継続している、その限り何も進歩はないだけでない、選手への負荷のみが累積して行く。日本人監督に、後始末だけさせている無能さの繰り返し。)

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