なぜ、日本の大学理性は文系を含み、特に社会科学系で落下したか。

  • 2018.08.07 Tuesday
  • 14:13

1)学生時代に、大学教師たちが「専門馬鹿」でなく、「馬鹿専門」だと学生たちから突き上げられた(1968〜72年ごろの大学闘争)。

その克服が、学問上日本ではなされなかったこと。学問が世界に対していかなる意味を持ち働かせ、大学教師は何の意味において学問し教育しているのかを自らへ問うことがなされれば、既存の学問水準ではいかに不十分、低水準であるかの自戒がなされえたはず。なのに大学秩序の正常化の組織的処置だけに大学教師たちは終わった。学生シンパの教官たちは教授へ昇格できない、他大学へ移るなど少数者として排斥された。

海外ではなされた、大学と異なる高度な研究機関が、大学よりも高水準で日本では建設されなかった。いくつか作られたものがあるが大学の系にあるにすぎない。大学システム・大学理性次元を脱皮しえていないから学問変革のパワーになっていない。

システム上の閉塞。

 

2)そこに並走していた、西欧での構造主義によるエピステモロジー転換が、日本で個人的に消化されただけで、学問土壌としてアカデミズムに吸収されなかった。出版商業主義も絡んで、地盤体系的な研鑽がなされなかった。近代西欧学問体系への問い直しがなされえていない。

(例えば、フーコーにおいては文化主義理解が横行し、ブルデューさえ無視されていたゆえ、私はフーコーの歴史論・社会科学の意味を産出提示し、ブルデュー導入を中心に、様々な社会科学理論の先端性の導入を図った。現代思想の社会科学的水準の領有がまったくなされえていなかったからだ。レヴィ=ストロースの邦訳さえいまだになされてもいないし、ラカンのセミネールの邦訳も未だ遅れている。フーコーはその後、論集や講義録など、こなれた訳になって刊行されたが、根本が未だ了解されていない。そのまま、ポストモダニズムの浅薄化した系列に乗ってしまった。)

若い人たちは優秀になっているが、言説転換がなされたことを領有できていないから、邦訳がずれる、認識革命になり得ていない。

理論上の閉塞。

 

3)1970年代前半、教育批判が総体的に世界で徹底され、膨大なものが産出された。学校批判、教育知批判、教育批判、教師批判である。このラディカルさを無視した先進国は、日本だけであったといえよう。「知っている」若手は、大学教師になれないと怖がって、取り組もうとしなかった。(貫いたのが、私一人という実情であるが、私は教育学教官ではない社会学教官として受容された。)

この教育批判は、教育学だけの問題ではない、社会科学総体の問題であり、かつ、批判で存在しているマルクス主義さえ日本では了解へ載せようとしなかった。(また、世界の真摯な教育見直しの動向を知りもせず、評論家が私への攻撃を普及させる。一般からは、教育批判して大学教師やっているとは何事だという倫理批判が、理論次元を領有することなくなされる、転倒した思想主義の蔓延。)

教育商品生産体制への反省的な見直しが、1)2)と絡んで、全きになされなかった。そのツケが今来ている。

意識・認識上の閉塞。

 

4)吉本本質思想への大学アカデミズムの無視、ないし浅薄理解。明らかに世界最高峰の思想産出が日本からなされているのに、多大な理論的可能性が開かれているのに、その意味がわかられていない、学術研究へ導入しての研究生産がなされていない。

真理生産の政治性の閉塞。(これは、自国の最高思想を無視し、東大教授の低知性産物のもとでのヒエラルキー化を文化市場へ一般化するパワー関係として作用されているのを象徴する。質が了解できない知性の蔓延になっている。)

 

この2)3)4)が、理論的=知的な低次元さを一般化し、大学教師の9割以上が、まったくこなせていない、その効果が大学理性の落下を1968年からこの50年にもわたって蓄積してきた。(大学教師約17万人もいる、単純に2分して、その1割でも1万人弱ぐらいだが、2)をこなせているのは、よくて数百名であろう、3)、4)に至っては、数十名でしかないだろうか。知識は知っていても、それをこなせているものはほんのわずかである。2、3、4をただ個別の特殊なことでしかないと処置する、つまりそれが難解でわからない低知性)。賃労働教師になるためだけで、学術生産をなそうとする象徴的闘いの放棄である。産出論文は、人文・社会科学で、世界次元では凄まじい低次元になるが、商業出版に多分に根拠がある。この閉塞を支える細かい物事が多々あるが、本筋はこの四つである。現実は、大学知性の閉塞をよそに一挙に大転換的に進んで行く。

そこから、輩出された企業人、官僚・行政人、政治家たちであり、出版編集者たちであるから、総体がこの五十年で、知的に閉塞して落下していった。

 

5)こうした根拠は、海外移植が全きに不十分であること。他方、海外移植批判をなす評論家気取りが、日本オリジナルをなんら産出し得ていない。

6)日本そのものを根源的に把捉しえていない。その典型が、日本語の述語制への無知と排除、主述コプラの構文もないのに、西欧哲学の邦訳が無自覚に大学教師たちによってなされてきた負の150年の蓄積とその転倒・低次元の一般教養普及。

7)日本それ自体を把捉することが、2)3)4)を踏まえていないからなされ得ない。これは、文学理論および社会史歴史理論の移植における浅薄さも伴っている。例えば、網野史学による歴史研究転換は大きいが、その歴史理論は唯物史観も克服しえていない浅薄きわまりない、というような状態になる。実証も恣意性の浅さになる。

8)吉本、江藤以後の、評論家たちの「批判力」の劣化、商業主義依存への堕落(食えないから仕方ない、という事情がらみ)。柄谷のような平板さが、大学教師の一般知として普及していく。いわゆる、非アカデミズムからの迫力の欠落は大きいかと思われる。

 

個々の専門のことではない、認識体系、言説体系の総体の地盤転化が全くなされていないゆえ、閉塞落下は必然である。

 

これら総体において、意識・認知・認識の知的落下が一挙に構造化されている。

商業主義出版による、知の平板化が、商品生産される。大学知に従属する編集者しかいなくなる。

大学教師は、賃労働で給与をもらえていればいいと、懶惰の安楽さに無知学生を相手に居座る。

専門細分へ閉じた研究はなされ高度化しているが、実際上使い物にならないものばかり。つまり、真の対象に届いていない、専門趣味、業績主義の不能研究になり下がってしまう。

文系・社会系の大学教師の怠慢さは、理系からよく指摘されてきたことだが、多分に的外れなものが多い。

理系の研究費、何百万円、何千万円に比して、文系・社会系の年10万円以下の研究費で、研究などしうるわけがない。

また、大学教師の給与(特に国立大学)は、民間企業の課長以下であろう。賃労働者としても低地位にある。

 

つまり、制度構造と制度への規制的態度が、3)によってなんら自省されていないから、従属して自分を押し殺していれば自分をまもれるという様態を構造化した。権力者などどこにもいないのに、「恐れ」を自分へ抱いてうまくやり過ごすスキルを身につける。これは理系にも起きている事象である。

今の、アマチュア・スポーツ界や医科大学などにおいて起きていること、それが、学術生産そのものにも構造化されているものだ。

そして、自分が作っていることなのに、他人のせい、文科省のせいにして、正義ぶるが、自分で何もしない。

国家資本は、自分たちが作り出したものだ、国家権力者や支配者が作ったものではない。

政治作用の意味、商品・賃労働の規制化の意味、制度規範社会のパワー関係、そういったことが2)3)を踏まえて批判領有されていないから、わかられなくなっている。

要するに、現実それ自体を見れなくなって、既存の規則遵守しか「現実性」としてし得なくなっている。

 

社会人は、青年時代の大卒知に停滞したまま、現実の変動に対して、新たに学ぼうともしない。手持ちの知識など役に立たなくなっているのに、そのまま、安直な入門書やビジネス書で、知のごまかしをするほかなくなっている。

新たな知を学ぶ機関もシステムもない。無知を良いことに、既存次元へ迎合したセミナー屋たちの上っ面で誤魔化す。

社会人側が、大学は偉いと思い込んで、自分たちの経済現実・社会現実のアクチュアルな問題に、大学が答え得ていないことを、指摘もできないのは、社会人が大卒知に停滞したままであるからだ。

 

ドラッカーは言う、知識社会に準備されている日本であるのに、

「日本は新しく生じてきたニーズに応える体制になっていない。例えば教育の分野では、高学歴者のための継続学習機関として大学を発展させる必要が十分認識されていない。日本の高等教育は、いまだに成人前の若者の教育に限定されている、そのような体制は21世紀のものではない。19世紀のものである」

と『ポスト資本主義社会』の日本版まえがきに書いたのが、1993年刊行から2005年に亡くなる間でと思うが、日本はそのまま今日に至る、知識社会に完全に立ち遅れた。

文科省が政策を出さなかったわけではない、だが、既存の単位制や認可条件が旧態依然のまま、また対応できない大学教師たちの低地性ゆえ、機能しえていない。「教えるシステム」を改善するだけで、「学ぶ」システム環境の創造がなされない、3)の消化ができていないからだ。

 

私自身は、この8点における言説生産の象徴的な闘いを、世界水準東大40位(科学系は5、6位ぐらい、人文・社会系は40位以下であろう)以上の、世界線次元で、なしてきた。大学アカデミズムへの一切の迎合なしに。それは、支配的正当性の「誤認」体系に対する闘いである、孤立する、社会での場を喪失する、だが必ず支えてくれる方たちがいる。少数の卓越さが時代を変える、という確信がある。自由市場では、研究生産の可能条件の場づくりはまだありうる。

近代西欧学問体系に代わる、エピステモロジックな配置、新たな普遍原理の開削、新たな理論生産と言説生産をなしてきている。

批判体系を、可能条件へと転化する水準にはこれた。

だが、大学システムづくりには、独立行政法人化の時、超領域専門的な環境学部、環境大学院大学づくりは試みたが、諸関係の滞留状況に呆れ果てて、以後既存諸関係を改変することの不毛さに、関わることはしてこなかった。

民間研究機関はすでに作ったが、大学教師たちが、大学から動かない。

 

自己正統化には象徴的闘争が不可避であり、それは自分の社会的存在を必然的に危うくするが、貫けば危うくはならないのに、賢いから、自分へ対して前もって配置換えしてしまうのだpre-disposition。そこから結果した逆生産性自体さえが逆生産的になってきたがゆえ、ようやく、通道が開けられるかなという次元へ諸関連がきているようなのだが、果たして・・・・。

 

大学では、ミネルバ大学のような動きが、ハーバードなどを超えてなされている、これは3)を徹底して踏まえて開かれたものになっている。批判体系が徹底してなされ、ポジティブな可能条件への教授学的方法が技術化されている。校舎もいらない、試験も成績づけも必要ない、「学ぶ知的力」を身につければいいことだ。イリイチが1970年に提示していた、learning webになっている。

講義に黙って座って、学問もしていないシニフィエ知識だけの教師の話を教えられたところで、何の意味もない。シニフィエ大学知は、知識にはなっても思考にはならない、しかも対象それ自体を究明しえていない。だから、自分が何をしているかの認識すらしえない。

思考技術を学ぶこと、身に付けることだ。良い成績を取ることではない。

偏差値学力など、何の使い物にもならない。

 

このままでは、どうにもいかん、と最後の動きをはじめてはいる。

否定し、拒否してきた、フレーム/フォームに戻って、その内実を転移させる。

「学会」を立ち上げた。だが、大学知学会を集約する日本学術会議には所属しない、別の機関システムを立ち上げることだ。

「高等学術会議」を構築する。

そして、学会としてホスピタリティ大学をコアにして資本大学、場所大学などを作る。

 

それら中身は、既存のものとは実質的に違う。

https://www.japanculturalcapital-gakkai.com

現実世界に応えるには、高度な智慧・学問が、「教えること」ではない「学ぶこと」において必要なのだ。

 

だが、わたしのようにとんがっているだけでは、現実の具体化は進まない。

若い大学教師たちではない、民間企業や医師など実業の若い人たちが、動き始めている。それを支えていくことだ。

  • 0
    • -
    • -
    • -

    calendar

    S M T W T F S
       1234
    567891011
    12131415161718
    19202122232425
    262728293031 
    << August 2018 >>

    selected entries

    categories

    archives

    recommend

    recommend

    国家と再認・誤認する私の日常
    国家と再認・誤認する私の日常 (JUGEMレビュー »)
    山本 哲士
    ehescbool.comで定価購入できます

    recommend

    ブルデュー国家資本論
    ブルデュー国家資本論 (JUGEMレビュー »)
    山本 哲士
    ehescbook.comで定価購入できます

    recommend

    吉本隆明と『共同幻想論』
    吉本隆明と『共同幻想論』 (JUGEMレビュー »)
    山本哲士
    共同幻想の統治制化として「共同幻想国家論」を構築

    recommend

    フーコー国家論
    フーコー国家論 (JUGEMレビュー »)
    山本 哲士
    統治制化の国家配備を理論解読。
    直販は、ehescbook.comへ

    recommend

    思想を読む 世界を読む
    思想を読む 世界を読む (JUGEMレビュー »)
    吉本 隆明,山本 哲士
    吉本さんとの25年間の対話
    直販、ehescbook.comへ

    recommend

    高倉健 藤純子の任侠映画と日本情念
    高倉健 藤純子の任侠映画と日本情念 (JUGEMレビュー »)
    山本 哲士
    もののふの文化史から「ごろつき」の憤怒と情愛。直販は、ehescbook.comへ

    recommend

    〈もの〉の日本心性 (哲学する日本II)
    〈もの〉の日本心性 (哲学する日本II) (JUGEMレビュー »)
    山本 哲士
    触れえない「もの」を感知し技術化している日本文化。

    ehescbook.comで定価購入できます

    recommend

    国つ神論:古事記の逆立解読 (山本哲士の場所論 1)
    国つ神論:古事記の逆立解読 (山本哲士の場所論 1) (JUGEMレビュー »)
    山本 哲士
    古事記を国つ神=場所神から徹底解読。
    直販は、ehescbook.comへ

    recommend

    哲学する日本
    哲学する日本 (JUGEMレビュー »)
    山本哲士
    非分離・述語制・場所、非自己の日本原理。
    直販は、ehescbook.comへ

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM