既存の大学教師が教えるものなど、意味も価値もない:大学教育商品経済の終焉を示す逆生産

  • 2018.07.23 Monday
  • 12:57

フロイトやマルクスやヤコブソンを大学で学ぶことだろう、それを教える大学教師が必要だ、と「教師」の存在を意味あるとする人たちは言う。

 

わたしは、学生のとき、マルクス主義教官が教えるマルクスは、全然マルクスではないということを、廣松渉や平田晴明らのマルクス研究を自分で読んで、そして自分で邦訳のマルクスの本を読んで自覚できた。

さらに、自分でマルクス自体を読めるようになると、平田や廣松の「正確な読み」それ自体も、マルクスではないことを関知し始める。それは、わたし自身が、平田を招いて自主講座をなしたときにわかった、この人はただ文献解釈しているだけで、後にわかるのだが、「シニフィエ」の正確な整理をしているだけだとわかる。それが、他のずさんなマルクス主義者たちよりもましだというだけのことだ。

さらに、自分なりの考えができてくると、できないドイツ語をいじくっているだけで、廣松渉のドイツ・イデオロギーの邦訳の根源的な間違いが、はっきりとわかる。つまり、PraktikとPraxisのマルクス論理を、全く理解していない廣松がいる。すると物象化論自体も口でいうだけで、経済的、商品関係への物象化を言っているだけで、なんら把捉し得ていない(拙書『物象化論と資本パワー』)。さらには、後期マルクスが重要だと言っていて、資本論第3巻を何にも読みえていない。「要綱」と「資本論」の差異さえ把捉しえていない・・・というようなことがわかってくる。

学生時代、ウル・マルクス研究を脇において、むさぼるようにマルクスを読んだわたしにとって、大学教師の皆は、「マルクス」を読んでいないということがはっきりとわかる。まして、ヘーゲルやデュルケームやフーコーなど全きに読みえていない。要するに社会科学の基礎さえない。

ウル・マルクス研究とマルクス自体を自分で読んでいたから、学生の頃は、吉本の「カール・マルクス」は、マルクスを読んでいないと裁断していた。経済的分析の複雑な構成を何も論じ得ておらず、そんな経済関係は歴史の中で解決される、しかし本質的な自然疎外は解決などされない類的な存在表出だという指摘の意味がわからなかったからだ。この思想的な意味が理論的形成においても重要だとわかるのは、ずっと後のことだ。

 

唯一納得がいったのは、マシュレとランシエールの『資本論を読む』だけだ。アルチュセールもわかっていないと分かる。バリバールなど論外だと。しかし、邦訳はいうまでもない、使い物にならない。

 

つまり、大学でマルクスなど一切学んでいない。大学教師たちは、似非マルクスを講義していただけだ。

自分自身で本を読み、学んだ。

大学教師などどれほどいい加減で出たらめで低次元であるかを、学生の時に知った。

 

フロイトに関しては、いまだに、それをわかっているな、という学者に日本のみならず世界でも出会っていない。

ただ、ラカン読みによるフロイトには意味があると大きくかってはいるが、それはしかしフロイト自体ではない、ラカンによるフロイトだ。いや、フロイトよりも、ラカンの方が現在本質においては意味がある。

ラカン読みには、世界より日本の方が優れていると感じるのは、ラカンの壁が述語制にあるからで、日本の研究者たちはどこかで暗黙に述語制を感知しているためだと思う。フィンクのように、完全にラカンを主語=主体論的に読む転倒が、世界では多い。

だが、ラカン論者が、社会を論じ始めるとまったくの大学知になり下がる。ラカンの大学人ディスクールを知っていながら、そのあり方への自己批判がなく、大学人言説のシニフィエ、そこに規制される対象の論述をなすのだ。知識として知っているだけのラカンとなってしまう。

 

大学教師が、講義やセミナーで語るものなど、全くに信用できないどころか、相当に次元が低い。文化的恣意性の正統化どころか、個人的不勉強の恣意性を学生の無知を良いことに、正統化もできずに知ったつもりになって「教えて」いる。シニフィエどころではない、そのうわっつらのしかも断片だけが、「知識」として語られ、さらに連続させられるから呆れる。

「知っている」かもしれないが、まったくわかられていない。

こんな物事からの集積体である「大卒知性」は、「思考」ができない、「対象」それ自体を把捉しようという姿勢がない、ただ与えられたものの消化しかしない、自分のことがわからなくなっている。まして、他者への理解は不可能になって、人々一般があるだけになっている。真理や真実・事実は、切り取られたシニフィエだけだと思い込んでいる。

 

真理にこれだという一義性などはない。自分で学ぶこと以外に学ぶことなどはあり得ない。真理は常に生産され続けている。それをわたしは、イリイチと吉本さんとから、直接的に接し、関知して学び取った。その二人の、あくことのない、対象への探究の姿勢だが、世界自体と接している。世界・現実そのものと接する必要は大学闘争で学び取ったことだが、それが創造的な知的生産作業にもなしうるのだということは、この二人から学び取った。「わかった」「知っている」などという態度は一切ない。常に探究である。

 

ある場所で、吉本の「心的現象論を読む」レクチャーを3年ほどじっくりやらされた。そこでわたしが感じたことは、吉本を評価し、吉本思想から積極的に学ぼうとしている前向きな人たちでさえ、こんなにも吉本がわかられえないのかという実感の確証である。アカデミズムは吉本無視で、もっと落下している。

吉本思想さえ理解され得ていない、読まれてさえいない、そこから、吉本思想を踏まえ、世界線水準で自分の考えを産出しているわたしの書がわかられるはずがないという実感をえた。

国家論へ戻ったこと、そしてそれを「ですます」調で書いたのは、もうわかっていることを書いたからに過ぎない。わかりやすくなったと言われるのは、読者の手持ちの次元にまでこちらが戻ったからで、知っていることの次元でのそこから新たな次元を少しだけ出したからである。

『<私>を再生産する共同幻想国家・国家資本』(ehescbook.comへ直接注文を。まだ記載されていないようですが、注文できます。564ページ。3980円+税の定価で購入できます。)では、アルチュセール、ブルデュー、マルクス、そしてマシュレを再び執拗に読み込んだが、「教育再生産」と「家族再生産」の構造は明らかにした。自分自身をえぐり返すような知的作業以外に、私は関心が無い。

 

そのセミナー参加者の中には、入門的解説書まで書く大学人の方が現れたが、その原稿を読まされて「あまりにひどい、学生以下だ、やめなさい」と助言したが、そういう一般理解水準へ矮小化されたものが売れて、「吉本だ」とされる。だが、そんな商品は藻屑のごとく消えて行く、売れていないわたしの吉本論の論述の方が歴史に残って行く。そういうこともわかられなくなっている、商業主義出版が愚かな大学教師と共謀して、文化市場において知を無知の次元へと落下させている日本の出版世界である。専門書はただの閉じた教科書へと「教え込み」知識としてなされる次元へ落下している。

 

テクスト解釈をただの文献解釈だとしている大学知の無知がある。シニフィエ整理などは意味がない、しかし古典テクストのシニフィアン把捉が、日本ほどなされていない国もない。要するにテクストをプラチックに読めていないのだ。だから、語学主義だけで、思想や哲学が邦訳されていく商業主義になる。語学的=辞書的に間違いではないが、思想・理論としては概念空間はまったくずれる。

なされた分以上に、否認されたことが膨大に蓄積されて「いま」がある。この負の遺産は、想像以上に凄まじい退化を効果している。

 

大学は、完全に逆生産の閾を超えた。大学で教育を受けるほど不能人間になっていく。

近頃の「エリート」とされる人たちの短絡的認識行動が、官僚や銀行員、企業人の行動で、公文書改ざん、データ改ざん、人殺しの仕方にまで出てくる。

自分の目の前の地位を守るために、犯罪ないし犯罪的行為をなすことになんらの自省もないのだ。それで、結果、職を喪失するのに。職を守ることが、職の喪失になる、逆生産である。大学知行動の効果である。当事者は結果が出るまで、それがわからない。いや、結果が出ても認識すらできないのではないかと、日本の首相を見ていて思う。規則手続きさえなされていれば、道義も正義も理念もへったくれもないという世界だ。

これは、企業で、売れもしない商品の再生産を続け、役所で、市民無視の規則再生産しかしえない役人たち、<創造>を放棄する大卒経営者たちがあちこちで出現している。

元凶が、大学であることが見えてきた。この教育商品経済は、害悪である。19世紀遺物である、もう逆生産性へと機能停止している。

大学教育商品経済は、あちこちで腐敗現象を露出させている。ひっくり返っているからだ。日大然り、文科省官僚が裏口入学・・・・それ以上に、大学が公開している大学「教授」講義内容の高校生以下の次元に唖然とする。

偏差値能力などで、人間としての能力にはならない。

 

大学資本経済の可能条件を探っている。そうならないと、資本経済が機能する「生産諸条件/生産諸関係の生産・再生産」がなされえない。

さて、大学づくりも妨害されたり放棄されたりするのか、やれるところまでやってみる。

 

  • 0
    • -
    • -
    • -

    calendar

    S M T W T F S
          1
    2345678
    9101112131415
    16171819202122
    23242526272829
    3031     
    << December 2018 >>

    selected entries

    categories

    archives

    recommend

    recommend

    国家と再認・誤認する私の日常
    国家と再認・誤認する私の日常 (JUGEMレビュー »)
    山本 哲士
    ehescbool.comで定価購入できます

    recommend

    ブルデュー国家資本論
    ブルデュー国家資本論 (JUGEMレビュー »)
    山本 哲士
    ehescbook.comで定価購入できます

    recommend

    吉本隆明と『共同幻想論』
    吉本隆明と『共同幻想論』 (JUGEMレビュー »)
    山本哲士
    共同幻想の統治制化として「共同幻想国家論」を構築

    recommend

    フーコー国家論
    フーコー国家論 (JUGEMレビュー »)
    山本 哲士
    統治制化の国家配備を理論解読。
    直販は、ehescbook.comへ

    recommend

    思想を読む 世界を読む
    思想を読む 世界を読む (JUGEMレビュー »)
    吉本 隆明,山本 哲士
    吉本さんとの25年間の対話
    直販、ehescbook.comへ

    recommend

    高倉健 藤純子の任侠映画と日本情念
    高倉健 藤純子の任侠映画と日本情念 (JUGEMレビュー »)
    山本 哲士
    もののふの文化史から「ごろつき」の憤怒と情愛。直販は、ehescbook.comへ

    recommend

    〈もの〉の日本心性 (哲学する日本II)
    〈もの〉の日本心性 (哲学する日本II) (JUGEMレビュー »)
    山本 哲士
    触れえない「もの」を感知し技術化している日本文化。

    ehescbook.comで定価購入できます

    recommend

    国つ神論:古事記の逆立解読 (山本哲士の場所論 1)
    国つ神論:古事記の逆立解読 (山本哲士の場所論 1) (JUGEMレビュー »)
    山本 哲士
    古事記を国つ神=場所神から徹底解読。
    直販は、ehescbook.comへ

    recommend

    哲学する日本
    哲学する日本 (JUGEMレビュー »)
    山本哲士
    非分離・述語制・場所、非自己の日本原理。
    直販は、ehescbook.comへ

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM