知の高度さとは何か?:大学知で事足りていた時代は終わった

  • 2018.07.22 Sunday
  • 23:37

人にはそれぞれ思いや考えがあり意見があり、意志があるとされるが、おしなべて同質・均質の思考形態・認識形態を、大卒知は作り出し、今や社会均質化しているようにみえる。

国家の決定機関、それは国会であるが、国会の茶番劇は、かつてはよそ事の別次元の出来事で、民衆はそんなばかな仕方をしていなかったが、いま、国会でなされていることは、日常の出来事そのものの範例的な現れであるようにみえる。

ほとんど強行採決で、法案=物事が「多数」であることを正統化の根拠にして、吟味もされずに決められる。

それに対する野党は、大臣や議長や内閣の不信任案をもって対抗するが、所詮、多数決で否決される「に決まっている」。

かつては、それなりに道義的、政治正義的に「不名誉」なことの作用を働かせていた「不信任」は、ただの儀式的所作の「処理事項」でしかなくなっている。ヘラヘラと首相も大臣も笑っている。ソフト・ファッショの典型的な兆候だ。この批判相手を「ファッショ」「ファシスト」と命名する仕方も、もはや儀礼的な印付でしかなくなっている。

要するに、少数意見とか、批判とか、反対とか、そういう機能がもはや機能ではなくなっているのだ。

これは一体どこから来たのか? その根拠が「大学知」「大卒知性」であるというのが、国家論5部作を書き上げていく途上で確信したことである。

 

わたしはただの直観であるが、大学教師の8割は無能だと感じ、だが2割は優秀だと感じている。その2割が、少数として、無能な多数によって決定力も創出力も剥ぎ取られている、という判断だ。するとこの優れた人たちは、国会の野党並みの対応しか受けられなくなり、まるでそのようにしかならなくなっていくようにも見える。凄まじい損失である。

 

この多数の大学人一般の思考形態は、「意味されたもの=シニフィエ」だけを観るだけで、対象をそこへ限定づけ、対象それ自体を見れなくなっている仕方。それはさらに本源的に「意味するもの=シニフィアン」に対して完全に無知である。可観測性だけが、事実であり真実であると思い込んでいる状態になる。他方、主観的に「言ったこと=シニフィエ」のみが主体の真実だとされる。

すると奇妙なことに、客観的なものへ総合は、対象自体の総合ではなく、主観の側からの総合でしかない、非総合にしかならない。

公文書改竄しても、当人がそうしたと言わなければ事実にもならない、という場面は国会で目にしたごとくだ。

そして、この大学知の仕方は、細分化・分節化していくことで「専門性」が形成されると官僚化構造へと帰着している。部分しか見れない者が、プロだというのだ。それは「賃労働プロ」でしかない、「創造的プロ」の真逆である。

そして、その評価は「結果」のみで測定される。「ゴール」というシニフィアンを観ることができない、不能評価査定である。

小中校の学校化において、自分ではなくなることが自分であるという転倒構造を心身化し、偏差値が「自己能力」だと思い込まされて、不能学問の大学単位をできる限りサボりながら取得して「学歴資格」という自分自身と全く関係ない疎外態が、自己であるとされてやっと「賃労働」につき、社会的代行者としての生活生存が可能になる。

そんな「主体」が、企業や役所やまた大学の中で、ワークしているのだから、未開、低開発段階では効を奏しても、成熟段階になるとことごとく機能しなくなる。

 

それが、「今だ」。

 

東京大学という「日本一!?」の大学は、世界で40位以下(23位だと文科省は躍起に正当化しているが、世界で低次元であるのは同じこと)、アジアでも4位、早慶などはアジアでもはるか下。要するに、日本は立ち遅れている、極めて低次元に落下している。

それはしかし、日本人の知力がないということではない、知力がその程度に押さえ込まれているということだ。

わたしは世界一流線で研究考察してきた、そこと交通してきた、日本アカデミズムのこんな低次元さの水準で一切していない。

 

固有思考できない、共同思考しかできない知力に成り下がっているのは、大学教師たちの学問水準が、おびただしく落下していることの効果である。フーコーやブルデューを邦訳できる「語学力」はあるが、しかし、フランス語構文と日本語構文の違いにも、思想言説のシニフィアン転移にも全く無知での邦訳である。

文化普及次元での書き物は、役にもなたない安易解説書か、感想文的論稿でしかない。これは編集者・出版社が大卒知の低次元から著者の書くことを低次元化させているからだ。たかだかよくても1000部ぐらいでしかないものに対して「わかりやすく書け、やさしく書け」などと錯覚して、多量商品販売できると誤認しているからだ。

1時間もあれば読める新書などに、「知性」「理性」の表出はない、ただの安直な「シニフィエ」知識断片があるだけだ。

日本のwikpediaの低知性ぶりは、他言語のそれに比して凄まじい、低次元である。日本の知性の劣化がそこに顕著に現れている。検閲している輩たちが大卒知であるからだ。

「書評」も「〜賞」なるものも、大卒知が判定している低次元にある。TVでは、池上彰や林などの汎知主義の軽薄さが流通する。大学人知性が彼ら以下になっている反証である。

 

大学認可で、60単位要されるとするとその科目名は、30科目になり、担当者30名になる。全く無意味である、今や「超領域的専門力」が要されるのであって、科目分節化される知に全く意味はない。わたしの尺度からすれば、それは5科目ぐらいで処理できる。分節化に具備はない、統合構成に意味がある時代なのに、まだ逆をしている。バカで無能・不能な大学教師の講義に椅子に座って居眠りなどしている時代はもう終わったのだ。

我々は、学生時代、ばか専門教授などいらんと反乱した。自分たちで、自主講座し、一流識者を招き、自分たちで合宿し、学んだ。当時の大学教師よりも、今の大学教師はもっと程度が低いであろうに。テストなどいまだにやっている無能大学ばかりだ。成績評価などに何の意味も価値もない。学ぶスキルと全く関係ない、知識積立など使いものにならない。

 

知の高度さとは何か?

それは不可観測性、不可予測性の対象総体それ自体(自分も対象である)へ立ち向かうこと。

主客二分の近代学問体系に代わって、述語制の非分離対象への言説生産を新たに固有になすこと。

シニフィアンの作用を発見することにおける思考様式の働きをなすこと。

3か国語以上の言語領有でもって、その差異の転換不可能性への自覚から、多元性の実在を関知すること。

実際生活環境の設計に役立つ物事の創造開発をなすこと。(実用主義ではない、本質主義として)

などなど。

 

文系・社会系の大学研究者、研究生産者としては、2年に1冊以上の専門考察研究を生産しない者は論外である。啓蒙書や入門普及書などは不要。

三つ以上の専門領域を領有していること。

世界へ役立つ文化環境設計しうる研究生産をなすこと。趣味の研究は重要、それはそれで愉しんですればいいが、それによって研究生産を怠けるのは論外。

3ヶ国語以上のスキルがあれば、だいたい暇などない。世界で産出されるものは膨大である、そのセレクト力能がないと立ち遅れる。つまり、世界線で学術研究すること。

 

海外の研究者に対して言えることは、日本語を駆使できる世界一流の研究者が世界でゼロである、これは述語制への普遍認識がないことを意味する。無知な日本研究者たちがはびこっている、世界も遅れている根拠である。ブルデューの『国家について』の中で記述された日本論などひどい代物だ。フランス語が読めずにフランス史をやっている程度のものと想定すればいい、呆れ果てる。

かつて、英文での産出を試みたが、無意味であることを痛感し、放棄した。あまりに単純化され、シニフィエ構成しかしえない。

要するに、世界交通の次元での日本知性の文化的交換がなされていない。近年の、日本人ノーベル賞受賞者の「文化理性」の低次元さに呆れる。こんな賞ももはや意味ない。

 

1960年代、世界では知の地盤転換がなされた、それを日本の大学は領有し得ないまま、70年代の理論革命を昇華しきれずに、今に至っている。現代思想は、ただのポストモダンの軽薄短小の知の戯れに終始した。そのつけが今きている。

 

ティール組織なるビジネス書を読めと若い人たちから要請されて、レクチャーしたが、その基盤思想は70年代にすでに明示されていた事だ、批判対象とされている「達成型」は、イリイチから学んでの私の処女作(1979年)が批判解析したことである。それが今、ビジネス現場で世界的に話題になっているという。このティール組織は、ある意味、真っ当である。自分をさらけ出し、本音で、自分のしたい事を表明し、世界で意味あることをビジネスでなそうという、全く当たり前のことが、丁寧に叙述明示されている。

現実化されるには、30年、40年の年月が要されるのか、ということのようだ。

 

学生たちの学ぶ環境は「世界」それ自体が環境であって、閉じたキャンパスの大学内にはない。

賃労働大学教師などはいらないが、知やプロの一流の識者やクリエーターやビジネス人との直接交通は必要である。

そういう開かれたコンビビアルな学ぶ環境の大学は作れないだろうかと、本気で動き始めた。

本格的な若者よ立ち上がれ、なのだが・・・・

 

日本で200年間に形成・蓄積されてきた技術や文化資本遺産は、相当に高度で深い。

これは、西欧知が辿りつかなかった地平にある。その普遍性を、明証にしていく事だ。

 

例えば動詞には主体がない、これが述語本質。「飛ぶ」には主体がない。松下大三郎はこれを「分主性動詞」だと概念化したのだが、西欧語は、であるがゆえに「人称」を設定して動詞の人称変化を創出し、主語を動詞へ内包した。だが、日本語は、そうしないで、述語表現構成を作り上げる。述部が統率して、その上部に従属部を配置する、「鳥が」「飛ぶ」、「私が」「飛ぶ」となる。「鳥が」「私が」は従属語であって主語でも人称でもない。意識流の流れは、概念構成は、近代西欧語と全く逆である。

これが「円かなる 月 山の上に 出づ」と連詞化されていく。この「月」を主語だ、などという国文法が登場してしまう。英文法に日本語を服従させる転倒である。真理生産は、逆になる、日本語の述語本質から、英文法を説明し直すことに普遍の水準がある。

などなど。

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