Wikipediaの大卒平均以下の知性典型:データにもなり得ていない

  • 2018.08.02 Thursday
  • 00:22

wikipediaは、物事の基本理解を手っ取り早く確認する上で使われたりするようだが、そこにまとめられた低次元知性は、ひどいものである。

特に、日本のwikipediaは英語や仏語などの叙述に比して低次元極まりない。

ブルデューやフーコーやイリイチを、他国のwikipediaと比較して見ればいい。

一番、笑ってしまうのが以下の「独自研究」なるものの削除規準である。

  • 新しい未発表の理論や解決法を加筆する。
  • オリジナルのアイデアを加筆する。
  • 新しい用語を定義する。
  • 既存の用語に新たな定義を与える。
  • 他の概念や理論論証、立場を反駁あるいは支持する論証を、その論証に関する評判の良い資料を提示することなく加筆する。
  • 編集者が好む立場を支持するような形で、既存の事実、理念、意見、解釈、定義、評論、考察、推測、論証を分析・合成するような記述を、その記述の出典となる評判の良い資料を明記せずに加筆する。
  • 新しい造語を、その造語が何らかの評判の良い資料に由来することを示さずに、導入したり使ったりする。

これらは削除される規準らしいが、これは、マルクスやフロイトやラカンや、フーコーなど、理論革命・言説革命を起こしたものを排除するというロジックである。

要するに、シニフィエが一般化され、学術次元から落下した物事を扱うということだ。

シニフィアン作用を排除する典型的な知へのファシズムである、当人たちは平等、客観のつもりでいるから、それは増長される。

 

例えば「資本主義」を日本のwikipediaで、チェックして見ればいい。資本主義の何事も記述されていない。

膨大な資本主義論がある。多様な資本主義の実際現実がある。肯定もあれば否定もある。(このような言い方が、大卒知性、何事かを言っているようで実は何も言っていない、常用される。)

わたしからすれば、ボルタンスキーの資本主義の新精神などは、現代古典とも言えるものになっており、世界の「資本主義」特集では、よく取り上げあられているが、全く皆無に触れられていない。それどころかシュムペーターさえ述べられていない。ヒルファーディングの金融資本主義論も、ローザ・ルクセンブルクの資本蓄積論も、ポランニーも、ドラッカーも語られていない。マクファーレンの資本主義文化ろんも、ブルデューの資本主義ハビトゥス論もない。などなど。シニフィエされたものさえ挙げられていない、こんなものが資本主義の説明だというのか!

マルクス主義的な説明になっているが、現代資本主義論のマルクス主義さえ語られえていない。70年代世界で「評判」になった低開発論も、周辺資本主義論もない、消費資本主義論もない。

 

「資本」など、話にならない。無知丸出しだ。ブルデューの資本概念もない。

何が「評判の良い」だ、「評判」など学問ではない。ただのイデオロギー化された意見である、概念もない、理論もない、最も矮小なものだ。一般見解は、イデオロギーである、客観知識などではない。

検閲している、アホどもが、概念や理論をめぐる象徴的闘争の学術の<闘い=研鑽>を全く了解できずに、卓越したもの、さらには知のヒエラルキーという不可避の政治的構成を、平板化して、そのくせ当たり障りが良いものに落とし込める力量もなく、削除し続けている。すべきはより深き加筆であろう。

 

規準に対する規準の尺度を持っていないのだ。客観化を客観化する視座がないのだ。真理が生産されるものであること、そして真理の生産は、常に、正当化をめぐる象徴的闘争、パワー関係の闘争であること。その中から、一つの確定されたシニフィエ真理などは、絶対的に人文・社会科学では生まれてこない。物事は常に動いているからだ。

 

例えば「国家」の項目を見てみる。そこには、「共同幻想」の説明などは「当然のごとく」に皆無である。オリジナルなアイデアであり、新しい用語の定義であり、既存の用語に新たな定義を与えたものであるから、削除だとされているのであろうか。しかし、非常に「評判」になったものであり、かつ世界の最も優れた考察の一つであり、世界に誇りうる日本から生み出された概念である。この項目を書いた大卒知性たちの程度の低さが、了解できていないだけのことだ。フーコーの統治性もなければ、ブルデューの「国家資本」概念もそこにはない。

そこで次に「共同幻想」の項目にあたってみる。呆れるほど粗末な説明で、学生以下である。禁制論から規範論の民譚的解釈から神話的解釈への幻想構成など、何にも触れられていない。国家の「起源論」など全くない。要するに「共同幻想」など何も論じられていない。三つの幻想の違いがあるなど高校生理解だ。

「禁制」や「規範」の項目にいったなら、もう何もない。そこでおしまい。

wikipediaに「知」は無い、断片データ、しかも矮小化されたデータでしかない。

こんな知性どころか「知識」さえもないwikipediaで、人は考える知識に使う、すると「大学人間」知性のデータ版になる。

 

いや、「評判」どころか一般語にさえなっている、「社会」「文化」「人間」の項目を見て、愕然としない人はいまい。その浅薄さは、知識にもデータにさえもなっていない。学説をまとめろというのではない、学説をまとめたつもりになっている思い込みと断片知識と恣意性の、大卒知性の典型がそこにある。大学教師たちによる、学説まとめの解釈や入門書の程度がそんなものばかりだ、その派生効果であろう。

 

なぜ、こんなことに気づかされたのか、二つ出来事があった。

それは学生のレポートがほとんどこれらの書写しか寄せ集めになっていただけではない、小学校や中学校の自由研究の場で、これらがアクティブに使われて行くのを最近見て、愕然としたのだ。教科書にとらわれない自由研究においてである。本を読まない習慣が子ども時代から蓄積されていく。

それが、もう大人の言動になって出ている。

近年の若手国会議員=自民党員の軽率な発言は、自民党党規にも外れて、失言して、いや言いたかったのはそうではないと、客観次元へ正統化を放棄して、本音の発言=失言となって、発語される。

 

「『伝統的な家族』のあり方は、男が女と結婚し、子を授かって、家族ができ、大昔から同じようなことをして、国を衰退させないように、国が滅びないようにしてきた」、この無知ぶり、記紀の天皇家の多婚系図を、この人は天皇を不届きものというのだろうか。小姓や大奥への無知さだけではない、近代家族基準をもって「大昔」へ普遍化させLGBTの方々を「差別するつもりもなく、多様性を認めていないわけでもありません」とかならず、客観性へ放置して担保し、「申し上げたかったのは、(婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立すると定めた)憲法24条により現状では同性婚の容認は困難であるということ」と正統化へ釈明する。こういう思考形態の素材となっている知識は、wikipedia並みの知識である。「異性愛」の項目の貧弱さを見て見ればいい。同性愛については、長い叙述になっているが、LGBTは今や「削除の審議」にあるとされている。知が闘争であることの表れだが、「規則の遂行」として処理されていく大卒知へ落下するだけであろう。

ともかく、wikipediaの知識は、一般知識にも届き得ていない、まして学術的に論外である。自然科学の方も、ひどいものだ。

そして、本格的な学術記載は、ずさんなデタラメ記載と同格に「独自研究」と見なされる評価規準しか持ち得ていないのだ。

 

客観を装った、典型的デタラメ知識データの蓄積体である。知識データの、wikipedia共産主義=全体主義がそこにある。

大学教師の専門学術論考でさえ無視されるているのがはっきり読めるが、その専門人が有している専門外にたいする大学知一般の典型の現れが日本版wikipediaである。

大学教師が書いているようには思えない、院生か大卒人かであろうが、大学から教えられた知識レベルがほとんどである。

 

第二の出来事。

企業人から言われた、「非分離」も「述語制」も「場所」も、また「ホスピタリティ」さえもwikipediaにないと。

あるわけない、そんな低知性世界に。

経済や技術の開発は、新たなことへの挑戦だ。それは、まだ見られていない、そこにある現実そのものを対象化し、新たな対象として認識・知へと作り上げていくことである。

忙しい企業人は、怠慢にwikipediaをみて、事を処理しているようだ。そんは知性の集積は、激動する経済の現実を何もつかめず、ただなすことがなく「売り上げをあげろ!」と叫んでいるだけで、売上と利益と利潤率の違いへの知識も認識もなく、逆生産へと落下していく。

知性は、生産諸条件の要である。生産者の思考は、生産諸関係の要である。

組織構造がスターリニズム、知識データがwikipediaコミュニズム、そんな企業体が機動する筈がなかろう。こちらが想像する以上に、知の劣化は日本では激しい。

 

wikipediaが真理や事実や知識を作っていくのではない、学術や実際現実の対象化がwikipediaを作っているのに、その転倒がもう起きている。しかも低次元知性によって。

wikipediaは、大卒知性の産物の典型だが、その質は、平均大卒以下である。

個々人の説明など、履歴書以下だ。

 

他のなんとかを知るなどのものは、もっとひどいが、wikipediaを含めこれらは、シニフィエのデータをしかも稚拙にまとめているだけで、情報技術の基本が、「情報生成」になりえていないからだ。

設計の土台からしてが、大卒知性になっているためである。

 

知の作業とは、対象それ自体を観ること、そしてその対象を言説へと生産すること、それによって、対象と自己との非分離・分離関係を対象化して、己自身をシニフィアンにおいて把捉すること。しかも、この場所は常に動き、変動いていく。既存の物事に依拠している大学などは、世界で通用しない。

大学知性では、対象とは実在するものだと思い込まれている。対象とは作られるものであり、それにおいて現実そのものが見えてくる。

商品とは、無かったものを対象として作り出したのに、すでにあるものだと思い込まれている。だから再生産しかできなくなる。

資本とは、そこに実在しているマネーや財産ではない、個々人が作り出していく力能である。

 

そこに働かす思考技術が、主語制か述語制かで、全く逆立する事は、知っておくべき規準だ。

 

 

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