【第1回】3月27日(水)、19時〜
山本哲士「性的資本論」 https://dokushojin.net/news/425/
【第2回】4月13日(土) 14時〜
藤井貞和「源氏物語」 https://dokushojin.net/news/428/
第3回 5月予定
鈴木貞美 日本文芸史
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性的資本論は、イローズ&カプラン、ハキムを踏まえて考察しています
小生の資本論に関しては、以下も参照。
藤井さんと鈴木さんの知の新書は、
]]>堤さんは、私の消費社会論を読んでいてくださり、初めてご紹介されたとき、私はハイネック姿であった。
ネクタイもせずに、と紹介者から叱られたが、まだ「世間」なるものを知らない自分だった。
堤さんは、財界人で文化のある方は、福原さんと小林陽太郎さんだと、お二人を紹介してくださった。
私は、フランスの「社会科学高等研究院EHESS」のような高等研究機関を日本で作りたいと、そこへの協力企業を探していた。
大学に就職して、生活給与として安定はしたが、とても研究できる環境では無いことを数年で感じてしまった。年間、研究費10万円など、全集一つ買えない。「紀要」もただの研究者の業績作りの自己満足物でしかない。
パリの社会科学高等研究院で、ロジェ・シャルチエなどとインタビューしながら、こういう大学から外れた高等研究機関を日本は作らないと、研究生産などできないと感じた。
私の動きは、気狂いざただと馬鹿にされた。だが、飛島建設の飛島章社長が、都市・建築研究に1億円の研究費を拠出してくださると、研究者たちの対応は変わり、この総合研究では、何十人もの協力をえて成果を出していった。「建築」自体の見直しである。バブルの危機の寸前の時であった。
私が、自分で、研究ワークを理想的に構成すると、予算見積もりで1ディレクター=1研究センターで、1億円を要した。海外調査や文化普及物の生産、研究室、助手、経理・税務など全てを含む。基本は2年間で、必ず成果物を出すことだ。その成果は、日本及び世界に意味あるものとしてであって、企業内に閉じられるものでは無い。もちろん、企業に役立つのは当然だが、利益の利益のためではない、文化利益、環境利益の創出である。
同時期、東京デザイン・ネットワークで、研究協力を依頼され、ソニー、日産、日立、NEC、キャノンのデザイナーたちへの協働を求められていた。ここで、「文化技術としてのデザイン」という概念を創造した。
資生堂は、文化企業としてある壁に直面していたのであろう、「社会企業」と「文化企業」との相互性への論理がなかった。
ここで、私たちは「文化資本」概念を構築する。化粧品なる商品を売っているんではない、「美」の資本を形成してそれが商品へ落とされているということのマネジメントの根源からの見直しであった。
同時に、福原さんが評価されていた小林陽太郎富士ゼロックス会長は、福原さんを尊敬しておられ、その時、福原さんは「陽太郎と一緒に経済界を変える」とまでおっしゃっていた。
私は、日本の一流の学者たちを選択し、また海外の日本では知られていない一流の学者たちをセレクトし、その研究生産体制を構築した。大学次元などにとどまっていては、学術はなされない、と。総勢、世界で200名を超えて、コンタクトした。
私は、日本を相手にせず、海外でセミナーや研究会を遂行しながら、社会科学の転移を含んだ近代学問体系の地盤がえの研究ワークを総指揮した。
それは、イリイチの耳には届いていたようで、連絡が突如に入ったりした。
トロント大学のイアン・ハッキングを招いたとき、ロジェ・シャルチエも同時に招いていたので、二人で対談してもらったのだが、大学にもまだ可能性があると主張するハッキングに、シャルチエはすごい剣幕で「絶対にない。大学は意味ない」とすごかった。このとき、改めて私は、腹をくくった。
どこから紹介されたのか記憶にないのだが、こんな中で、スイスのプライベートバンクを紹介された。私の企画を聴いて、彼らが「学術ファンド」を作るという。私は、そのまま、ジュネーブへ招かれ、初めてスイス銀行の仕組みを教えられ、ぶったまげた。まったく当たり前なのだが、マネーは貯めるものではない、有効に使うものだ、そのための資金調達と運用をいかにするかである。
ロンバ・オディエ銀行の無限責任頭取のデュアレに、福原さんに会ってもらい、そこに「学術ファンド」を作り、ジュネーブに国際学術財団を作った。これで、いけると思った。
「文化資本」経営ーマネジメントを、世界で作っていく、その動きである。
吉本さんにも、スイス銀行のメンバーと対話してもらった。そこに、思想基盤として吉本思想の理論化を配置した。それが「心的現象論・本論」の刊行へと繋がっている。
同時に、スイス銀行から、ローザンヌ・ホテル大学を紹介され、「ホスピタリティ」を企画開発することが決まった。
同時にIMDの「ファミリー・ビジネス」を日本へ浸透させることであった。
場所設計、資本経済、ホスピタリティ、そしてファミリー・ビジネス、日本の経済世界がなしていながら自覚認識していない世界の顕在化である。
福原さんと小林さんは、私たちの研究生産を惜しみなく協力サポートしてくださった。同時に、河北秀也氏監修の「季刊ichiko」を研究生産のツールにして、文化普及と文化蓄積を構成できた。「ホスピタリティ」はそこからしっかりした理論生産として示されえた。
だが、9.11、そしてリーマン・ショックと国際金融状況はどんどん劣化していく。その過程をジュネーブで目の前で見てきた。
そして、同時に、「資本」は利益を目的にしない、世界に役立つ投資をすることを教えられた。
スイス銀行の後退、世界金融の限界、その下降期に入ってしまった。ファンドは、増資できなくなった。
企業の私財抱え込みと、騙しの世界金融的状態になっていく。スイスへの国際的圧力が増す。
ジュネーブに、日本のバンク・マンは一人もいなくなる。
また、私の知己のスイス・バンクの人たちは、リヒテンシュタインへと移ってしまう。
学術地盤がえの研究ワークは、私個人ワークへと閉じていく。
小林陽太郎さんが亡くなられたとき、何か見えないものが終わっていたように思う。
経済世界で、福原さんと小林さんに匹敵する人たちが現れてこない。
お二人は、我々と議論でき、かつそれを企業を超えて、市場中心主義からの脱却として展望しておられた。
「世界」があるお二人だったが、以後、そういう企業リーダーに出会っていない。
閉じた組織経営だけが巧みなだけで、はっきりいって文化資本がない。
唯一、日産のペラタ(副社長)さんが、私の学術生産次元を理解できた。ボルタンスキーと友人なのかと驚いていた。
大企業よりも、中小企業の経営者の方の方が「資本」経営している。しかもファミリー・ビジネスである。
ここに、日本の未来の可能性がある。ソーシャル・カンパニーには可能性はない。
これが、残してあることなのも、どこも意識的に動かなかったためだ。
ソーシャルではない、パブリックだと、その原理の違いもジュネーブにいたからわかったことで、福原さんも小林さんもそこはすぐわかられた。ここが、わかっていないから、ゴーンなどによって漬け込まれてかき回されてしまうようなことが起きる。
8月23日、10年ぶりぐらいに、福原さんの秘書ワークをしているS氏から連絡が入った。
「文化資本の経営」を再刊するので、許可が欲しいと。喜んで承諾。
どこかと違って、きちんと礼を尽くされている。
その一週間後に、福原さんは亡くなられた、ということ。
何かが、動いた・・・・・
私の「資本論」を届けたかった、のに・・・
総合的な研究生産を成すことが、福原さん、小林さん、飛島さん達のおかげで為せたのだが、そののシステムづくりを、何度も試みてながら、日本は動かないで、大学へと閉塞していく。
教育・研究システムと企業経済システムとの分離を無くさないと、どちらも退化していくだけだ。
その基盤となる、物事を福原さんたちと作った。
今、ようやく、若い企業人たちが、理解してくれて、動きつつある。
ファミリー・ビジネスもしっかりしたものが海外では膨大に算出されているが、日本はまったく遅れたまま。同族経営の弊害だ、などとソーシャルなものが解であるかのように転倒していく。
ここは、なんとか、ホスピタリティと共に、開発せねばならない。
福原さんたちの意志は引き継いでいく。
]]>
それを、1〜2年かけて書き上げる作業だが、その刊行を、新書形式で、1章=1冊で、順次書いていく。全部で、12〜15冊ぐらいになるだろうが、こういう自由が、自分で出版経営していると可能になる。
他の、学者たちにもそれぞれしたいことを、と呼びかけている。
マルクスの「資本論」は、商品論と社会労働論であって、実は「資本」論になっていない。資本が、商品化され、貨幣が貨幣を産む利子産み資本へと構成され、資本ー土地ー労働の利潤・地代・賃金へ分配される、つまり剰余価値の生産・流通・分配の体系であるが、資本概念が資本家=人格概念と混同されてしまっている(こんなことは、とうに「資本論を読む」でランシエールやマシュレが指摘していた)ゆえ、多くの誤認を産み、さらに、マルクス自身が書いていない、エンゲルスが書いていると、マルクスの基盤を無視して、2、3巻が読まれない(広松渉が典型)ことが、文献主義から知識化されてしまっている。すると、ただの経済主義、経済決定論へと還元されて、自然疎外の閾などはどこかへ消えてしまう。間主観性が、制度や社会考察にまでとどかない。
「要綱」次元が、いちばんベーシックなのだが、「剰余価値学説史」はサービス労働にまで届いてさえいる。
マルクス主義のマルクス知らずは、労働=賃労働が永劫的だと前提にしてしまって、類的労働を普遍設定してしまっていることにある。ゆえ、賃労働世界での、改善解決を提示することしかできなくなる。
経済的関係の本質は、資本と労働との分節化による、資本の領有法則である。ここを、反転させねばならない。
例えば、私の出版社に「労働」はない。仕事はある。研究生産ワークと出版生産とが分離されていない、一つの全体的仕事になる。
資本と労働を分節化のしない。つまり、この研究ワークとその出版生産において、他者を雇用しない=労使関係を配置しない。働きは、仕事として外注であるから、相手は資本者になって関与してくる。小さな組織だと、これができる。賃労働者は、資本を剥奪されての労働疎外王国に安住しているため、マネジメントをしない=無責任関係へ不可避に置かれる。これは、さらに税金への無感覚として恒常化される効果を社会政治的に果たしている。自分のことは、他者が決めるという関係の受容にしかならない。
だが、ビジネスは、それではなされないゆえ、どんどん停滞していく。マネジメントの衰退が起きている。大学人などはその賃労働の典型である。
資本とは、固有の力である。要綱が言う「労働力能」であって、「労働力」を分離していない様態、つまり資本を分節化していない様態の次元が描かれる、そういうように読みうる。これが、資本論では、労働者が搾取されている、という構造決定のロジックに転じられる。当たっていないわけではない、そのとおりなのだが、笑ってしまうのは、ある小さな会社の会長が資本主義は終わったとか、労働者の搾取をしているから良くない、とマルクス主義者でもないのに、安っぽい新書を読んで、「資本論」自体などは絶対的に読まないで、知識で知っているかのように話す。
そこで、その会長が可愛がっていろんな仕事をさせている具体個人Aをあげて、じゃ、会長はAさんを搾取しているんですか?と詰め寄ると、モゴモゴと答えを出せなくなる。Aさんを信頼し、可愛がっているからだが、このプロジェクトに対する対価賃金を払っているんですかと聞くと、払っていない。なら労働力を買って、時間外労働に無償で使っている、搾取じゃないですか?というと、もうわからなくなる。
理論的スキームの次元(搾取概念だけでなく諸関係の理論が絡む)
知識からなされる認知機能の再認次元
そして、実際世界=現実界の不可能性、
こういう違いをわかっていないのを、大卒知性と、私は呼んでいるのだが、知識が、自分から切り離されて、さらに社会空間上で一般的に外のこととして語られるのだ。自分たち内部の世界は違うと認知されていく。
労働力=賃労働をしているだけではない、A氏個人の資本者capitalianワークが諸関係総体の中でなされているのだ。疎外、搾取だけの関係世界だったら、こんなにも賃労働世界が拡散しているわけがない。多様な資本ワークがなされているのである。
つまり、資本喪失しているのは、会長であり、資本を会社のただの資金・資財だと経済還元して疎外しているのだ。資本家が「資本喪失」している。これが、もっと典型なのは、大企業会社の特質となっている、つまり、社長はただの高給賃労働者であり、商品をたくさん売れば利潤が出ると思い込んでいる組織状態である。
資本概念を、文化資本をコアにして、多様な局面で指摘してきたが、ほんとにわかられていないのも、こちらの論述言説が足らないからだと反省して、「資本論」を書くことにした。
今、副業が可能になっているが、はっきり二手に分裂する。
一つは、副業で資本者となって活動すると、これは元気になる。自分がしたい仕事を自分でマネジメントしているからだ。
他方、副業で賃労働を二つ、三つとしていくと、収入は増えても、身体がボロボロになって、本業もできなくなる。(賃労働は社会本質的に、搾取構造でしかない現れ)。
ここに、「資本」作用の重要さが垣間見えているのだが、副業=労働だとしてしまっているため、識別ができていない。
資本は、多様である。すべてが資本だと言っても過言でないのだが、理論言説があまりにない。ブルデューは、構造化された構造としての文化資本や国家資本などを語るが、構造化する資本パワーを何も論じていない。この視座からの文化資本論を私が明示したのは、もう1999年の20年以上前のことだ。若い聡明な企業経営者は、ここをもう、すぐわかる。社員を労働力として使っていたなら、仕事がもう成り立たない。
そんなとき、イローズのemotional capitalismの議論を知って、振り返ってみると、emotional workをemotional laborとみなして「感情労働」への考察が日本で多々なされているのを知らしめられた。そこにはemotional capitalの概念が、どこにもないから実際を掴めていないで、ただの「辛い、苦しい、不安だ、憎しみ、悔しさ、苛立ち、嫉妬、無念さ、ストレス、動揺、むかつき、もどかしさ」など感情をめぐる労働疎外論になっている。感情資本から感情労働が分節化されてしまっているからだ。そのまま、解決ノウハウが語られる。解決などしっこない。
ということで、文化資本から語るのではなく、経済資本からもっとも遠い、性的資本、情緒資本から入っていくことにした。
1)性的資本論
2)情緒資本論
3)知的資本論
4)文化資本論
5)象徴資本論
6)想像資本論
7)社会資本論
8)経済資本論
9)国家資本論
10)教育資本論
11)医療資本論
12)場所資本論
13)環境資本論
14)自然資本論
15)言語資本論
と、15章=15冊を設定した。
色分けは、界champが違う。
文化疎外表出、自然疎外表出から、ポジティブに「資本」を理論生産する。社会疎外表出への批判になる。
資本が悪だ、などと資本主義概念も曖昧なま、まだやっている知的状況からの脱皮だ。
感情資本主義は感情専制主義と、ホモトピー的に共存して、大きな「資本」の穴をもっている。
そこには、剰余価値と剰余享楽のホモトピーを理論配置しないと、乗り越えられない。こここそが、領有法則の反転転回になる。
年末には、刊行スタートさせたい。1月1冊のペースでいかないと、終わらないが、途中でバテるかもしれない。
ばてて中断するも、その休みもまた仕事であるのが資本作用だ。
資本は、利益を求めないのである。商品は利益・利潤を求める。
だが、資本は、商品に環境汚染されてしまっている。
この新書も、商品を纏うが、しかし、資本をめぐる文化資本生産、知的資本蓄積の言説である。
]]>
辻仁成さんの言葉。
「辻仁成
@TsujiHitonari
たいしたことない誰かに批判された
ネチネチネチネチ 立派な人はそんなこと言わん
つまらん人に言われて暗くなるのよくない
大事な今日を潰されてたまるか よく、考えて
言った本人はあなたを苦しめたいだけ
そこで、苦しむの悔しくないか? ならば、
つまらん奴よ、さよなら!
明るい未来よ、こんにちは。」
あちこちにある人身攻撃への基本姿勢だ。
だが、ネチネチ非難には見事に、享楽のネガティブ規範作用が、主体をさらに炸裂させるべく大文字他者からの妄念を作動させて機能している。その実例サンプルとして解析できる。私は攻撃者の意図に反して残念ながら苦しんでいない、ネチネチ人の方がひたすら暗く袋小路へと苦しんでいくのも、間違っていることを自己擁護しているだけだからだ。
こちらは苦しめたいからではない、自己妄執から「正直さ」へと開放できる道を開いている・・・・
【補記】インタビュー(全8回+α)https://note.com/yoshimotokenkyuで語っているが、要点だけ・・・。
しばし自制したが、何もわかっていないどころか、「この上ない悪意」の人身攻撃にエスカレートしているゆえ、全集(第30巻のみのことに限定している)へ触れざるを得ない。反省もないゆえ、第4ステージにやむなく入っている。(第1:問題の浮上化、第2:責任者間の対話、第3:間違いを認めぬどころか誹謗中傷の人身攻撃なる本性露出:こちらは黙して半年待機。そして第4:パブリックにあらわにする・・・へ)
なんで、全集30巻は、著者が決めた「心的現象論・本論」の「本論」タイトルを消し、同じ領域にたいして「心的現象論」という著者が決めてもいない表題をつけたのか!
第30巻の、
「あとがきにかえて」
「付録資料」
「はしがき」
は、私ども「心的現象論・本論」を発行した側が著者とともに編集製作したもので、著者の著作権とは別に、出版、編集、制作に関わる権利がある。
さらに直接見えないようであるが、「構成」に関わる権利がある。
あえて、なぜ、こうしたことを言わざるを得ないのか?
(例えば、吉本全対話集がSe社で編集企画されたとき、吉本氏と私の対話「教育・学校・思想」の掲載許可願いが単行本刊行元の日本エディタースクール出版部へなされたが、社長の吉田公彦氏(谷川雁さんの実弟)は拒否、いかほどこの対談の構成が氏の手による大変な作業によって練り上げられたものであったか、それをただ掲載移動することへの吉田氏の抵抗であり、出版社としての出版権や編集権の保持である。たくさんの対話の中の一つだが、編集した吉田氏には大切なものである。しかもまだ、売れてもいた。吉本さんから電話がかかってきて、その対談集の意味がトクトクと説かれ願われたから、やむなく承諾した、と笑いながら吉田氏から私は伝えられた。私の方は、ただ吉本・吉田氏の決定に委ねた。こういう、出版倫理上のことがあり、この関係では関係両者に然るべき筋がとおされている。これは大切なことである。近年、ろくな編集しかしていないから、こういうことがわかられなくなっている。)
上2点は私がなしたインタビューである。私が、著者に依頼し承諾され、プロデューシングし、かつコストもかなりかけてマネジメントしてなされたものである。ただのテープ起こしではない。加えて編集者など制作作業に携わった人たちの産物でもある。私に統括責任がある。
もちろん著者の目が通っている。
全集第30巻は、「本論」書名を消して、なのにこれらの無断使用である。
これらの箇所に「編集部」とあるが、私どものことだ。なのに注書きされておらず、全集編者のようになっていると、プロの編集者から、この全集はひどい代物だと指摘された。
ここまでいくと、偽装「盗用」作りである。ただ機械的に移しているから、配慮も認識もなくそうなってしまう。
この無断仕様の態度に、吉本ワークが引きずり下ろされているから、
私はいい加減にしろ、と言っている。
都合のいいことだけ調べて、肝要なことは何もしらべず、こちらが指摘すると嘘だ、不手際だ、俺が正しいんだと、空(くう)を作れば正しさが示されると思い込んでいる。だから、真摯な誠意あるプロの所業ではないという。杜撰な仕方に、低姿勢でこちらが礼儀正しく服従的に指摘する必要などない、ふざけるなとはっきり言っている。
だが、私を受け入れない人たちを、私が説得できようもない。
ゆえ、公にして、他者の判断にまかす。たとえ私が水の中に沈没することになろうと。
これが、どれほど大変な作業であったか、本文に比べれば短いものであるが、構成として整っている。この全集編者ごときの大卒知性がなせる内容ではない。
「本論」としての単行本制作「構成」の意味が、わかられていないものとして現れている。自分で作ったこともない証にもなっている。
独自に「心的現象論」として編集構成しているというなら、外すべきことだ。
であれば、別物が作られたことになるゆえ、私が何かをいう権利もないし、ただ呆れ果てるで、終わっている。
だが、我々が作った「構成」を、そのまんま盗んでいる。無断で。そこに自覚もなんの反省もないどころか、使っていてこちらへ人身攻撃までするから、編集者ごとき分際(まさにこういう態度や仕方のこと)が、編集ワークの自分の間違いを棚に上げて、何を偉そうに人格判定しているのか、とはっきり言う。その感情を問題にすることは、それを主体として承認することになるゆえ、そこは無視し、改めて示す。
この三つの使用にあたって、発行出版社へも、私にも、何んの問い合わせも申請もないまま全集は作られた。
入れるなら(現に入れているが)、それは「本論」構成である。「本論」を単行本構成するために著者とともになした作業だ。
著者とともに作り上げた、「単行本」=「心的現象論・本論」である。
なのに、「本論」名を消して、そのまんま使っている。
全集編集ワークは、著者が生前に決定、刊行したことの無視である。
全くわかっていないゆえ繰り返すが、基本は、
「心的現象論」は、『試行』の連載、15号(1965.10)から終刊の74号(1997.12)までの全体である。15号〜28号(1969.8)までが『心的現象論序説』(北洋社、1971.9)、29号(1970.1)〜74号までが『心的現象論・本論』(文化科学高等研究院出版局・発行、星雲社発売、2008.7)である。著者が生前に、2008年に画定したものだ。
(愛蔵版の合体構成こそが「心的現象論」(序説+本論)である。著者が、これを「心的現象論」とした。ゆえ、自筆の文字がその箱に記されている。)
誰の目にもはっきりしている。
だが全集は、「本論」概念・言表(さらにはテーマ性、思考技術など総体)を消し去り、本論に当る「29〜74号」を「心的現象論」と、勝手につけた。著者が、墓場から指定・指示したのか!?
(のみならず、この「本質論」を、「長編評論」だとまでデタラメをし始めた。インタビュー者から見せてもらった出版社HP。)
2月の出版責任者間の話し合いで、これら付帯物への対処方法を示唆してあげたのだが、何を自分たちはしでかしたのかわかっていない(対象物及び申請日付に関して)ないしは、どうでもいいということらしきゆえ、使用許可は保留している(拒否でも承諾でもない)。3月に、当方事務所に来られると社長自身から言っていたゆえそこで再度説明するつもりでいたが・・・・書類だけ送りつけてくる、変わらぬ無礼(をせざるを得ない何かがある)。
半年こちらは、全集については何も言わず、待った。最初は、怒りからの私のアグレッシブな無礼、それによって問題を浮き上がらすため。そして冷静な対話と約束、そこへの最低の礼儀は果たした。
(まだ、S社長への、親密性の関係情感は残してあるが(物事がわからない方ではないゆえ)、私への人身攻撃を含んで、吉本作品をよくしようというものが何らない「この上ない悪意」の編者様態へは、私からの許容度はまったくない。)
ただの付録物ではない、本論「構成」の要になるものであるゆえ、2年がかりで作ったものを、全集は軽んじている。
「はしがき」とされている「まえがき」は、当人執筆だが、自分たちでしたというならその生原稿を、見せてみろ!・・。
この「まえがき」をいただくだけで、どれほど大変であったか。ご本人自身も、目の不自由さをおして書かれた(字が重なり、かつのたくっており判読がたいへん)。お願いして一年以上かかっている、その間、考えられ続けていたもので、ちょこちょこと書かれたものではない! 生産時間は作業労働時間へ還元はされない。
できたものを、しゃあしゃあと無断で、しかも「はしがき」と勝手に名付けて全集編者は、独自にやったかのふりをやっている。こちら制作のパンフに記述していることだ。だが、このパンフ後、「まえがき」としましょうと決まった。だから再版(新書形態)で、著者希望のものにした。それを、ちゃんと全集出版社には持参して届けた! 礼は果たしている。
こういうことは、こちらに確認しろ、盗んでおじけておどおどこそこそ隠れてしているから、聞いてくることもできず、逆に開き直って制作工程を非難してくる、ほんとにふざけんな、であろう。
よいか、自身による思想生産というのは、止まることなく進んでいくのだ、編集によってストップさせられるものではない。全集は、ただの数ページの文字記号だとしかあつかっていない。書かれたものだけが、事実ではない!創造制作が、何もわかっていない。
(生原稿を私どもがパンフにした、そのパンフ制作物の存在根拠を全集は確認もせずに、無断で「はしがき」として使っている。著作刊行物には、出版権や編集権などが付帯している。)
私は、全集刊行の邪魔をしているんではない。物事をちゃんとやれ、と言っている。
◆著者本人が決めたものを、勝手に、編者レベルで無視するな、いじくるなと言ってるだけだ。
◆著者が認めてもいないもの(青版・偽書)を持ち出すな、著者が要請した内容構成の書(再版・新書版)を無視するな、と言ってるだけだ。
◆吉本作品のものごとを、山本へ転嫁するな、まして、一人でやれると思っている傲慢な無能編集次元へ貶めるな、と言っている。
2022年1月の新書版で、生前、著者本人が望んでいた「本論」の形での、再版本において約束通りの構成にした。
これは販売儲けのためにしたのではない、2008年初版がようやく売り切れ(印税は、発行時に全て支払っている。売れた分だけ支払うという既存出版社の怠慢な仕方をしていない)、著者への約束の再版を、全集が刊行されると聞いていたからそのために著者が望んでいた正しいものを制作し、いくつかの誤植も直し全集出版社にもきちんと届けたものである。
なのに、全集(22年12月)編者はこの書の存在は無視し、著者も出版社も認めていない発行していないものをこれみよがしに実在すると蒸し返して、デタラメな解題を記して、吉本ワーク、思想的営為の軌跡を歪めている。
著者が容認していないもの(青版偽書)を尊重し、著者が望んだもの(再版新書)を無視排除し、その間で著者が決定・刊行したもの(2008年版)のタイトルを消し、構成付帯物を盗用してかつ無視(愛蔵版の序説+本論の構成)している。
とんでもない編集・制作仕事である。
全集は、なぜ、「本論」の名を消したのか?!
この1点だけである。何をしでかしているのか。
全集第30巻は、「心的現象論・本論」とすれば、問題はない。無断使用したなどとこちらが言う必要もない。
なのに、なんで、あえて「意図的に」、全集は著者が決定し刊行した「本論」を消したのか。
下にある写真の書籍「表題」、刊行物を無視して、私たちの制作物を無断使用している全集30巻への私の事実経緯の指摘が、
「言われなき誹謗中傷だ」と平然と言えるのか!
著者の名とともに受け継がれた一つの大きな思想、「本論」概念空間世界が、たった一人の編集者の自己愛的我執によって踏みにじられた。
著者刊行物を否定する全集とは、いったい何だ!?
これらは、もの=Dingのエレメンタル化によって、大文字他者へのアタッチを偽装する、意味するものを含んでいない所業であり、対象の形態の中に、編集主体の「意味する疎外」を書き込み、それを正当化しうる意味されたものの物質化に執着し、そこに実質がないことで、対象と意味するものの間に差異=分離を作り出し、その穴に、意味する主体=編者が意味するものを欠落した炸裂主体としてかき込まれていく他ないゆえ、生の欠落を充満しようとネチネチ人身攻撃で修復している姿だ。
あなた=一部読者は、そこに何も見いだせないゆえ、対象を喪失し、相手を否定すれば、自己の欠落を抑圧的に同一化できると妄念し、人身攻撃、誹謗中傷にしがみつく編者の姿に、享楽のネガティブ作用を共有しようと同調する。
主体(従体)subjectとは「存在の欠落」であることをかくもはっきりと表象している現れだ。
ラカン的に解析するとそうなっている。
著者は、「心的現象論」に対して、「序説」は北洋社、「本論」は文化科学高等研究院出版局、という本当にどちらも小さな出版社に託されている。一切、大手出版社に渡していない。その「思想的態度」の意味を、考えるべきである。
また、いい加減なことをする出版・編集者たちを信用していないことの表れでもある。10年間もどこにも「本論」部分を渡していなかったのが証しだ。それを、私=山本に出版として託したのである(内容を了解していると著者は感じられたからだ)。この事実を否定する作業を編者はやっている、山本を消し去ればいいと別次元のことをしている、つまり著者意向の無視だ。
内容理解もなく、ただ字面の移行が編集だと思っている出版編集者がほとんど。(数少ないが、しっかりした編集者はいる。)
本文にない、番号までふって、何かしたつもりになっている浮薄さ。ほんのわずかな赤字入れの、総体に対する意味付与の有無の未検証など。生前、吉本氏はここに赤字入れがあるなどと、一言もこちらへ指示を出していない。著者がさしひかえたものだ(書き手ならそのぐらいすぐわかること)。
なぜ、こうした勝手なことがなされるのか、そこに、編者当人が自覚していようがいまいが、それを保証しているものがある。
自分が総体の諸関係において何しているかわかっていない者は、自分がなしている行動領分への認識を必ず有しているが、私所有することでしかその行動を正当化することはできない。
まず吉本思想を、上から目線でなめているからできる。了解できないから上から目線になる。
それは、大学アカデミズム次元が吉本思想よりも権威があり上位にある、という前提で、吉本思想をそこへ引き上げてやろうという暗黙の上から目線が入っているからいじくれる。それ以外に、根拠は見当たらない。主観が思っていようがいまいが、関係性はそうなっている。(番号ふりなどはその典型の証し)
大学権威など、遥か下位の低次元だ、それがこの編者=様態にはまったく解られていない。であるがゆえ、東大世界40位の低水準を超えた次元での我々がインタビューし、「本論」を構成的に形成した仕事の意味を、低次元からまったく理解できないどころか、私への人身攻撃に見れられよう、田舎大学教師如きが、とバカにしているのだ(俺は東大総長の編集をしているんだと、表層権化でしかないものをバックに)。自分に「欠如」しかないため、そういう権威依存の仕方をする。
権威資本と実質「知的資本」との違いなど識別できる能力がない。
ゆえ、いい加減な青版・偽書と、本物との差異も理解できずに関連づけて、出してもいない当人へ向けて、お前が出したと言い張り、著者を含んでの我々をおとしめることが平気でできる。吉本思想が大切だと真に考えるなら、すでに処理されているこんなえせ物の実在をあえて掘り起こし、正規の刊行本タイトル「本論」を消したりはしない。刊行していない、本人も容認していない、そんなものをこれ見よがしに引き出して、我々を否定する、ふざけんな、でしかあるまい。
良いか、どんなにネチネチやろうが、真から偽は帰結されないのだ。たとえ偽から真を演繹することが有効なこと=実在になろうとも、真なる存在は消えはしない。
全集に権威があり、俺がやってるんだと、他を馬鹿にし、威張り腐って傲慢な無知を既存権威に依存して主張する妄執が、事実に勝ることなどはありえない。
閉じた日本で、吉本思想の世界性の意味などわかっていないから、勝手にタイトル変えたり、番号つければ理解へ近づけるとか(通時化が論理理解だと思っている浅薄極まりない大卒知性)、他の書の構成用に修正したものを、勝手に編者水準へ落として、いじくれるのだ。
(私の研究考察は、日本のアカデミズムなどとまったく関係ない次元でやっている。大学も定年前にとっとと辞めた。自分で研究生産の機構を作っている。そこが出版刊行した「心的現象論・本論」である。だから、この編者は存在を資料化へ押し込めて、山本作業へ転化し、「本論」表象及び概念世界を抹殺し、俺が作ったと私所有したいから、本文部分の校正を全部自分がなしたとアリバイづける(自分の身銭稼ぎをしているだけだ)。)
吉本氏は、山本へ出版刊行を課した。だから、それ=山本を消したい一念で、消したことを正当化するくみたてを、自己作業を守るだけのためにした。
だが「本論」作品は、私=山本が勝手にいじくったものではない。作品が生きるように、著者と対話しながら2年がかりで構成したものだ。著者の生産物=作品としての「本論」である。
私たちは、プロ数人を入れて実際作業は5年をかけて編集作業(著者とは実質2年:2007年時点で終わっていない、2008年までかかっている)を、きちっとした。
全集のように、独我の暴走などを機能させないためでもある。
吉本思想の扱いは、デリケートであるのも、既存の知的かつ情緒的な世界水準を脱しているからだ。
編集者に限らず、学者もそうであるが、一人でしていると、仕事が量的に大きいほど、それを私所有・我有したくなってしまうのは必然的なサガでもあるが、そこから、質的な間違いが不可避に必ず派生する。享楽は欲望を支えきれないからだ。
だから、私は総合的な複数人の生産体制を構成して、プロデューシング、マネジメントをし切ったゆえ、刊行が可能になった。問題(が起きたことも著者に伝えてある)など処理し切っているから、生前の著者も了解して、単行本が出来上がっている。資料集づくりではない、「本」としての創造生産である。
物事が、作られることに、誤魔化しがあるかないか、それは分岐点になる。実際関係や転倒がどこで起きるかの自覚もないものがやっているから出版世界はどんどん劣化している。「本論」制作で、これは商品生産ではない資本生産であるということを、著者と共有理解しながら真摯に生産した<もの>であるゆえ、商品に忍び込む誤魔化しは切り捨てている。デザイン、レイアウトの木下氏も、小川(惟)氏も、心底心をこめた作業をしてくださった。高橋氏やT氏の編集作業もその他の組版作業もコンピュータ打ちも、皆の作業は並大抵のものではない。こういう「本論」作り総体を、踏みにじっているから、私は怒っている。
よいか、吉本思想の中で、「心的現象論・本論」は、序説の問題構成配置における「無意識」の心的内容主義批判と違って(原生疎外と純粋疎外が実定化された)、意識や精神を主体化した西欧形而上学体系への対決であり、現象学の主体還元次元を越え、ヘーゲルに集約される歴史進歩図式から心的構造の本質を切り離し、関係論と了解論によって、換喩的・隠喩的な形式構造への還元を超え、対象を自然疎外の非分離から述語的疎外表出として日本語=述語論理構造から、水準・様式・諸相・変容の概念空間を時間配置替えして、原了解を、胎児、アフリカ的段階、前古代に再附置した、壮大な「本質論」体系で、これを一流の西欧知識人が読んだならぶったまげる。西欧形而上学、そこへの社会科学による「本質論」(自然状態を普遍土台にして非社会的・非歴史化を配置する)否定、という世界でなされている水準を超えたシニフィアン生産の「本質」論(社会的・歴史表出を配置して変わらないものを探究)なのだ。しかも「心的現象」概念はまだ実定化されていないが、その概念空間は「無意識」言説の概念空間に代わって、心的世界を考えるときに普遍的に作用しうる可能条件を持ち得ている。これが「本論」の実質である(まだまだ、言葉がたらないが)。この本質とは、人間の類的身体が数十万年変わっていないという身体疎外から配置されている。
よいか、「眼の知覚論」と「身体論」は、自然疎外と身体疎外の幻想的転移構成をめぐるもので、「序説」と「本論」の位相が違うことのディスポジションの配置だ。関係論と了解論の新たな次元がそこから開削された。1番、2番、3番、4番などの順序構成論では無い!!
「序説」言説と「本論」言説とから、「心的現象論」の概念世界が、無意識や精神病理学や現象学や精神分析の近代西欧言説次元とは別次元で「シニフィアン」言説生産されているのだ。
この全集編者の薄鈍まろく、に全くわかられていまい!!
アカデミズムは言う、前古代の資料=シニフィエなどどこにある、と。想像界が、象徴体系を解体変容しうるというシニフィアンス作用が、何にもわかってない否認態度だ。
これを「長編評論」だと、ふざけんな「まろく」が! シニフィエ文献列挙して、op.citだIbid.だなどアリバイ証明しているだけの大学人言説などとは雲泥の先をいっているのだ。
日本のシニフィエしか見ていない大学人知性が了解できる作品=思想書ではない! 全く新たな言説層がシニフィアン開示されている。
私たちは、初発の「試行」連載オリジナルの忠実な復元に細心の注意を払った。
どれほど大変な作業であったか、十人以上が取り組んだ。
それを著者は見ている。この作業を侮っている全集編者の仕方は、編集の創造生産をわかっていない。自分が作り直せば済むと、たかを括っているようだが、絶対的に我々がなした作業の蓄積の上に立脚している。その、傍流証拠に、付帯部を盗んでいる。
何度も繰り返す、著者と共に、作り上げたものだ。(私が勝手に作ったものではない。)
全集は、本文検証をしたふりをしているが(それが大変な作業になるを私たちは知っている。だが、なぜ、吉本さんのためにこちらの制作物と協働的にしなかったのだ!?)、本文配置の選択構成は、ただの執筆時間順序の資料羅列ではない! さらに付帯物にまったく無頓着なのは、「単行本」制作の文化生産に果たす意味を何もわかっていないからだ。
要するに、我々の出版制作をなめて馬鹿にしているのだ。そのくせ、構成から付帯物から、こちら制作物に依拠している、無断使用している。
中堅どこの出版編集者は、小出版社を馬鹿にしているのも、大出版社へのコンプレックスの裏返し(欠落)からだ。
大出版社とは、私でさえことごとく波長が合わないのも、質以外の余計な作業が課されるからで、固有の著作も他の無数の生産物の影に埋もれてしまう。小出版社では貴重な生産物になり大事にされ、細心の注意がはらわれる。
著者の意向・質を販売効果よりも最優先できる。直接性の作業ができる小出版社を活用する方が、著者の自由度は高まる。
吉本著作は、大手マスコミが相手にするものではなくなっていた時期ゆえ、なおさらのこと、我々は質的生産に妥協なくきちんとしたものを作りあげ、読者が誠実に対応してくれた。その数は、少ないが、量によっての劣化におちこんでいない。
ところが、全集は、たった一人の我執した人物が勝手にやっていることが、露出したのが第30巻である。2月の話し合いではっきりした。(制作担当の方に関しては、事情があると社長から説明されたが、それゆえ(言うべきでない)、ひたすら従順に黙従して、なおさら1人編者様態の独占我執が闊歩機能している。彼は私の吉本共同幻想論の担当編集者であった、その彼が何も私に言えなくなっている状況の異様さだ。)
しかも無断使用の不手際と結果を全集出版社の発行責任者は知らないでいた。
しかし話し合いでの、実物を見せての私の説明を、全集発行出版社社長は理解できた。だが、その編者を統御できないと嘆いていた。
この異様さが原因だ、とはっきりした。立会人も、そう理解した。
なぜ、こんなことが起きたのか、全集編者の傲慢さ様態からの間違いが、全ての原因である。
●こちらへなんの確認問い合わせもせず、意図的な無視と、確認回避の怠慢とから生まれた間違い。
←いつでも対話する、最初から協力すると私は開いている。それができない、異様さ。
●書かれたもののみを見ているだけで、物の生産には、語られていない、記されていないことが多々あることへの自覚のなさ。
←書かれたものの実在への真偽検証(存在条件の確認検証)がなされていない。
●一人でできるという仕方は、有能さとは程遠い(事態自体が見れていない現れ)傲慢なただの無知無能の所業が、監修・編集・制作の作業を、独善化させている。
←実際は、何人もの人たちが支えているのだが、その関係性への自覚がない、つまり物事それ自体を見れていない。1人の編集者分際で全集への監修・編集などはできない、識者複数をきちんと配置すべきことだ。
●間違いを素直に認めず、著者を放り出し、自己保守のために攻撃を私=山本へ転化し、事実指摘を誹謗中傷だと逆攻撃する錯認。
←一人が勝手に我執的にしていることの露出。
1)「あとがきにかえて」は、刊行のための普及を兼ねて私が2007年3月にインタビューし雑誌掲載したものを、あとがきを書かれるのが困難なため本人発言部を私が、一つにまとめあげて、あとがきとして使用しようと著者と決めたものだ。(削った部分に、私の編集意図が説明され、本人がそれを了承、共有していることが示されてある。)
2)「付録資料」はまえがき構成のために、2008年3月に再度インタビューしたもので(インタビューを土台に、ほとんど私が著者の発言を引用的にまとめたもの)、まえがきにならないね、と著者と編集部とで「本論」では外したが、愛蔵版には特典として入れてほしいとあえて私の方から頼んだものゆえ「本論」再版(新書)の折には使用していない。参考資料になるものの、指示性は高いゆえわかりやすいが、自己表出性が薄い、という著者判断が背景にある。こういう事情は、すべてすでに対話本などの解説で記してある。
3)「まえがき」は、上記2)が不十分であったため、著者が自筆で書いてきたものであるが、印刷に間に合わず、パンフ形式で「愛蔵版」には間に合わせて、そこに入れた。「本論」刊行後に、再販の折に、「まえがき」として入れると著者に約束したことである。「はしがき」ではない。こうしたことを、不手際だ、、などとは言わせない。自分で「新たなもの」を最初から創造的に作ってみろ!
この間にも、対話は何度もなされており、私と高橋順一氏によるインタビューも公開されている。
川上春雄さんならきちっと、著者の営為としてこうしたことを汲み取って残したであろう。
物事には不完全さは、ギリギリ状態で、不良設定的に起きうる。そこを、最終段階がいつになろうと最後までに完結させることでしか対応できないことを、著者本人はよく知っておられた。
かかる事情は、私どもに、聞けば簡単に済むことである。協力拒否などしない、本文もデータを無料提供すると、最初から言っている。それを排斥までして、何を俺は正しいとほざき続けているのか。こちらの言った言わないのシニフィエを一義固定させ、自分の正当化の恣意性へ固着させ、著書・作品の向上をそっちのけで、ただ山本抹殺に翻弄している。いつでも、ちゃんと聞きにこい、そこで互いの不十分さを正しさとともに構築することが著者への礼でありタスクというものであろう。
シニフィアンがシニフィエに一義一致などしない本質次元も分かってない知性の表れだ。
出版倫理の良き慣習がある、それは相手が作ったものへの尊重と敬意である。それを踏みにじる輩は、不快だ、ましてそんなワークは全集の編集制作としては失格である、と言い切る。
これを、単行本制作に織り込まれていないものを発見し配置していく中で、転倒して傲慢不遜になって、自分が何しているかわからなくなっただけでなく、勝手にしてもいいんだという錯誤権力を持ち始めた薄鈍である。
印刷して、読者の手に辿り着いた著者がなしたものを、軽んじて、無視さえして、著者が認めてもいない刊行してもいないもの取り上げ、自分だけが正しいと勝手に無断使用さえしていながら私所有していることを、誰が、その過ち、欠如、誤魔化しを判断するのでしょう?!
この「本論」制作上の経緯確認を全集出版社ができなくなったのは、このたった一人の編者の我執、私所有による。その排除の作業からでしかない。
著者の作品を、私=山本の所業だと盲錯している。自分が勝手にいじくっているから、そういうものだとしか理解できない。
組版をただ印刷したデザインもレイアウトもずさんな青版・偽書を、プロならおかしいとすぐ気づくのに、まったく判別できていない、ど素人。(印刷所は元原稿を有しているゆえ、しようとすればなんでもできるなど、プロなら知っており、印刷所はそこを崩したなら生業できなくなる。ここを青版製作者=個人は勘違いしたゆえ、それは印刷所=会社においてもストップされ対処されたから、ある部数以上に拡散していない。勝手に作った当人は死亡している。処理はついていることを、薄鈍トントが蒸し返した。のみならず聞くところによると、配慮して伏せた実名を、これ見よがしに暴露し、それが真実を知り探る正しいことだと錯認している(青版に記述されている)、ただのうす汚なさだ。この印刷所から営業妨害だと訴求されよう。)
全集は確認の労をとらず、こちら無視で、自分の身銭稼ぎ確保と自己撞着陶酔だけで、勝手なことを編者一人がした、ということ以外に何にもない。
私が制作したものを無断で使ってながら、私を攻撃するのだから、何も諸関係がわかっていないだけでなく、間違いゆえ必死になって自分だけが正しいと、著者そっちのけで自己保守している、そんな編集者がこの世にいる、呆れ。
そこに、S社は、手がつけられないと、嘆きながら、しかし従属している。異様。
S社社長は、私と編者との対話を最初提起した、私は承諾した、編者は逃げた。どちらが真実かは、そこに示されている。
今でも、いつでも対話してやる。勇気があり、正しいなら、堂々と出てこい!
何よりも、私とこの編者とのくだらぬ「ジジイ」対決(月とスッポンの差がある、truth is the dear little sister of impotenceであることがわかっている輩ではないからだ)など、吉本ワークになんの関係もない。
私がおかしたプロセスに対して、自分都合でアレンジし、あちこち粗探しをして(それが編集制作だと錯誤している:シニフィエだけ探して恣意的にアレンジし、シニフィエがシニフィアンによって揺れ動くことなどわかってもいない薄鈍の仕方)、自分が正しいと主張するだけで、著者そっちのけで吉本世界を汚しているだけの、薄鈍外道がやりたいだけやればいい。いつも同じ意味を保っているシニフィエだけが真実だとして、それを固定することが正しいと思い込んでいる様態を薄鈍という。
全集編集の個人我執の排他性は、わたしだけにではない、あちこちへ飛び火していこう。
だがいい加減にしろ。読者もいい迷惑だ。何より著者本人を貶めている。
残さねばならぬ物の価値をきちんと定めろ。そして、著者が認めてもいない刊行もしていない消すべきものは消せ。著者に何の意味と利がある。
かつ、それを買わされた人には、こちら真制作物を寄贈すると、私は提案して、数人からは申し出が出て対応している。私が誤ったからではない、友人だった者の犯した過ちを少しでも緩和させ、読者に誠意をもって対応することが大切だからだ。
ましてこんな、常識物事をきちんとできないことから派生しているこの「くそ」対立など残す価値もない!! ある時点で消す。が、しかるべきときの資料を、今は兼ねている。
心的現象論・本論として、我々が刊行したものであれ、全集であれ、読者はどちらを読んでもおおよそ遜色がないのも、我々の構成を全集編者は無断「盗用」しているから、「本論」基本構成にはなっているからだ。しかし、本文に関していうなら、本物の全集制作であれば、生原稿と「試行」公表稿との間の異同を明確にすることである。なら、大いに評価してやる。だが、この全集は逆に後に修正されたものを売りにする、逆のことをしている。よいか、「試行」発表のある部分が、別の書に掲載された時、そこに著者の手入れが入ったことは、その別の単行本の構築に要した作業であって、心的現象論の本筋からはズレていることである。こんなことは、学術作業の基本事項である。あとで変えたものは注書きすればいいだけのもの。のちの吉本研究者たちが真摯に出現するなら、少なくとも「試行」掲載と全集との違いを検証せざるを得なくなる。全く反対の、安易なことがいかにも固有だと主張してなされている、軽薄さだ。例えば、私は共同幻想論や言語美の文庫版は使わないし読みづらい。刊行時の単行本か著作集を使う。文庫は、読者用に漢字などが開かれているもので、私は使わない。セミナーをした時も、使えなかった。行間が間抜けのように空いていて、読みやすくしたつもりのレイアウトなのだろうが、集中焦点がとれなかったからだ。古い人間には、こりゃダメだ(ただの個人感想)。
吉本言語表現、言説層、言表の細部を、ナメるなと大きな声を出して言う。上っ面で、偉大だ、というだけで、本質論三つを読んでもいないで崇めたり否定したりしている次元にとどまっていたなら、吉本思想総体はいつまでたっても活きることにならない。資本論読まずしてマルクスを論じるようなものになってしまう。吉本思想は難しいのだ、その困難さに立ち向かわねばならない。わかりやすくする誤魔化しでは、思想風化が起きるだけで、現に起きている。
我々が著者とともに作った「本論」は、「試行」に忠実に作っており、引用文献などの表記的な誤りやいくつかの表記を訂正しているが、基本はできる限り「試行」に沿った。時代性もそこに加味されるからだ。これは、私と編集製作者との対立にもなったことだが、できる限り残して、そのままに、を私は主張した(愛蔵版では「序説」は私は北洋社版にしたかったが・・・)。かつての第一次の著作集の作り方がそうなっておりしっかりしているからだ。
全集本文に対して、私は細かく検証していないし、読む気もないが、とんでもないことがいつか必ず露呈するであろうと推察する。内容を少なくともわかっていないからできてしまうことが多分にありうるからだ。いちゃもんづけではない、編集の基本として注意すべきことであるものが描かれたこと以外にあること、への配慮がなされていないからだ。
全集全体が、ぼうようとした感じを持つ方に私はいるが、全集の方がいいと言う人もいよう、それはどちらが正しいかの次元のことではない。吉本共同幻想論を書いたときも、初期歌謡論をレクチャー講演した時も、なるべく全集普及のために貢献しようと全集を使おうとしたが、生産的にならなかったのは自分に対して真実である。すでに何度も読んだ物の方への愛着と慣習化がなされている、これは読解において重要なことである。古書が重視されるゆえんである。レイアウト・デザインも軽んじてはならない。だから、青版などなっていない偽物だ。
デザイナーをきちんと入れて、「本論」「愛蔵版」を資金繰りまで含んできちんと作った。雲泥の差であるのは一目で誰でもわかる。
本論の再版を新書型にしたのは、少しでも廉価で読者に届けようとしたためだ。
こちらの事実指摘ーーはこちら無視・排斥からもたらされている欠落ーーを誹謗中傷とし、自分がなしていることを相手のせいにする、ロシア=プーチンがしていることと同じ作法ゆえ、私はとりあえず闘うが、それは享楽と主体の炸裂と大文字他者に関わる、別次元のことである。吉本さんのことではない。
頭ごなしに侵略されたから反撃攻勢に私は出ただけだが、著者無視のことを、私のせいに転嫁することで、解決はなされない。
私が、本論を、著者以上に評価し(世界線で見ていくなら、明らかに高度である)、その旨を対話で伝えたことは確かであり、私の作用が関与していることも無視はできないであろうが、これは吉本著者自身の産物=作品である、それは「序説」で区切られた、別次元の「本論」である。<序説と本論>が「心的現象論」である。
犯人の所業は、必ず明らかになり、処罰されるゆえ、そこへの自己防衛で支離滅裂な、著者を放り出して編者=自分が正しいと守っているだけのことをしている。損害賠償が降りかかる恐怖に襲われた不安を人身攻撃に転化している。素直に謝り、修正すればいいだけのことができない、去勢の虚勢。シニフィアンが全く見えず、シニフィエに拘泥して、言った言わないのあげ足とりしかできなくなるが、全集出版社社長がポツンと言ったように、自滅する、自業自得だ、と。
(交通事故をなしたものが、謝罪すると認めたことになり賠償金を取られるからと、怪我させた被害者に謝りもしない、人間性を欠いた規範性作用の仕方と同様でもある。規範性の逆生産作用がわかっていない、つまり真正性を履き違えている。)
私にインタビューした方がまとめたが、
「「2007年に「心的現象論」名の青版が、印刷所によって作られ一部に配布されたが、作者も出版社もそれを容認しておらず、2008年「心的現象論・本論」として刊行されたものが最初の単行本である。」と記すればいいだけであり、表題を「本論」とすればいいだけの、単純なことだ。
なんで、それができずに、いじくり回しているのみならず、人身攻撃までしていくのか。
私は、事実を述べているが、こちらも立派な人ではないので、ホモトピー的に不可避にネチネチになるが、合撃と言われるよう、対決は不可避にそうなってしまう、欠如の指摘の正当化しか機能しないくだらぬ次元だから、同じレベルへ落下する。ただ真実化は、かくも浮遊させられるのかと呆れ感心し、実在と存在の違いもわからぬ大卒知性群に愛想つきながら、そう、最終決着へ向けて活人剣を振るうしかない。
喧嘩ではない、邪鬼の成敗だ。
相手はどんどん正体を表していく(S社社長はこの女々しい編者様態が自滅するのも当人が招くことだ、とつぶやいたが、帰り際、和気藹々と話し合いがなされたとは言わないでくれと、念を押された。異様だ。半年は、黙っていたが、私へのインタビュアーの人たちが言うには、私への攻撃があまりのことらしいのでオープンにする。私は、くだらぬ人身攻撃の御託に付き合う気はないゆえ読む気もないが、最初から誰が張本人かは見すかせている。聞いた範囲では、Aと言う奴はAだ、というトートロジーは、主知主義が使う主情をロジック偽装することで、批判を封じる常套手段である。馬鹿(まろく)論法という。)
だが、プーチン支持やトランプ支持が半数以上いるように、
読者の半分は事実そのものを真実として観れる、
半分は騙しの詐術に便乗する。誤認も真実であるからだ。
それだけのことだが、知的退廃の環境が深まり、主情表現を真実だとさせる雰囲気を蔓延させていく。
そこから逃れることはできないゆえ、闘いは起きる。そこで真実を言うと、世界は凍る。
徹底すると嫌われる。そして、脅しやナウナウで誤魔化されていくが、
どこかの中古車会社のように、いかに内部を抑え込み外部を無視しようが、事態は必ず暴き出され、間違いは正される。プーチン・ロシアは必ず瓦解する。
プーチンやトランプが使う、鸚鵡返し論法(自分がしていることを、相手がしていると主張し、自分の攻撃は正しいと思い込む)が、知的環境を退廃させている。
これは、思想力・理論力のない者によって、象徴界が想像界によって侵蝕されることから派生する。方向性を失った妄想が想像的なものを勝手に作り上げ、それを物質化してしまえば真実だとされる、と力作用させるのだ。
えせものは、ともに、「本論」を「心的現象論」だと名乗っていることで共通している。(だから、必死に実在を正当化し、自分の間違いを正しいと自己保守する。同質だと言っていることに気づきもせず。)
同じ著者本人無視だから、そうなる。勝手になした自分が、著者を敬愛し、わかっているつもりになるからだが、暗黙に著者を制度権威以下のものだとなめているのだ。自己欠落のシニフィアン欠如を、シニフィエ物体のエレメント化で補償する手段に出ることに表れている。
つまりかつて、青版・偽書をつくった印刷屋で起きた過程とまったく同じことが起きている。関係形式が同じである。
一方は正規ルートで、他方は不正規ルートだが、仕方の形式は同じである。
著者の「本論」形成の作業に関係なく、勝手に妄想に走った者が、勝手にやっていることで、共通している。
それを私のせいだ、と私に転化し、疎外した大文字他者に私を隷属させ、そのくせ私の制作物を無断使用していながら私を人身攻撃するのだから、盗人猛々しいというのは、こういうことだ。
作品=書かれたものを、著者から切り離しうると前提にし、著者がなした営為を無視し、著者自体の存在も無視し、「書かれてあれば、それは事実だ」とシニフィエをいじくる、それを作品と作家とを混同するなという批評作業と混同させて、著者の制作=生産行為を無視する、低知性からなされる。つまり、対象との関係の差異を了解できない、関係妄念が作用する。さらに、主体の従体様式を、主体主情と混同する。
例えば、ここで私は、個人中傷をしていない、編集ワーク/編者様態を、アホンダラ、と言っているだけであるのを、個人主体だと実定させる理解しかできない大学知性の低い知的資本・感情資本が作用している、と言っている次元が、わからないのだ。実名をあげれば事実だなどとはならないし、そんなことはくだらぬ次元のことにおいては特にどうでもいい。個人化などは、消費社会効果であって、個人実在のことではないし、まして存在とは関係ない。ネット上の匿名の第二自己の次元とは全く別ごとである識別もできていない。こんなことも了解できない輩=様態に、吉本思想など理解もできないという次元に占拠されるが、吉本思想は、構造主義言説の向こう側に言説生産されているのである。そこを、ナメている様態(既存権威依存)が薄鈍様態である。
この件だけでない、あちこちにweb界の言動で徘徊し始めて、現実界へ入り込んでいるから、指摘している。そこは、想像界が象徴界へと疎外編制された時、全体主義世界に変容する。人身攻撃は、その兆候である。間違いを、絶対的に認めなくなり、自己絶対化(同一化と抑圧)が派生する。類似でなく、相同性が、固有に違うことだとヒステリックになって主張し、相同世界を構造化し始める。吉本がいちばん戦ってきた事だ。
マルクス知らずのマルクス主義者たちにすでに見られたことだ。S社で、昔出された「ブハーリン裁判」を見るといい。それと同じことをしている。低次元人間が、それよりあらゆる面で高度な者を「裁く」仕方である。相手を否定し自分以下に貶めれば、自分が正当であり優位に立て、生存できるという仕方である。大学人を含め中層インテリが落ちいる罠であるが、マルクス主義が練り上げた理論効果である根拠を持っている。
騙しの詐術に便乗している烏合の衆は言う、山本は全集に関われない、無視されたからやっかんでいるんだ、全集の方が偉い、正しいと。私たちが作ったものを無断使用していることも中身自体が掴めない、シニフィエをさらに制度へ同化する輩の常套認知である。
冗談もよせやい、こんな薄鈍低次元に誰がやっかむ!
だが、害を受けるのは私ではない、どちらも当事の会社が一番迷惑を被っている。
ともに、社員ではない、委託された外部人の状態が勝手になした。laborをworkと混同して、laborに忍従したなら創造がなされると妄念する。(聡明な内部社員たちは、何が真実かを、黙従していようが見抜いて知っている。momouni.〜も、誠実な社員の方たちがおり、その後なんとか可能性へとひき出そうとしたが、やはり汚れたものはどうにもならなかったがゆえ、きちんとしておいたほうがいいとわたしは言っているに過ぎない。)
私は、万能人でも聖人でもない、ただの愚者だが、不能人ではない。
現実は動いていく、書き物のようにとどまっていない。だから、書物は大切に真摯に扱わねばならない。
自制を自分へ向けて切った。最終段階へふみこむ。
偉大な思想には、きちんと距離をシビアにとっていかないと、自分がやられる自戒はもっておくこと。マルクスであれ、ヘーゲルであれ、吉本であれ・・・・。
「死ぬなよ」と言っておくが、私は友人でもないこの輩様態に容赦しないが、私にはまだ人格化存在されていない異様<物>状態という段階でのことでしかない。
編集者分際が、何様のつもりで、傲慢いい気になっているのか、吉本思想に届いてもいない、intelligibilityがない!
などと人格化した時には、対決次元が別ごとになる。それはステージ5となる。相手の出方次第だが、遡及的に最初から配置されている。
人は全てを語る術を持たない。
ゆえ、狭小な道行きに引き留められながら、絶えず、それが語られた事実においてすでに見出されたものの中に、再び滑り落ちないよう注意しながら、語るのだが・・・・・・
PS
私は、この出来事を機に、吉本思想依存をやめようと、ことごとくその概念言表を転じて領有次元へ再構成配備dispositifしているのだが、すると面白いことに、「心的現象」が非常に深く広い固有概念として作用していることに気付かされた。「意識」「無意識」なる概念に拮抗する概念界が創成されている。それは、欠落lackの言説ではないことで、まったく違う。日本では、わかられまい。序説と本論の言説次元を対象化し切らないと、そこは浮上しないと指摘しておく。わたしはもうできているが、先を行きたいゆえ、論じる労はとらない。ラカンを介在しないと見えない、とだけ言っておく。なんで、フッサールやヘーゲルに、納得できなかったのか、かつ、心的世界で大きな働きをなす「欲望」「欲動」「享楽」などの概念は機能させられなかったのか・・・・などなど。
穴ぼこだらけのその言説は暗闇の穴ではない、曖昧さでもない、光り輝いて、無数のまだ「考えられえていないunthinkable」本質課題を深く表出開示している。
絶対に、「本論」を消すな、とだけ今後のために言い続けはする。
「本論」の固有性とは何か、「心的現象論=序説+本論」とはいかなるものか、聞かれれば、説いてやる矜持をもって・・・・
全集出版社には、真摯に誠実に、真っ当なことをきちんとされたし、と。
全集は、皆が協力しあって、全貌を作り上げることである。
他者を排斥したり無視したりして、編者一人勝手で作られるものではない。
「心的現象論」としての「序説」と「本論」との合本を作ること。
それが一番、著者に真摯に応えることであり、世界に大きく寄与することである。
私たちが作ったものは、以下の写真のものでしかない。
左:『心的現象論・本論』2008年7月、初版。
中:愛蔵版『心的現象論』(序説+本論)、2008年8月:限定版。箱の手書き文字は、著者直筆。
右:『心的現象論・本論』の再版(著者が望んだ形):新書型、2022年1月。
付記
しばらく様子を見ていたが、450名ほどの「拡散」がなされていたのが、この指摘によって、都合が悪くなったのであろう、拡散されなくなっている。都合のよいことだけが、防衛と自己保守に使われる。「悪意」との闘いは不毛だが、自分が貶められても間違いを流通させてはならない。
7月、8月の新刊です。
baseshopにて直販で、お求めください。
indesignにて、小生がすべて制作していますので、印刷・製本代だけですみます。
著者、研究者、学者が、全てを自分ですれば、出版社はいらなくなります。
愚かで不勉強な出版社や編集者などもう必要ありません。すぐれた編集者との協働は大事です。
そして、読者が、直販で買うよう成熟していただければ(300人以上)、流通取次・書店もいらなくなります。
そこまでいかないと、知的な本の甦生はありえないですが、即、可能なことです。
その基盤は、もう作ってあります。1部でも、どんなぶ厚い本でも、制作出版可能です。
学者が、自由に作れる、「文化資本による文化生産システム」です。
儲けは目的ではない。物質的最大価値を追求する経済生産は、知を頽落させる。
印刷所を含め、紙文化を大切にする方々の協力で機能しています。
私の理念は、商品価格(誰でも同じ価格)を無くし、資本価格(人によって価格が違う)が機能するようになることです。
そこから、資本と労働の分節化が解消され、資本領有の健全な仕組みがなされうる。
笹島寿美
人生80年、帯・着物にすべてをそそいでこられた笹島先生の本です。
日本の精神文化を、帯・着物から説かれています。
新書版と「心象幻画」集(上製版B5)です。
その節々で描かれた「心象幻画」を収録しました。
浅利誠
間違った日本語文法を、徹底して考証した力作です。
パリからの仕事。324pの力作です。
Jシリーズ(日本文化)の既刊
Gシリーズ(環境)の既刊:松下和夫(京大名誉教授)監修
Act1で22冊既刊。基本、192p。
Act2は、22年9月より、読書人発売協力で進めています。(流通が、急速に落下し始めているため。)
文化科学高等研究院(EHESC)出版局としては、さまざまな試み、実験をかねながら、もう150書ほどを刊行してきました。
儲けはないですが、損もありません。ゼロ的再生産様式を機軸にしています。
*鈴木貞美監修で、文学シリーズを12月より開始します。
鈴木貞美、兵藤裕己、藤井貞和、三浦信孝、野口武彦、山?正純、さんたちが協働してくださいます。
日本は、哲学からでなく、文学から形而上学が可能になる、と考えています。
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(整理に協力したが、話し言葉の穴は埋め切れないがやむなし。)
2月時点での話し合いで、S社社長に、「全集については触れない」と約束したゆえ、それから半年その件に関しては黙した。それなりの仁義は通したが、
しかしS社のコントロールが一人の妄執編者に対して効かない状態になっているようで、申し訳ないが、聞くところの人身攻撃に(おいおいいい加減にしろよアホンダラ、ぺンデーホ、の呆れ)、周囲から放置できないと要請され、答えることにした。
私は、権威にも、出版社にも、非真正性にも、追随も盲従もしないが、
これは私のことでも、くだらぬ低次元の喧嘩のことでも、無能編者のグダグダ御託のことでもない。
吉本ワーク自身のことだ。また、第30巻のマター、と限界づけておく。(30巻以降を私は全く見ていない。S社から送られているが、封も開けていない。ご容赦。)
オープンにしてしまうことで、最後の溶解を機すが、多分、いくところまでいくことになるかと。不毛、残念だが・・・
https://note.com/yoshimotokenkyu
全部で8回。
全集編者の挙動に対峙するため、サイトをnoteにしたそうだが、私の世界としては、こんなくだらなさにはほんとうんざりであるが、すべきことだけはしておかねばならない。くだらなさをなめると、もっととんでもないことになる。
しかも、種別的マターには、現状況の総体がこめれてもいるゆえ、放置できないこともある。
私は、個人中傷をしているのではない、個人化なぞは消費社会の効果でしかない、とくにくだらぬことに交換する意味など全くないが、ただ著者を無視し、私=山本へ転嫁する、編集ワークや編集様態の盲錯を取り上げているのであって、そこに働く想像的なものが象徴界へ編制されると、実際の現実界のある全体主義化が派生普及していくゆえ、対峙している。
プーチンやトランプへの反応のように、
読者の半分は事実を真実として観れる、
半分は騙しの詐術に便乗する。
それだけのことだが、知的退廃の環境が深まり、主情表現を真実だとさせる雰囲気を蔓延させていく。
そこから逃れることはできないゆえ、闘いは不可避に起きる。
【補記】インタビューで語っているが、要点だけ。
(これは後日、公開する。)
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その転倒反転の妙は、マキャベリズムを超えて、日常的になっている。
ウクライナはテロリストだ、ファシストの政府だ。そこに侵略されている。
だから、ウクライナを開放するためにウクライナに侵攻する。
自分が侵略殺戮しているのに、相手のせいにする。
プリゴジンは裏切り者だ。国家の安泰を乱している。
だから殲滅する。
自分がロシアを乱しているのに、相手のせいにする。
この時、プリゴジンの名は出さないで、「裏切り者」は殲滅する、とのみにする。
これはプーチンに逆らう者は、全て裏切り者だと「汎化」するための論法になる。
自分の過ちを絶対に認めない。
自分のすることは、全て正しい。
それに反する者は、全て犯罪だ。悪だ。
という単純な論法である。
自分がなしている悪を、相手がなしているからだと反転させて、
それを原因にして、自己がなしている悪は、善である、という論法である。
自己性化されている。
どんな手段や非道徳的な行為であっても、結果として国家の利益を増進させるのであれば許されるという考え方がマキャベリズムであるが、目的のためには手段を選ばない、と拡張され、権謀術策へと拡張されてしまっているが、
このマキャベリズムを超えたプーチン論法は、ロシア皇帝主義とソ連社会主義独裁と、KGB経験とが合体して、プーチン個人へと権力諸関係が収束していく構造化において、統治配置されている。
しかもそれだけではない、感情専制主義として、自己エモーション化された、自己レベルへと落とされている論法であるため、ロシア国民の70%から支持される統治技術になっている。
真っ当な者は黙るか、国外脱出するしかないほど徹底されて。
社会主義諸国が、それに同調するのは、NATOの帝国ロジックがだらしないためだが、USAが帝国主義の姿を隠すような偽装を、民主主義の真正であるかのように振る舞いえているためだ。その穴に、トランプ主義が50%近い半分で機能する。
国家的共同想幻は、個人想幻と一致するところに国家=社会秩序が一枚岩的に画定されるが、それが国家ではなくむしろ自己性へとエモーション化しているのが、感情専制主義で、感情資本主義が個人自由として対抗配置されている。
(幻想概念を「想幻」概念へと私は転じている。想像的表出の機能が軸だからだ。)
「権威に訴える論証」なるものと自己撞着感情とが合体して、自分は正しいと真正性を強調し、事実を歪めることでの真実化を、そこに感情移入させ、単純明快な純粋事実を述べる者を非真正だと断定し、人身攻撃にまで拡大させる。
そういう言述に、饗応するものたちが増大する。感情吐露だから、真実だ、とされる。
すると、ウクライナやNATO諸国を支持する態度は、無知だ、騙されていると批判主張する者までもが出現する。
結果、「言った者勝ち」となる。
これを、国家次元で、情報戦だなどと出鱈目にくくる。
さらにひどいのは、ウクライナの反抗でもっと人が死ぬ、と正義面して、人道ぶる論者や、
戦争開始当初は、手をあげて服従すれば死なずに済むのに、という者たちまでいた。
戦争を終わらせるために戦争をやむなくさせられているウクライナの矛盾を、責めることはできないが、
戦争をやめるべきなのは、プーチン・ロシアである。
盗人が、盗まれたほうが悪いんだ、というのを盗人猛々しい、というが、
すぐそこに居る。
プリゴジンの反乱は、200kmまでいったなら、モスクワへ突入すべきであった、なら他の将校たち、軍の氾濫へと波及した。
皆、できないと怖がっているだけだ。
プーチン体制は瓦解し、もっと専制的な国家としてロシアが確実な混乱へと入って瓦解が促進されたのに。
あるいは、完全な内乱になって瓦解したであろう。
なのに、自分の命が大事だと逃げた、ついていく者は少数だ。
政治がわかっていない。
レーニンのボルシェビキは少数派であった。
キューバ、カストロの反乱は11人だった。
などなど、反乱・革命は、右であれ左であれ、少数からなされるが、反動的専制の横暴恐怖政治がしばし続いてしまう。
そこを脱せるか否かは次の問題だ。
しかし、次を考えて反乱はありえない。時々刻々変じていく。
ウクライナ戦争は早く終わらせなければならない。
そこから、新たな世界秩序が開始される。国家主導の終焉へ向けて・・・・
プーチン瓦解は、はじまった。
ウクライナのどこか一つの州が奪還されたとき、プーチンは崩壊する、そこまではきたようだ。
だが、自己性へと世俗化されたプーチン論法は、感情資本主義において増幅していくであろう。
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しかし、実際には一番、読者や聴衆の目に直接触れるものを産出する重要なかつ決定的なワークである。
映画などで、それは決定的作用をもたらすが、誰が編集しているかを映画専門家かマニアックな人でない限り気にもしないし、観客は知らないであろう。
書籍も同じである。
監督、著者の創造物を、切ったりするわけだから、相当な能力がない限り、作品はズタズタになる。
編集者が勝手なことをしたら、オリジナルなものはメタメタになってしまう。
よくあるのは、最初の公表論考と、その後の著者自身による修正との違いへの対処だ。
気取った優秀ぶっている編集者は、一連の連載の元論考が、部分的に別書へ配置されて加筆修正されたものを、これ見よがしに「自分が発見した」と、著者が書いたのに自分がしたかのように錯誤して、元の一連の連載物へ組み入れてしまう。
小説など、自筆原稿がのちに発見されて検証されるように、「元のもの」の存在は大切なことである。
研究者ぶって、その素養の力も判断力もないくせに、他人のオリジナル稿をいじくるのは、無能編集者である。
すると自分の不手際を他人のせいにして、自分の正当化のことしか考えなくなり、著者をほっぽりだして、俺は正しいと、指摘されたことを反省するどころか、指摘(者)非難や配慮された事項の暴露が真実であるかのように、横暴暴走する。自分が巻いた種であり、自分が犯した誤りなのに、それを確かめもせず対話もしない怠慢でいるだけの、愚行というより無知の横暴である。
編集者としては完全なる失格であるのも、エディティングとはなんであり、出版とはなんであるかの認識も倫理も不在であるためだ。
企業経営においては、editingは不要であるかのように自覚さえされていないが、いろんなところに実は出現している。大事な要素でありワークである。
他方、出版においては、編集者はマネジメントにまったくに近いほど無頓着であるのが、出版社一般のワーク状態であり、ただ営業側から売れないと責められて、質の落下を蓄積させてきたのが日本の出版状況といえる。
大学教師の知性次元での情報に従属してしか、出版判断ができなくなって、書籍の質は世界水準から凄まじく落下している日本である。
ホスピタリティと文化資本の資本経済を提起してきた者として、我々が配置したのは、
producing, management, administration, editingそしてcreation
の5領域のバランスを、「経営」のコア・ワークとして位置づけ、いろんなプロジェクトや作業をなしてきた。
企業体は、ソーシャル・マネジメントが中軸になると、administrationが優位に立てられて、producingが不在になり、managementが非常に矮小化され、editingは恣意的に放置され、creationは抑圧される。
いわゆる成長期にはこの矮小化が逆にパワーとなってつっぱしることができたが、物事に欠如があったからで、この仕方は、転換期や飛躍期にあっては、弊害どころか企業体自体の瓦解にまで至ることになる。
すると、コストは落とせ、売り上げをあげろ、のマネジメントしか機能しなくなる。
producingは、マネーと人のアレンジである。日本はこれが、いたずらな横暴権力者になったり不能状態のままになったりしている。最も理論化や技術化が遅れているものだ。
アドミニストレーションは、組織的な協働が円滑に外部諸関係の規制を加味して、円滑に機能していくようにすること。
マネジメントは、プロデューシングに基づいて、実際現場とディレクションとが具体現実を生み出すようにしていくこと。
エディティングは、諸関係の適切な配置、校正、修正、再アレンジである。
クリエーションは、こうした4つの相互規制が、創造を生かすか殺すかにかかってくる。
全集の刊行は、これらがもろに総体として関与する。ここへ無自覚であると、信じがたい愚行がなされていくということだ。1人でできると思っていること自体、何もわかっていないということであり、必ず不備や不祥事をもたらす。何より謙虚さが欠落していく。
その不能ワークの露出は、もう語るまでもないであろう。ショック療法手法で問題露出をするしかない仕方にふりまわされて、本性が露出し、自滅へ向けて進んでいる。文化崩壊の加担者である必然である。
著者たちへの尊重の念のない横暴な態度や表現に、はっきりと出ている。
優れた編集者たちから聞いたのだが、そういう下品で粗野な編集者たちや出版社を「出版屋」「出版ゴロ」というのだそうだ。
著者たちからは、近年とくに編集者が「本を出してやる」態度で、横暴になっているとよく耳にする。
著者たちは、無能、不能化する編集者たちへ依拠することなく、自分たちで出版をなしていくべき次元へきており、自分たちでマネジメントもしていくべき時代になっている。マネジメント力もなく知ったかぶりの、制度権威に服属しているだけの無能傲慢な編集者などを相手にしていては、文化生産や研究生産は落下していくだけだ。だが、大学人の多数は、ソーシャルな不能エージェントにもう落下しているゆえ、そこに共謀する出版世界になっているゆえ、よほどしっかりした非妥協の覚悟で、突き進むしかない。
私は、それなりに、微力ながらもそこを疾走してきた。一つの可能性の道筋はつけてある。
無能でいばり腐った大手かつ中堅どころのの出版社に、依存する必要はない。真摯な出版社や編集者との協働をじっくりと進めて、限界を突破していくことだ。
流通も徐々に瓦解しつつある。真摯な流通の出現を待つしかないが、新たな協働は形成されていこう。
ネット社会での名指しで悪口の流布は、あちこちで聞く。社会病理の現れであり、自由を錯認した転倒の露出である。
エディティングの不在が最大根拠である、ただ勝手に「書けばすむ」となっているからだ。そこには知性の微塵もない。中途半端な大卒知性の歪んだコンプレックスがあるだけであり、仮象に取り憑かれた憑依ヒステリーである。編集者分際がそれを成すのだから、もう止めようはない水準に情況がある現れであろう。
人にはそのなすがままに任せよ、間違い=商品は自己執着を愛する、真の恋がうまくいった試しはない。シェイクスピア、マルクスをもじるとそういうことになるか。
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山本哲士『吉本隆明論 序説』
なる、私の偽書も、古本屋や図書館にまで入っているようです。
私は、こんな本を書いていない!
文化科学高等研究院出版局としても、出版社として発行も刊行もしていない。
印刷所が勝手に作って、書籍体裁の記号を配置して、完全なる偽物として販売さえしているのを、
今回の件であらためて知ることになりましたが、
いやはや、ただただ呆れ果てる。
私が始末していないって?! 冗談言うなかれ、犯行を止めろといって止まるもんですか、しかも害を受けるこちらを加担者だなど冗談ではない。無知な思考は果てしないようです。
なそうとはしたその企画は2007年5〜7月に実質破綻し、ご破産したのであって、しかも小生、校正もしていない書です。
私の名で、また私の書いた論考が入ってますが、自分の本ではない。
まさか私なんぞのものはないと思ってましたが・・・・
気持ち悪い! 不快、という実感です。
ISBNなどは、当時印刷所に任せていましたから作れた。
出版とは、ただ書かれたものを寄せ集めてそのシニフィエを正確に並べるだけのことではない。
さまざまな諸関係や要素から形成されて刊行されるのであって、本が出来上がるには、語られ得ていない物事がたくさんある。
本が実在するから真実だなどという、単純表層のものごとではないゆえ、出版倫理は非常にたいせつなことです。
編集者なら常識です。
この偽物販売されたものに(吉本さんの廃棄本もそうですが)おいて、印税も受け取っていないし出版社への売上も入っていません。
販売している場所も、出版社ではない。印刷所になってるはずです。
奥付まで完璧な形式が配置されている、偽物。
しかし、数部か多くても10数冊でしかないでしょう。
かつて問題が公にならぬようにと読者には関わりない出来事ですから、穏便に抑えたことが、一つの印刷所の1人が粗野になしたことでしかないことが、蒸し返されてしまったのですが、
事実が真実ともならずに、別の事実が作られていくネット社会の情報にはくれぐれもご注意されたし。
他方数部のことが、そのデータ情報を数百、数千が見て、その数になったと感じ、世界中に伝わるものことだという思い込みが蔓延している。何百万人も見てはいないのに、そこへ開かれているからそれが実在だと仮象されて、数部の現実具体をおおう。
強迫観念になったり、いい気になったりするのだ。
ネット社会で、浮き出てきた現象です。
ネット上のデータの真偽もシビアに問われていく時代になるでしょうが・・・実在物=偽物はそれをよそにある・・・・
「在る」ということの形而上学的な問いなど何も考えずに、素朴な「実在するんだから」が大手を振って闊歩する。
偽物を規準に規範化し、他人の存在まで裁断する横暴さえ登場する。
山本哲士『吉本隆明の思想』三交社、2008年
が、わたしが刊行を許可した、私自身の執筆、加筆、著者校正をなした「私が書いた」書です。本物です。
これに対する偽書も、「実在するではないか」、と言われるんでしょうかね?!
偽書なぞないんだというんでしょうか。実在している、しかし本物ではない。はっきりしていることです。
偽物という希少本。国会図書館にまで入っているから、そこには権威があるから実在している、それは偽書だと私の本へ私の言っていることは間違いであり、誹謗中傷になるんですかね。こんな出鱈目タイトルを、私はつけないですけど。
私のような小人には、たいしたことではありませんが、実害もさほどあるわけではないですが、履歴に載せられたなら怒りますね。
実在とは、偽物としても実在しうることで、絵画の偽物(署名や形や色使いなど酷似)のような巧妙なものになっているが、
存在条件は整っていないゆえ、見破れる。しかも数部でしかない。
「なんでも鑑定団」の学術書に関する人が必要になってくるんでしょうか。
活字が写植に転じられ、コンピュータで組版ができてしまい、
さらにオンデマンドや電子書籍で、書物がバラバラに解体されている現実も進んでいるようですが、
これからいろんな偽書が出てくるであろうと、推察されます。
いや顕在化していなかっただけで、結構あったのではないでしょうか。
海賊版というのもありましたが。
昔の活字時代には、著者印鑑が押されていましたが、印刷所が勝手に作っていないという証だったのでしょう。
(話は別ごとですが、チャットGPTでの知識など、シニフィエの寄せ集めデータであって、そんなことに技術の先端性があるとか可能性があるとか言われていますが、そこにはデータ偽書量産体制が組み立てられるだけである。擬似情報生成です。便利であることが如何程の害悪を生み出したか、産業社会経済・技術への反省的省察も垣間見れない。)
ですので印刷所の倫理は、決定的に重要である。データを全部持っていますので、なそうとすればどうにでもできてしまう。
買わされた方は、たまったものではないですが、どこか異常さがあるはずです。
偽書は、デザインやレイアウトの本形態がだいたい粗雑です。
情報はデータではない。偽書はデータの配列で、著者の情報生成表出はない。
巧妙な偽札も実在する。
偽ブランドも実在する。
造幣局がだらしない、ブランド製造者がだらしない、ということではない。侵害です。
<実在>というシニフィエは、必要条件さえととのっていないのです。まして十分条件は穴だらけです。
歴史書などは、精査がほんとに必要です。
存在条件の意味さえわからない人が、何を自分がしているかわからない人が、さまよう時代のようだ。
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したがって、なぜ、そのような情動感覚が情意をもたらしたのか、それをひき起こした対象の存立意味を探ることから、自分自身の実際的感応の根拠を探ることがなされますが、情意を吐き出さないとそこは見つからない。
対象ー相手を責めるのではなく、ましてや対象=相手を破壊するのではなく、対象事項がそれ自体として出現した根拠を、自分のことにおいて認識する作業を課す事になる。
認知や意識を根拠にすると誤ります。
思い込みが事実であるという認知状態は、当事者に固執される。
着物に関する研究会でのいくつかの見解を例に示そう。
着物が売れない、という事態を全て他者からもたらされていることだと認知して、
核家族化したから着物伝承がなくなった、問屋が機能しなくなったから売れる場がなくなった、着物が高い値段だから買われない、着付け教室が着付けで招いておいて着物を売りつける、学校教育で裁縫授業がなくなたから、など、周囲の原因が並べたてられる。そして、自分はそこへ文句ないし警告してきたが誰も聞いてくれない。などなど・・・・
と、着物関連に関わっている当事者みながよそごとを非難する。だから着物を人々は着なくなった、売れなくなった、と。
そういう人たちの誰一人、自分で着物を着ていない。
自分がそうした事態を招いていることへの認識がない。
典型的なのは、安い着物をまず着てもらい買ってもらい、徐々に高い値段のものを買ってもらうようにすればいい、という認知の仕方。
これは、学校教育の梯子段式の思考で、ビジネスではないことへの認識が全く不在。
安いから高いへ、やさしいから難しいへ、下から上へ、など。
つまり、着物という対象それ自体を見ていない。
安くすれば人は近づくという量産商品のあり方を言っているに過ぎない。
わかりやすくすれば本は売れる、という出版社の仕方も全く同じ。
高い本物を買えばあとは自分で動く、難しい本を最初にしっかり理解すればあとは簡単に読むようになる、と反対の事実を示唆すると、そんなこと非現実で実際ではないと否定する。自分の思い込みが事実だとされているだけのことへの批判考察はなされない。
根拠の設定が何も考えられていない。
核家族化は、社会的賃労働編制(賃労働男+家事女+学校児童の「賃労働とシャドウワーク」の社会分業編制)から構造的に構成されているのだと説明すると、難しいこと言われても分からないと認識することを拒絶する。
商品経済の仕方や思考は、資本関係への認識不在からなされているのだ、着物は資本であって商品ではないというと、何言っているか難しいこと言われても着物の売れない実情とは関係ない話だと、認識を拒絶する認知構造になっている。
今の日本はお金のことばかりで文化を考えようとしない、という認知には、お金とはなんであるかの認識がどこにもない。お金が悪いことだと認知されているだけで、自分の安給与を変える認識は微塵もない。お金を貯めているだけで、「お金を使う」あり方の意味はどういうことかへの認識はどこにもない。月生活40万円スケールの消費者感覚(日本の平均年収は約450万円)で、マネーの作用への認識も税徴収のシステムへの認識も全くないで、認知でそれが事実だという起点でしか考えない。物質規定から脱せない、単体10万円以上のものに自由度がない消費感覚に一般化。
一言で言うと、学校教育認知構造と消費商品認知構造が賃労働実践によって裏付けられて「認知思考」しているだけで、しかも認知対象が事実だと思い込まれているだけの意識様態にある。
基調報告は、「文化資本」を考えようというものでなされていたのだが、報告者以外、誰一人その概念をまた概念作用の意味を、自分の手持ちの認知構造を見直すものとして働かせる「思考の自己技術」へ取り込もうとしないのだ。
これが、大卒思考で膠着化している擬似認識を固定させた認知構造の誤認の再認構造であるのだが、シニフィエとして認知されたものだけが客観世界でしかも、自分の向こう側に自分の主観=着物を大切にしたい、に反する現実で自分と関わりなく構成されて遺憾だ困ったと言っているだけである。
そして、資本はお金だ、と認知=認識したまんま。
認識へ踏み出そうとすることは、「難しくて分からない」として処理される。認知構造が転移解体されるのを拒否する。そして拒否することが、物事を考えているのだと態度決定される。そして、お決まりパターン、「教育が大事だ、教育がよくない」、で他人の場=外部に、救済が構造化されている学校化の場へ転化されて、思考は閉じられる。
着物資本経済を、文化資本を指標に、物質的最大利益を追求する産業社会経済から脱して、市場をいかに新たに作り出すか、場所産地の着物の存在意味から考え直すべく、述語制の技術・言語を領有して、対象である着物自体を認識し直し、商品経済・賃労働収入の経済市場化された産業現実を出し抜く資本経済の可能性を自分たちで開いていくしかない、という議論基盤へ立たねば何事も始まらないのだが、認識しない。シニフィアン(意味するものの働き)を見ようとしないままの、情意を認知し続ける。
誤認だらけの認識不在の認知構造が、世間を席巻していることが正当化されている基盤は大学知であるのだが、自分に関与しない問いを客観だとたてて、他人事のシニフィエが事実だとされ、そこへの思い込みが事実を真実化している実在だという仮象は、こちらが想定している以上に根深い。歴史的存在条件へ規定されたままの意識における認知諸構造だ。
するとシニフィエ思考は、基本的に因果関係論へと配置されるから、悪しき原因が並べ立てられて、良きこと(着物伝統は大切に守られねばならない)は主観へ所有され(従観)、結果構造化されているものは「どうにもできない」着物が売れない世界となり、このどうにもできないことへの取り組みは、「売れなくなっている」結果を原因へと転じて、売れないから安くしよう、気軽なものにしよう、レンタルで着せてみようなど、着物ではない諸関係を持ち込めば開かれると、さらに売らない結果を売れない現実へと重ねて、商品化と学校化を構成していく。
着物に集約されている、非分離、述語制、場所、非自己感覚の醸成など、微塵も考えられないまま放置される。着物自体を否認していることから着物の甦生がなされるはずもない。
<資本>概念空間を否定しているのだから、着物資本が動く場がどこにも設定されていない。閉塞するに決まっている。
これが企業体そのものに起きていること、大学で日々構成的に構造化されていることだ。
理性なき、認知悟性のままの知性の横行である。思い込みのみが事実だとされ、そこに実在があれば真実だとされる様態だ。
思考は思い込みを正当化するためだけにしか働かない。
これが、思考の全体主義を日常へと現実化させる。
因果関係の反転が実定化される、プーチン=ロシア的構造の一般化である。
こうした主客分離の認識形式は、認知構造化されて国家資本にまで構造化されて、さらに欲望構造の再認体系として再生産されている。これが、個々のどんな小さな個別現象にまで心的に現れてくるトータリズムになっている。一つの覆い被さるイデオロギーではなく、個々人の実際行為へ個人化されて配備されているものだ。
思い込みは、かつては未熟な思考だと配置されていたが、今やそうではない、堂々とはびこっている。
すると、この実例で言えば、着物の話であるのに、着物でないことが着物のマターとして語られ、着物の現実性に内在化されている物事は着物ではないこととして認識されない。つまり、着物はどこにもいなくなる。これがトータリズムの本性である。着物を着物当事者たちが殺しているのだ。
政治家たちは政治を喪失し、企業体は資本を喪失し、儲け売り上げ増大は利益を喪失し、銀行はマネー本性を喪失し、官僚は行政を喪失し、学校は学ぶことを喪失し、大学は学問を喪失し、医療は治療を喪失し、個人は自分を喪失している。
この喪失の方が現実的で、そこへの批判考察や新たな飛躍は非現実的だと排斥される。文化喪失の効果である。
戦争を仕掛けたのは自分なのに相手が起こしたとし、自分が侵攻をやめれば戦争は終わるのに相手が継続させていると、全くの反対が主張されて、相手側より自国兵士の多くが死んでいく。正当化している方が自分で自分たちを殺していくのだ。
逆生産の構造化が日常へ常態化されているのが、トータリズム。
事実は真実とはならないで、思い込みだけが事実となっていく主客のウロボロス。
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(私は第三者ではなく、2007~2008年の刊行統括責任者。)
生前に著者本人とともに文化科学高等研究院出版局が作ったのは、
A) 2008年7月10日発行:初版の『心的現象論・本論』(発行:文化科学高等研究院出版局、発売:星雲社。544頁)と
B) 『心的現象論』(箱入り愛蔵豪華版。「序説+本論」。2008年8月8日初版。977頁。申し込み希望者への販売)、のみです。
(「付録資料」としてインタビューまとめが、特典的につけられている。)
C)そして著作権継承者承諾の、Aの再版と言える、新書版型の『心的現象論・本論』(文化科学高等研究院出版局、2022年1月31日発行)です。
これらはそれぞれ初版のみ、再版はない。下の写真3書のみを発行しています。
他のものは文化科学高等研究院出版局としては発行・発売も販売もしていない。
A B
この2書には、「まえがき」が印刷に間に合わず入れられておらず、愛蔵版にパンフ(下写真)として入れられています。(この内容経緯は別稿で。)この説明書きを読まれてください。吉本さんは当然読まれ認めている。
下写真の新書版Cで、生前の吉本さんへの約束通りのこの「まえがき」が書籍構成として入れられる。
「まえがき」の代わりになしたインタビュー(ですのでここにしか載せられていない)を愛蔵版の特典としてつけた「付録資料」は、「まえがき」が入りましたので割愛しています。それが、本人が生前に望んだ形態です。つまりAに「まえがき」がつけられること(愛蔵版Bの本論部のはじまりに入れられること)。
まえがき
本文
あとがきにかえて
のシンプルな構成です。
C
これ以外の別ものが当社刊行であるかのようにいくつか横行しているようで、そこに関する事実経緯を述べます。
●印刷所の先走り:印刷所との共同事業の形成準備と解消
2006年12月、本人は当方で単行本化を出版することを決断され、それを受けて、当初はオンデマンド形態で刊行して行こうという企画でスタートしました。2007年初頭。
それは、印刷所が印刷経費を持つことであり、Z印刷所のmononoge.com企画として組まれていたことに乗せること。
発行出版社は当方です。双方の共同事業として組まれることになった。
2007年3月6日の吉本氏へのインタビューは、
「『心的現象論』を書いた思想的契機:新たなオンデマンド出版形態での刊行を前に」
と題されて、2007年春号(4月)の雑誌特集で組まれます。「了解論」43〜62までが同時掲載。
その文末に写真があり(束見本)、刊行予告。この時点では、企画準備中です。まだ実物は作られていない。
(この記事は、「あとがきにかえて」として、私の語りを省略し、本人の語りを主に、私が再構成し、吉本氏も目を通されて「あとがき」と定めたもので、上記ABCの3書に入っています。)
(元の全文は、資料的にオンデマンド・アクションとしてスタートしたのは事実ですから、『思想を読む 世界を読む』に、しかし副題を「『心的現象論』を書いた思想的契機:その刊行の新たな資本出版生産形態」と変え、「山本自註ノート:『心的現象論』制作・刊行の経緯」が簡略に述べられています。)
私は書籍構成としてどうしても「序文」ないし「まえがき」を求めており、本人も書かれるとおっしゃっていたのですが、なかなかかかれない。
また本文校正も途上であって、完了していない。
基本データは、印刷所に逐次提出されていたが、最終校正・校閲は未完でした。
なのに、オンデマンド形態で勝手に作られてしまう。
それは、momonoge.comと裏表紙に記名されています。印刷所です。
当方の名が記されていますが、当方は刊行承諾していない。
それが二つあります。
?
2007年5月に、次の私の書が、まず勝手に作られた。刊行予定とされていたが、私の雑誌原稿をスキャンして勝手に作られた。
できるとデモンストレーションしたのでしょう。
私は驚き、レイアウトもデザインもなく印刷所が勝手に作ったこの自分の書に、「こんないい加減なことはするなよ」
と叱正。作った印刷所の当人Xはこちらへ貢献しているつもり、善意のつもりで悪意ではないと思いますが、検討も著者校正も承諾もない先走りです。しかもRYUMEI YOSHIMOTOです。大学闘争当時の呼び名ですが、出版する上でこういう表記はしない。廃棄を命じます。
(この本物の書は『吉本隆明の思想』三交社で、2008年に刊行される。)
?
にもかかわらず、2007年6月に次の書が、さらに勝手に作られた。
まだ「まえがき」もなく、校正も完了していない。タイトルも勝手につけられた。入稿されていた組版原稿をそのまま本の形にしてしまった。レイアウトもデザインもないに等しいものを印刷所レベルで、粗雑極まりないどころか、まだなんら校了していないのにです。不備の不良物です。単純な黄色?と青色?の安直なひどい装丁の代物。
印刷費が自分たちもちだから勝手にしていいと、「出版」制作という工程を無視した先走りです。
私は、叱正どころではない激怒です。しかもこれは、「眼の知覚」以降の「心的現象論・本論」の部分です。「心的現象論」は「序説+本論」で行こうと決定されていたのにわかっていない。心的現象論の試行連載だから心的現象論だと概念上の識別感覚・自覚がない。
箱入りがあると言われているが、私=出版局は雑誌写真用の束見本を見ただけで実物など知りません。
裏側にmomonoge.comと記名されているよう、そこが作ったものである。受け取って廃棄されたものは以下の写真のもの。
破棄された物:オンデマンド形態(2007.6)
二度も同じことを繰り返す、印刷所としても、印刷業務の仕方としても信用喪失です。
この??は、データが印刷所にはありますからできてしまうものの、印刷所所業として踏み外しです。
付帯データも、この印刷所で製作したものがあるため持っているものが使われた。(印刷所はデータを持っていますから何でもできてしまう。)
このZ印刷所との関係を全て、当方は完全に断ち切ります(他の印刷物もありましたから、全てを断ちます)。
ビジョン計画通りの出版にならない。2007年6月時点で、momonoge.comとの事業は頓挫し消滅している。共同事業の解消。
出版制作としてこれでは責任とれない、作業が成り立たない。
吉本さんには、この実物を見せて、「こんないい加減なことはできない、印刷所を変える」と申し出ました(これが吉本家には残っていたかと思います)。本人も承諾。組版・校正をしている高橋輝雄氏(三交社社長)に伝え承諾。
つまり?は、著者も発行出版社も認めていない、かつ廃棄指令されたものです。
破綻後の終結協議は、7月までなされ、この??は廃棄決定されている。オンデマンド形態ですから、刷ったものがあれば廃棄せよとZ印刷所にはきつく指令した。何するかわからぬ危険があったためデータ戻しを求めたが、印刷所が作った所有物だから渡さないと拒否。社長への抗議を提出するも無対応。ここで争っても無駄と、一切関係を絶つ。
通常なら、ここで企画も刊行もすべて終わりだというような出来事だが、こちらの地道な作業(高橋輝雄・三交社社長による2000年からの「戦後55年を語る」全12巻:三交社刊行、第7巻から「眼の知覚論」から身体論、関係論を公表しつつ作成)を見られていた信頼関係もあったためか、著者は事態をすぐ理解してくださり、2007年7月までのZ印刷所とのものは全て断ち、新たに全てを2007年8月より再スタートさせた。
研究者による研究生産の出版という文化科学高等研究院出版局事業へ賛同されていたのであって、印刷所の事業への賛同ではないからです。主要なのは、書籍制作ですから、そこに支障をおこしてはならない動きはこちらサイドでは持続的になされる。
● 初版刊行への再スタート
したがって資金基盤がありませんから、2007年8月より、私は資金集めをし理解ある企業人から出資を受け、出版基盤を再編成した。
そして、別の印刷所「api」を新たに生産体制配置し、その田中社長と綿密にミスのないよう詰めながら、それから1年かけて、高橋輝雄氏チームの校閲・校正も時間を十分に当てることができ、全てを再スタートさせ、
上記2書A・Bを製作刊行できたのが、翌年2008年7月、8月になる。これが初めての刊行・発売です。
この印刷途上で、本人直筆の「まえがき」が書かれたのですが、印刷に間に合わなかった。パンフとして愛蔵版に入れられた。
デザインもレイアウトもプロに依頼し、出版物としてきちんと完成させ、校正・校閲も時間をかけ綿密になし、
このA・Bの2書が、すべてにおいて納得がいく構成になった物です(「まえがき」のみが間に合わなかったことが口惜しい)。
これが「最初の出版刊行物」です、いわば本物。これ以前のものは出版社としては刊行されていない。
● ?は廃棄させたもの
この?が、市場に出回っているのはあり得ないことです。なのに持っているという人がいるのは、おそらく協議決定に従わず、断裁せずどこかに売り払ったとしか思えない。当社には、まったく無断で。momonoge.comというウェッブが作られていたから、そこで販売したのかもしれません(しかし、10数部も無いと推察しますのも量産印刷形態ではないゆえ)。何人かが持っていると強く主張されているのですから。しかも、それは2万円の価格がついています。高額で買わされた人が、その実在を強調するのもわからないではありません。
この偽物のカバー・表紙裏には、momonoge.comの名が記されていると思います(つまりそこ=印刷所がやったことです)。当方機関ではない別の機関です。
すべてうちがやったかのような体裁なっていますが(絵画の偽物のように)、
奥付を見られたなら、この事業に関与したスタッフ関係全員の名が記されており、2008年初版A・Bを見れば無い名があります。それが、この印刷所メンバーです。(名誉のため、実名は記しませんし、明かすべきではない。済んだこと、始末されたことです。)
もう少し正確にいうと、Z印刷所の嘱託であったXが、「吉本隆明」に魅せられた世代であり、吉本本なら商売も成り立つと、この印刷システムの企画推進をなし、それを自分が刊行できると舞い上がり、印刷所が印刷代を担うゆえ自分のものだから自由だと思い込み、先走った。悪意はないと思いますが、販売したならそれは協議破り、違反です。その経費の埋め合わせに売り払ったのかとも推察しますが、私どもはいっさい、ここ印刷所との関係を切りましたので、その後関与していない知るよしもない。Z印刷所なりの会社としての内部責務処理はされたのではないか、担当専務はしっかりしていた方ゆえ。というのもその数年後にXが死去(死因は知らない)している。連絡が来るも対応はせず。ただ死者を穢すまいと、私はこの詳細経緯を公にはせず、死者冒涜を避けてあえて曖昧に簡単に推移をのべ、無きこととして処理すべき配慮です。こちらのマターで、読者の方々には関係ないことですから。
廃棄ですから、そこで終わったことです。書誌的には尋ねてくれれば説明できたこと。
もし?写真とも違っているものであるならば、A・B(・C)以外それは完全に偽書です。
(事実を示すために、他なるものをあらわにすることは、ほんとに嫌なことですがやむを得ない。憤りと悲しさの相反的情意がうごめきます。)
無きものとして、無視すべき、消すべき??です。始末されたことです。それを知ったかぶってほじくり返し蒸し返したのは、無知の下賤暴挙。
● 発行人から申し上げます。
?も?も、当社は刊行・発売していない。つまり、Z印刷所Xの独断で作られたものです。
momonoge.comでのオンデマンド企画はこの準備時点で、ご破産になっている。刊行前です。
見本的に、勝手に作られた?であり、双方協議で、廃棄を指令されたもの。公には出ていない、存在していないもの。
当方からすれば、この??が実在しているならそれはただの偽書です。当方は刊行していない。本物らしく(絵画の贋作のような)奥付やISBNまでつけられた偽書。しかし全く不完全物です。(組版はこちら作成のものを使っていますが、校正未完結。プロなら、一目で組版がそのままレイアウトなしに印刷されているのがわかること。)
印刷所に出したデータが、未完の粗雑さのままゲラ校正すらないまま勝手にオンデマンド形態で作られた。しかものちに売られた?!
当方に、読者から1、2件だけ問い合わせがあり不審に思いつつも、当然刊行していないし、実在もありませんから断っています。1冊たりとも販売していない。
この偽書の上に立つと、以後の認識が必然に誤認になってしまう。(聞きもしないで、犯した間違いをヒステリックに正当化することさえしでかす。)
● 初めて刊行・発売したものは
2008年<初版>を、きちんと新たな印刷所で、校正・校閲も仕上げて、
A「本論」は、当社発行、発売=星雲社で普及版を、取次も通すよう配置構成し、初めて世に出した。2008年7月10日。
本論Aを普及版としたことで、オンデマンドで印刷所が予定設定していた2万円の価格を半分以下に下げることもできた(8000円+税)。
B 愛蔵版で、「序説+本論」の形で「心的現象論」全体を収録でき、さらに序説(角川文庫)の印税を妨げることも避けられた。
「愛蔵版」Bはオンデマンド形態にしたので、取次を通していない直販。2008年8月10日。
愛蔵版には、本人直筆の「心的現象論」の文字が入っています。これが「序説+本論」の本人が求めた1〜最終回までの全連載が入ったものだからです。これが吉本さんが出したいもので、これを見て安心された。普及版の「本論」カバーには、この文字が記されず、表紙に隠されてデザインされているのも、心的現象論における「心的現象論・本論」であるからと、象徴表現として概念識別してなしてある。
愛蔵版には、定価もバーコードもつけていませんが、著者本人も了解した書籍としての存在条件は整えてあります。
デザインもレイアウトもプロに入っていただき、解題も校正・校閲も余計なことは述べずにしっかりきちんとした書です。?と比較されれれば一目瞭然です。
A・Bをともに刊行せざるをえなかった根拠であり、タイトルを含めそう本人と構成決定したものです。「本論 まえがき」は、本論再版時に入れると約束した、それがCです。
これが事実factsです。
?がどこにも出回っていないように(のちに調べたなら出回っていた)、?が出回っているはずがないことです。
もし、そうだとしても十数部でしかないと推察。
偉大なる書には、ほんとに注意せねばならないということは、改めて反省しますが、偽書作りに関わるすべもない。
倉庫を掻き回して探し出した??です。
アクションは2007年7月で移り変わった。
2007年の最初の企画はご破産・解消され、2008年の新たな構成企画によって初めて刊行・発売された。
??は実在するからといって、存在条件を何も満たしていない。(「実在と存在条件」の前回参照)。実在と存在条件の意味もわからない人は編集者・出版人として失格です。
この偽物を買わされた方は、申し出られてください。
本論の本物(書店からの返品物しかありませんが)とCとを贈呈させていただきます。きっかけを作ってしまったこちらからのせめてものお詫びです。
遺憾なことが起きているようですので。
当時、問題を激化させたくないため、曖昧な表現で説明させていただいたことをお詫び致しますが、注意深く読んで頂けたなら決裂ゆえ、2008年刊行が最初から新たになされたことがお分かりいただけると思います。第一次企画は破綻。第二次企画として最初から全てを組みたて直した次第です。理念は継続的ですが、実行実態は断裂です。
補記
私はもう何ももうしません。物事には何が起きるかの存在本質的な理論考察はしますが。
事実と真実との間に派生するレギュレーション上の解釈のズレは、さまざま見解を生み出すようですが、資料の実在には存在根拠・存在条件の検証が必要であるのは研究上の基本です。私どもに直接聞かれれば説明できることで、閉じていません。
不誠実な対応は、自滅するだけのこと。
関係を絶ったXの霊に合掌。(彼は私を慕ってくれた人でしたが・・)
吉本思想が、きちんと理解されるよう本人の意向・決定に添うのを伝えるのが目的です。
それは、心的現象論に関しては、連載の1〜最終回までが、出版社の事情・利害を超えて、1冊の書に構成され出版されること。読者もそれを望んでいるのを耳にします。
私どもは営利活動を目的としていない、文化生産・研究生産を第一においています。
それぞれの良心=コンシアンスに判断はお任せします。
ps
文化科学高等研究院出版局は、私の研究所が研究生産している出版局事業です。私は当事者。第三者としての見解ではなく、当事者として事実をのべているだけで、私所有・独占を主唱しているのではない、自己正当化ではない「事実の出来事」、と申し添えておきます。
ps
始末処理されたことを、あえて蒸し返し、発見したかのように掻き回しているものがあると聞きましたが、その不遜な愚行には付き合う気は全くなし。吉本本人への冒涜を私への攻撃に転じている穢れの醜さです。事実を素直に認め、修正すればいいだけのことです。誠実に対応すればきちんと対応いたします。晶文社社長には誠実にきちんと対応し、問題を喚起すべく初発の私信での激しい口調にも謝罪しましたが、きちんと理解されました。仲介人のD社社長も、納得了解されました。仮象が解かれたからです。
実名を挙げれば正しいなど、配慮を無視した非常識で、必要なことではないし、すべきではない。当事者が自身で確認できること。
A、Bが吉本さん本人が作られたものです。
余計なブログ記事は役目を終えているゆえ閉じています。このブログもいずれ閉じます。
あとは、出版倫理の、個々の態度のことであり、そこへ小生がとやかくいうことではない。人はなすがママにまかせよ、歴史が裁断する。
]]>その典型が、「偽物」「贋作」です。
絵画や墨書ではよくあることです。記名や署名が、その人の名でも、本物の存在条件を満たしていない。
実在はするが、存在はしていない物です。存在の仮象と言っても良いかと思いますが、存在ではないとしたい。
これは書物、文献でも起きます。単純には、偽書です。
古文書が在るからといって、それが歴史事実であるとはなりませんから、歴史研究者は慎重に古文書を精査します。
かつては手書きの墨の書ですから、一つしか記されない、そこに偽物やいろんな版が存在します。
〜家所蔵、〜氏の所有物、などいくつもあります。書写する人によって、そこには筆記上の違いや間違いもでてきます。
後ろの署名に、その書が書かれた以前の人の名が記されたりしています。
例えば、「紀貫之」なる名が、書写された時代よりはるか以前なのに、貫之の書であるかのように記され、続く面々の署名で、実在であるとされます。
実在するからといって、それが「真なるもの」であるとはならないのです。
墨書では、本物か偽物かわからずに、確証できず「空海伝」と記されたりします。
偉大なる古典も多分にそうです。
印刷技術が発展すればするほど、偽書も可能になります。
偽書とされるものは、権威所在や発行者によって、判別されたりするほかなくなります。手書きの文字ではない印刷物になってしまうためです。
内容まで、偽りの書が出たりします。フーコーでも出たりしており、監修者のエワルドたちは困ったと頭を抱えていました。
一番面白いと感じたのは、「鼻足動物」の書が有名です。ある島に鼻で歩く動物がいた(ネズミのような姿)。その科学的な調査・観察の「生物学」の科学書です、形式・体裁は見事な完璧な科学論文です。しかし、この島は火山の爆発で消滅、わずかに一つの書が残った、あとは全て壊滅した、と。
日本の神話で言えば、有名なのが『先代旧事本紀』です。古事記・日本書紀の<正紀>に対して、「饒速日」が主に記述されたもので「偽書」だとされてきましたが、近年の研究で、もう一つの神話ないし歴史書としての文献の存在条件が確定されてきています。
私はニギハヤヒは存在したと見ていますので、非常に参考になります。
さて、印刷物=実在があるからといって、そこに発行所や著者名が記述されていたからといって、その発行所や本人が刊行したものではないということが、技術上ありえてしまうのです。
判断する人は、出所事実を確認しないとならないことになります。
実在が、存在条件を満たしていないことが、その書の表面自体からは判定できないことも起きてしまいますから、大変な注意を払う必要があります。
オンデマンドという形態では、これがとくに起きえてしまう。印刷所がデータを持っていますから。(印刷所の倫理、ビジネス真摯さが要されるし、こちらは印刷所を選ばねばならない。)
さらに、電子書籍化されることで、これから増えていくことであろうと想像できます。
当の発行者自身が知っています。そこに携わった直接の人たちが知っていることです。
しかし死亡していきますとますますわからなくなっていきますから、存命中にはっきりさせておくことですから、発行した者が事実を述べておくことが肝要で、必要です。
が、たいてい、内容が不備になっているとか、装丁が乱雑だとかで判別はできるかと思います。
(電子書籍になるとそこも怪しくなってしまうかと懸念します。)
実在(物)と存在条件が異なることは、多くの哲学者たちが考察している。理論的にも大いなる問題です。
「物」とはなんであるのかの考察は難しいテーマですが、経験世界の諸関係では実在の真偽は、当事者たちの存命期間では明証です。
しかし、官僚の国会答弁のように「記憶にございません」で、文書改竄の実在物=文書が否認されることさえ起きていく現在です。
すると反対に、「記憶にはっきりとあります、実際出来事として有ります」と言っても、否認さえされる現在です。
実在が存在条件とは一致しないことの現れが、反転してしまうのです。
廃棄したものは、刊行してもいないし、販売もしていないものです。
その事実を示すことは私所有しているのでも独占しているのでもない、廃棄物であると破棄した当事者が事実を述べている真実のことです。
市場に出してもいないものが市場に出ているのなら、別の者がいかにも本物であるかのようになした偽物です。
文化科学高等研究院出版局は、私の研究所が研究生産している出版局です。
その偽物には、momonoge.comと記されていると思います。当方機関ではない、別機関です。叱正し破棄させたものです。
申し出ていただければ、翌年に著者本人とともに作った本物を贈呈させていただきます。
事実経緯は、あらためて述べます。
文化科学高等研究院出版局は、小さいながらもう100冊以上の刊行を地道に真摯に誠実に、商業主義に堕することなく学者・クリエーターをコアにして進めています。
]]>
そしてとても微妙でデリケートです。
いろんな関係性や価値や判断や作用が、日ごとに変わります。
役目が終わったなら次のステージです。
actionには目的意識性はない。、行為そのものです。緊張を高めたり、緩和させたり、激しかったり温和であったり。
目的のように見えるものはあくまでも問題をうき立たせ、fieldを限定づけるツール/手段=meansであって、対象objectに規定される動いているaimであり、獲得・到達目標=goalなどではありません。
act(e)は、制度化された言動です、規則規範に従属したもの。
conduiteは「振る舞い」、仕草や慣習的な身の振り方です。
praxisが目的意識的な行動実践です。これが「実践」の意味です。
practice/pratiquesが、実際行為、actionの日常的な言動です。サルトルが言うような惰性態や無自覚ではない、プラチックな論理がそこにあります。
symbolic struggleはactionといかなる関係構成になるのか。
そこには、上に示した五つが同時的に絡んできます。
struggleは、<対立>が起きることです。真理、真実をめぐっての対立が歴史的にもなされてきましたが、典型的なのは「地球が回転する」ことをめぐる、コペルニクスやガリレオのsymbolic struggleです。真実は、時の常識や真理体系にとって異様、異常でさえあるのです。しかもコペルニクスの原理とガリレオの原理は、真理基準が異なります。
物事においても、人の関係においても、出来事においても、生活や環境においても発生します。
対立において闘う行為は何事かを動かすことです、相手を倒すことではない。
actionが対立を引き起こしたり、解消したりします。いろんな作用になるのがアクションです。
(スポーツの試合が、actionの典型です。多様な現れ方をしますが、対抗贈与的に(こうしたならああなるだろうからここはこうする)動いているためです。物理的な破壊ではない規制が限界づけをしている次元があります。)
自分と対象との関係において、別の次元へと開き飛躍していくことです。revolutionとは、re-vuelta,,
volver=戻ってくることを、re-=繰り返し、変わっていくことです。これはルール・規範自体を転じていく次元でなされるstruggleです。
私は、大学闘争以後、<praxis>を徹底批判してきました、目的が定められて、そこへ行動を直線的に飼育していくからです、しかも投企的に。
ですから政治的闘争ではなく、日常性を問う政治的自律性の闘い(試験や成績評価や講義など)でした。
制度慣習的なactesへの侵犯行為のアクションです。
アクションとしてのストラッグルは、実際には、日によってまったく反対のことがなされたり、言われたりもします。相手の反応も変わっていきます。固定したものにはならない。曲折します。
秩序の向こう側へ出ていきますから、actesが侵犯されますから、儒教的一致が外部から道徳的に裁定され、非難を受けますから、そこへひるんではならない。
思想家は思想を一貫して貫くのだと思いますが、
私は思想家として生まれてもいないゆえ、思想家として死ぬこともない。
対象と自分自身の足元を考える、ただの研究生産者です。
それは、情況の関係性の中でアクションをずらしていくこと、同一性は停滞であり敵です。
実際的な物事への批判解析は誹謗中傷でもなければ、事実を知らしめることは脅迫でもない。
しかし、情心は人様々ですから、感取(受け止められかたにおける感覚と情意)は違ってきますし、各人の正しさの裁定規準も違ってきます。sanctionがいろいろ違った反応で出現します。
事実を真実として受け入れることは、とくに自身の犯していた誤りを変えることに追い込まれますから、認めない情意が否応なく働きます。
そのように感じたことへの悟性が理性へと転じられないと、アクションは自分ではないものへとまがってしまいます。
アクションにおいて派生する跳ね返りの汚れを被ることになりますが、それは洗浄・浄化はできないことを知った上でなすことになります。
相手が正しくあれば闘いを組む必要はない。
相手が間違っているとき、ただ正しさをぶつけても意味がない。相手と同じレベルまで落ちて、自分も愚かになっていかないと対峙できない。これが、いわゆる闘いがほとんど不毛に落下する根拠です。
しかし綺麗事をもっともらしくいうことには嘘や誤魔化しがある、騙しにさえなる。
正しいこと一本調子の主張は、ぽきっと折れる。正しいことほど相手を傷つけるものはないということも知っておくことです。
また攻撃には、とくに反撃にはボロが露出します。
自分の方だけが正しいとはなりません、関係性の中では。
ですから、そのネガティブさを必然に負わないとならない。
また正しさの確定は、相手が罪を負うことを関係の絶対性からもたらします。
自分だけが正しいとすると、正しければ何をしても構わないという横暴ささえ派生します、一番注意せねばならないことです。社会主義や独裁は国家次元でそれをなしますが、個々人の間でも起きることです。
現在、世界では、半々に正しさは真っ二つに対立してしまう。過渡期の兆候です。
が、個々のケースでは正しい主張を緩和させてはならない。ここが負荷になるところですからやっかいです。
押していくだけでなく引かねばならぬ時もありますが、間違いへ妥協してはならない。
自分を守ろうとするアクションは、自分が自分を裏切っていきます。醜くなるだけです。墓穴を掘るというのは、私心で自己保守しかしていない私欲だからです。
正直に曝け出すことがアクションではだいじです。自分が傷つこうとも。
そして、事実はそのまま真実とはされえないからストラッグルが起きるのであって、
<事実>と<真実>との間の象徴的ストラッグルとなるのです。
ですから<出来事>として、出来うる限り正確に把握せねばなりません。事実への理解の仕方が異なるからです。
意見の対立は最も不毛です。深い認識がそこにはないからです。
問題を顕在化させるため過度の口調や粗野さが要されますが、それは自身を落下させることを被るのを知った上でです。対立は粗暴ですから、はやく対話がなされる次元を開くことです。(国家間では外交がないと戦争です。)
struggleとは、組み打ちする、苦闘する、苦心する、骨折る、もがく、じたばたする、あばれる、の振る舞いの意味がありますが、大いに努力する、押し分けて進むという意味です。
そして言ったことは取り消せない、そこには自分で責務をおわねばなりませんから、
自分へは記録を照査として持っていなければならない、公開し続ける必要はない。つまり他者のものではない自分のものです。
しかし他者へ課したことは自分の所作として派生していますから、いつでも相手へ開示できるようにしておく必要はあります。正当化のためではない、責任としてです。
言述においては、弱みを隠す仕方は力にはなりません。優位性の誇示も、自分を貶めます。知っててなすことです。
そして事実の真実性が第三者の裁定に委ねられのが、調停や裁判です。しかし、judgementがすべて正しいとはなりませんから上訴の訴訟行程がなされます。
よく、ブログで消去してしまったという非難がなされたりしますが、webの特質は載せたり消したりすることが自在なものであることが特質・本性ですから、そんな道徳裁定は何の意味もない、ただ発した言動には責務はあります。
しかし、アクションでは語ったとき、そこにもう語った者はいません。
語ったことに、相手を固定させるのも意味ない、相手は語られたとき、もうそこにはいません。
こうしたことには時間の一過性と時間の不可逆性が矛盾対立を存在的に開かせるところです。
アクションにおける「振る舞い」がそこで問われます。
相手を慮り、いかに真実であろうとも、公開を閉じる必要はあるのです。正しければ尚更にです。正しさの象徴暴力を緩和させることはたいせつです。
アクションの作用場面が変わったからです。
対話の機会と場が設定されたなら、なおのことそれは礼儀です。剣は鞘におさめねばならない。
一般的な第三者は、事実を知ることもなせずに、誤認を真実化していくからです。そこと闘うことは全く意味がありません。なすがままにまかせよです。自分がそこにはいないように第三者は語るだけだからです。
アクションをイデオロギー裁定するのが、知性偽装の典型です。左翼だよ、右翼だよで片付ける仕方です。アクションはイデオロギー行為ではない、実践=praxisはイデオロギー行動をとり得ます。
しかしアクションにはテーマに応じた戦術や戦略が正統性と正当化をめぐって作用させられます。その自覚なき人にも必ず作用しています。
対話がなされないときと対話がなされるときとでは、アクションはまったく違ってきます。
アクションで利益を求めてはならない。利益なきことが利益です。損失は防げない、覚悟すべしです。
そして、アクションには「外在性」が絶対的に必要です。でないとただの私心に陥ります。公心、公言であることです。
自分が倒れても、いなくなっても作用するものが外在的にあることです。
真言を述べることであって、真言が真言にならないゆえストラッグルは起きるのですから、ここで策略などをはたらかせてはならない。アクションは愚直なほど純心であることです。利益性や自己保守を持っては弱体になるだけで、praxisへと転じられてしまう。
アクションは、倫理的自己技術です。
真実を述べることは、相手を凍らせることであり、また自分が殺されることになるのは、知っておくべきです。
そして、本質的な存在次元で、理念はかならず裏切られる。実際次元で、願望は満たされえない。
だからといって希望を捨ててはならない。
ただ、関係性の中で、自分は何をしているのかを自分へ向けてははっきりと持つことです。どんな些細なことにも、矮小な出来事に対しても。それは一義性に固定はされない。
本質基準だけはぶれてはならない。
他者からの容認はありえない、であるゆえcoflictが起きる。
それは、事態が露出し、考えること、慮ることがそこに開かれます。限定的な限界づけが、生成の時間において仮象が溶かれ、真実の穴がトーラスのように配置されます。
そして、理性が双方に高くあれば、解決への新たな次元が開かれていきます。
どちらかに理性がないと、混沌の泥沼になります。
アクションでもう一つたいせつなことは、シニフィエされたものは意図ではないということです。シニフィエで、関係配置が揺さぶられることです。
事実の確認と設定が基本ですが、その事実への理解の仕方や対応の仕方が異なりますので、そこを悟性だけでは対立のままですから、
新たな次元への理性生産が必要になります。存在の被規定性の転移です。
対話=ダイアローグとはそういう機能であることです。たいせつです。
プラトンであれソクラテスであれ、理解はされなかったのですから。
理解させることは、アーレントが言うように、暴力です。それも心得ておくことです。
理解されれば済むか、というと済みません。理解はゴールではないのです。
誤認は事実であり、再認のコードは簡単には転じられない。
真実とは象徴的ストラッグルによって真理として生産されていくことにあります。
そして、対話は、礼儀正しくすることです。語られない情意もくみとっていくことがたいせつです。
]]>しかも、それは、パワー関係において戦略的になされていることが潜んでいます。
従って、サービスとホスピタリティとの違いを自覚していないとうまくなされないのですが、
日本はそれを無意識的に行使できていた文化にある。
商品経済で、ごちゃ混ぜになっています。
また、気候変動、脱炭素の環境論の新刊です。
1.5°Cの気候危機を考えます。
発売は、11月11日ですが、早めの購入は以下でできます。
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11月25日の吉本さんの誕生日に、感謝と敬意を込めて、改めて論じておきたいと思い立ちました。
読書人:神田神保町にて。
これらを語るには少なくとも12回必要ですが、それは生誕100年の2024年に、まだ小生生きていましたならやるつもり。
今回はそのイントロです。
申し込みは
https://jinnet.dokushojin.com/products/event-20221125
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By ハムハウス
16時〜18時
場所:大宮、ハムハウス:さいたま市大宮区高鼻町2丁目1−1 Bibli 1階
https://humhaus008.peatix.com/
北関東の方、おこしください。
大宮に降りるのは生まれて初めて。
まったく縁がなかったところですが。
聴衆の方たちと、気さくに話し合いができればおもしろい。
]]>知の新書『「風の谷のナウシカ」と「モモ」から学ぶ』
の刊行(9月21日発売)をきして、公開セミナーをします。
9月14日 18時〜
セミナー:1200円
新書:1300円(1430円を割引)を発売前に提供。
https://jinnet.dokushojin.com/products/event-20220914_01
https://jinnet.dokushojin.com/products/event20220914
当日、セミナー代だけでも受講可能です。
ナウシカは、戦争へ参画せざるをえなくなり、かつ最終的には巨神兵を使って墓所を壊滅させる。
漫画七巻、ナウシカは、ただのアレゴリーではない。
カイヨワ「戦争論」をふまえつつ、
五流知識人、エマニュエル・トッド『第三次世界大戦はもう始まっている』を批判します。
二流どころではない、フランスでは相手にされず、日本が相手にしてくれると喜んでますが、それほど日本の一般知性が退化している現れです。ひどい、論述です。
日本が「安楽の全体主義」へ陥っていることの表れでもあります。
マルク・オジェ「国家なき全体主義』も参考に。
日本は、「平和のための戦争」を日常化している。その典型が、コロナ禍における医療化であり、日々の学校化ですが、
「大学知性」の世界秩序が、この混沌の最大要因です。プーチンは、その独裁専制国家の典型バカですが、日本の自由主義・民主主義国家の二階なども同質です。
国家間均衡の設計による世界秩序は、崩壊している。
などなど。
]]>知の新書『「風の谷のナウシカ」と「モモ」から学ぶ』
の刊行(9月21日発売)をきして、公開セミナーをします。
9月14日 18時〜
セミナー:1200円
新書:1300円(1430円を割引)を発売前に提供。
https://jinnet.dokushojin.com/products/event20220914
当日、セミナー代だけでも受講可能です。
ナウシカは、戦争へ参画せざるをえなくなり、かつ最終的には巨神兵を使って墓所を壊滅させる。
カイヨワ「戦争論」をふまえつつ、
五流知識人、エマニュエル・トッド『第三次世界大戦はもう始まっている』を批判します。
二流どころではない、フランスでは相手にされず、日本が相手にしてくれると喜んでますが、それほど日本の一般知性が退化している現れです。ひどい、論述です。
日本が「安楽の全体主義」へ陥っていることの表れでもあります。
マルク・オジェ「国家なき全体主義』も参考に。
日本は、「平和のための戦争」を日常化している。その典型が、コロナ禍における医療化であり、日々の学校化ですが、
「大学知性」の世界秩序が、この混沌の最大要因です。プーチンは、その独裁専制国家の典型バカですが、日本の自由主義・民主主義国家の二階なども同質です。
国家間均衡の設計による世界秩序は、崩壊している。
などなど。
]]>知の新書『「風の谷のナウシカ」と「モモ」から学ぶ』
の刊行(9月21日発売)をきして、公開セミナーをします。
9月14日 18時〜
セミナー:1200円
新書:1300円(1430円を割引)を発売前に提供。
https://jinnet.dokushojin.com/products/event20220914
当日、セミナー代だけでも受講可能です。
ナウシカは、戦争へ参画せざるをえなくなり、かつ最終的には巨神兵を使って墓所を壊滅させる。
カイヨワ「戦争論」をふまえつつ、
五流知識人、エマニュエル・トッド『第三次世界大戦はもう始まっている』を批判します。
二流どころではない、フランスでは相手にされず、日本が相手にしてくれると喜んでますが、それほど日本の一般知性が退化している現れです。ひどい、論述です。
日本が「安楽の全体主義」へ陥っていることの表れでもあります。マルク・オジェ「国家なき全体主義』も参考に。
日本は、「平和のための戦争」を日常化している。その典型が、コロナ禍における医療化であり、日々の学校化ですが、
「大学知性」の世界秩序が、この混沌の最大要因です。プーチンは、その典型バカですが、日本の二階も同質です。
国家間均衡の世界秩序は、崩壊している。
などなど。
]]>この本を書いてから、場所(地域)が活性化しているかどうか、神社をみればわかると確信しています。
場所住民の「タマ」がそこに現れるからです。
記紀は天孫系の神話ですが、そこに、特に古事記に描かれているのは「場所神話」です。注意深く読めば浮き出してくる。
そして、その後、いくつか書を描きながら、商品関係が物象化する次元とは別に、物事の出来事が幻想化する次元を「事幻化」の概念で考えるようになった。それはまた、幻想がプラチックすることです。
Appendixで、そこを加筆した。
神話における出来事の幻想化=事幻化は、出雲で敗退した天孫系が日向へ逃げ込んだ、その出来事を統治支配へ配置するために「天孫降臨」という事幻化をなして、高天原を天の位置に疎外表象するということです。
事幻化は、虚構だ嘘だとはならない幻想の作用であり、実際にあったかどうかを問われる必要がない次元へ、出来事を配置して、統治性の技術へと活用していくことです。
まだ、理論概念として練り上げている途上で、物象化と事幻化とによって、経済への国家的統治が社会技術として機能していくようになっているとなります。
幻想ー統治ー経済関係の国家的編制です。
吉本共同幻想論とフーコー統治性論の乖離を上位概念で統合していく閾になります。
イデオロギー論が把捉できていない次元で、言うまでもなくラカン理論を使っています。
物象化と事幻化によって、既存秩序の再生産が固定され、変革やイノベーションがなされなくなっていく。
古事記と日本書紀との神話構造の違いが明証になっていないと事幻化は把捉されない。
また事幻化されていないと専制独裁になる。
政治理論の事幻化、経済理論の物象化、そこを考えて欲しいと思っての書です。
832ページで、吉本さんの心的現象論・本論より厚くなってしまいました。
価格は、3500+税=3850円です。
にて、購入できます。
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欺いてくれているのは、ロシアのため、自分のためにしてくれているんだという理解の仕方になる。
欺かれているのをよしとしている状態がある。
嘘だらけのプロパガンダを信じる。
なぜ、こうした転倒が機能するのか?
ここに、独裁、ファシズムが機能する根拠があるが、その核となっているのは、
「組織秩序の功利性」
である。
息子たちである兵士が大量に戦死し、他国民を虐殺しているのに、
指導者たちは「正しい」と正当化され、
のみならず、自分のためにやってくれていると思い込ませる。
事実を伝える物事は、フェイクだと拒絶されるのは、指令秩序・従属秩序を乱すことになるためだ。
これは権力の強圧だけではなされない、合意体系を背後に有しているのだが、
権力の強圧によって周囲が同調服従する権力関係の日常が構造化されているためだ。
秩序維持には、「国家なるもの」=共同なるもの、が間に入り込まないと、正当性として構造化されない。
人を殺しても構わない、なぜなら秩序を脅かすクズだからだ、という優越性の考えが浸透する。そこには秩序を脅かす悪しきことをしたから殺されて当然だという判断が入り込んでいる。住民だろうと、子供や老人だろうと、病院だろうと、構わない、皆殺しを前提にする。
国内側は、侵攻の後押し秩序であるが、人を大量に殺すのは良くないことだという判断基準があっても、そんなこと自国がするはずがないという思い込みが、欺かれることによって保証される。
人道と国家行動とがずれているのに、一致しているという構造化がなされている。そこが、欺き、国民騙しの存立根拠になる。
欺かれることは、自分が正しいと保証されることになる。
それは、強圧者=強権者に従っていれば保証される。間に、汚職・腐敗・堕落の官僚的利権秩序が「利をもたらす」ものとして機能する。
ロシア国民が、プーチン支持するのは(=かつて、スターリン独裁が30年も続いたのは)、
イデオロギー注入がなされていたからだ、と批判される。
教化が徹底しているからだ、と批判される。
強圧的専制権力だからだ、と批判される。
批判者、政敵が粛清されたからだ、と批判される。
事実が知らされていない、と批判される。
これらは、「国家権力所有の独裁者」だからだ、という視座からの批判に付属する考えだ。
だが、ただの表層批判でしかない。
事実・真実を知ったところで溶けない、なくならない。
嘘か本当かの対立次元にはない構造化がなされているのだ。
どうして、それが可能になるのか?
大東亜戦争のとき、日本人は軍部政権のプロパガンダを信じた。
べトナム戦争を、多くの米国人は反共正義のための戦争だと思い込んだ。
ヒトラーを信じた、スターリンを信じた、国民がいた。
今、プーチンを信じている「ロシア」人がある。
同時に、それを疑っている国民もいる。
ロシアを愛するがゆえ、プーチンはロシアを破壊しているというロシア人たちもいる。
だが、ロシアで力をもたないのはなぜか?
根本は、国民を欺いているのに、騙しているのに、国民を殺しても弾圧しても平気な統治者なのに、なぜ欺かれているのに国民はそれを支え支持するのかが、本質的な問題である。
それは日本でも、西側でも起きうることだからだし、歴史上では実際に起きたことである。ロシアだけの問題ではない。
いや、日本の企業組織においてさえ、強引な社長経営において機能していることである。
強権者は、実行力がある。
批判を封じ込め、したいことをすべきこととして構成し、実行できる。
他人の意見に振り回されない。
他者ができない強行策を実行できる。
利益になる成果を出す。
とみなされている。
その利益は、従属していれば自分にももたらされる。
抵抗するより従属していた方が、自分に得である。
自分に責任はない。失敗したとて、自分には関係ない。
力の強い者が、物事を進めてくれる。
自分の欲望を代行してくれている。
現状、自分に害はない。
という、実にシンプルな構造からである。
いずれ、独裁崩壊後に、国や会社がどうなろうと、そのとき、また別の強権者が修復してくれる、それに従えばいい。
あがらえば、自分が傷つくだけだ。
全員が、自己利益保存のための秩序構成が成り立っている、これが全体主義だ、そして他者侵攻のファシズムとなる。
個人欲望の構造が国家の構造に合致する構成が機能している(拙書「国家と再認・誤認する私の日常」で解析)。
世界秩序として、
ロシアは解体されねばならない。中国も解体されねばならない。北朝鮮は解体されねばならない。
独裁国家は、解体されねばならない。
これを、解体を恐れて守ろうとするのは、同じ欲望が蠢いているにすぎない。
そう、つまり、民主主義国家も解体されねばならない。
領土を基盤にした国家構造の多元均衡の、世界秩序が解体されることにつながる。
この道筋を、独裁国家は作れない、民主主義国のみが作り出せる。
無政府主義ではない、さらに高度な政治資本が知的資本として要される。
経済生産関係は、国際的な分業・協業のシステムとして既に作り出されてきたが、国家基準で成しているため、ロシア侵攻とコロナ感染によって機能停止状態になっている。所詮、国家介入の国家統制をなしている新自由主義の統治技術の限界の露呈だ。
ロシア内部の瓦解状態が、ようやく必然として露出し始めているが、語る解説者たちの無知のままの「推察」の低次元さに、あまりの知性後退をやはり感ぜざるをえない。
いちいち細かい愚行や具言に反応している意味はない、否応なく「思想的裁断」をせざるを得なくなっている。
事態は明白なのに。
ウクライナは勝つ、国民総体の人民抵抗になっているからだ。
ある都市拠点が制圧されたところで、維持はできない、必ず奪還される。
長期戦は、全てに損害がくる、1日でも戦争を終えねばならない。日々の戦況=現象でロシアが攻勢に出ている解説など、無意味だ。
具体は、個別現象にはない、総体にある。
ロシアは敗北する、そしてロシアは「解体されねばならない」。
この負の歴史蓄積は、知的なもの高度なものが大人しく服従する構造にしかなっていない。
無知が強権体制を構成する仕組みに、帝政ロシア、ソ連社会主義、スターリニズム、プーチン独裁と、脱皮できていない。
世界の先端性として、国家解体されるべき、国である、多数の少数民族がいる。
レーニン的に言うと、内乱状態に一時なるが。一部のものが、自益独占を図ろうとするため、同じ役に立つべきなのに意味もなく殺し合う内戦の愚行が起きうる。
だから、抑え込む独裁的強権政治が正当であるかのように振る舞う。国家のダメさを最も露呈させている国家である。
プーチンが言うように、ロシアは滅びるのだ。それを守ることが誤りである。
共同幻想の基盤が、ぶれている国なのだ。いかに、抑圧から高度な芸術が生み出されていようとも・・・・。
しかしながら、それは民族問題、少数民族問題を最初に克服していく圏域となれる、それが政治ビジョンだ。こんな広大な国土=領土が悪しきものを生み出している。
よく、プーチンの頭の中はわからないなど、主観は了解できないと云うバカが、知ったかぶりで言うが、埴谷雄高のスターリン論を見れば、そこに描かれている、スターリン=プーチン=独裁者の心情=主観は、構造的に同じだ。独裁者になる卓越した能力しかなかった、愚者の知恵をもてなかった狭隘な馬鹿だ。
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すると自己幻想が共同幻想を利用して、ロシア人までも弾圧する、それをロシア国民が支持していくところまで腐蝕して行く。
ロシア革命が不徹底だっただけでなく、スターリニズム、プーチン独裁を産んでしまうロシアの病理がどう見てもある。ドストエフスキーが描き出した闇。トロツキーを追い出し、ブハーリンを裁判にかけたスターリン、そしてあの異様なスターリン建築様式の残存。
独裁に同調するロシアは敗北せねばならない。真の穏やかな文化ロシアが出現するよう・・・・
韓国の漫画のようですが、見事なので、転載。プーチンヒトラー也。
「結局・・・・(ウクライナ侵攻)」という意味のようですが、「わしゃ、ヒトラーに負けんぞ・・・」という。「負けん」の両義的関係性の感じにした方が諧謔的になる・・・・
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押し並べて、現在の独裁者たちの、私的財産だけを確保しようとしている、すさまじいただのバカが「国家」を利用している現象である。金日成に比しての金正恩のバカさ、毛沢東に比しての習近平のバカさ、はあまりに隔絶的なばかさだが、どうしてこんな低次元が作用するのか。
さらに、西側の統治技術の粗雑さ、粗野、限界の露出である。特にNATOの官僚的軍事同盟のだらしなさは、バカ・プーチンの裏返し的水準でしかない。そこに、つけ込んできた、しかもつけこめる次元まで、世界秩序の統治知性が落下していることだ。
国家自体が根本問題であるのだが、国家は巨悪の怪物ではない、国家の叡智性の形式を有しており、統治技術によって如何様にも使いうるのであるが、非国家化の理念・ビジョンを持ってしないと反動的にその巨悪ぶりを発揮してしまう、それが「侵略」であり「抑圧」であり「戦争」である。
出現してしまう根拠は、資本主義対社会主義、専制独裁統治対民主主義統治、という横軸対立と縦軸対立において、相互変容がおき、真正原理が規則原理へと転移され、「社会」空間の市場=統治が擬制中立を編制して、国家と市民社会との対峙関係を中和させてしまっているからだ。そこで、市場経済はただ産業的生産様式として経済と制度との同一した作用をなすだけになってしまっている。すると、国民・市民は、国家資本を再認する認知形式へと領有されて、生存基盤を社会エージェントとして営む軸に配備される。言語は国家語化され、認識は主体個人化され、感覚は統治感覚へと画一化される。客観化への総合が科学化され、その測定可能な物事の技術化が物質科学としてなされるだけになり(その極限が兵器の高度技術化)、物質利益の最大化を目的にする経済主導となっていく。大学人は、シニフィエのみが真理であり対象であるという低知性へ社交仲間集団を確保して排他的正当化を保持し、教育課程は学校化=制度化された学力へと自律不能な子供を労働力へ形成するだけになり、学校教師は全くマネジメント能力、マネーへの知識すらない閉じた他律作用をなすことしかしなくなる。要するに、不能化された産業人間の、最大物質利益に従属する賃労働生存しかしていない状態になってしまう。家庭は、消費活動へと生産活動から分離されて、家事のシャドウワーク(無支払い労働)に支えられ、商品生活を基盤にした文化基盤でしかない存在に閉塞する。
自由は、ただ商品への選択的アクセスとされるだけになる。
こんな事態は、1990年代までに、現実自体に対して理論的に明らかにされていたことであるが、統治者たちにも大学人たちにも領有されていない。近代知のまま滞留している。批判理論の徹底による、その限界への超克がなされていないのだ。
そうした状況に対して二つの誤った統治技術が残滓し続けてきた。
社会主義と新自由主義である。
社会主義は、真正原理を「公正」として配備していたが、党独裁の支配抑圧統治技術においてしか作動できなかった。
新自由主義は、反共主義=アメリカニズムの政治をイデオロギーを弱体化させ市場統治へと転じた規範統治に堕したものでしかない。
米ソ対立が、米中対立へシフトした中で、ロシアは疎外されながら、BRICs体制を形成してきたが、いまだ未熟なのも国家秩序構成が不徹底にしかならない現実変容へ対応できていないためだ。
その、双方の相互変容の合間に、コミュニタリアンや市民主義や「正義」浮遊を自由と錯認して排出しただけであり、9.11を境に、金融瓦解を世界秩序へ散布したままになっている。
グローバリズムが情報速度において世界交通の混融状態を無政府的に散種している(これがしかし、ウクライナ支援として作用しているのだが)。
要するに、情報技術交通が地盤になってきたシフトにおいて、国家統治支配は意味をなさない次元へきている。
なのに、国家統治規則化しようとするか中国やロシアみたいに徹底独裁抑圧するしかない。(中国の感染ゼロ統治などは、住民のためとしながらただ専制抑圧しかできない社会統治になってしまう。ロシアでは政権批判は犯罪だとされる。)
つまり、国家と統治技術の関係配備における統治知性が、まったくに低知性であること。
それは、関係作用におけるシニフィアン・シフトが起きていることへの認識の不在にある。
つまり、資本と場所の作用とが、商品と社会の作用に均質構成されて、そのシニフィエ(意味されたもの)しか動かなくなっていることの限界露呈が、大学知性で世界的に不能化現象を生み出している。
すると、防衛費を増大するという更なる愚行でしか対処できなくな理、地獄への道へ、民衆惨殺の結果を生み出すものへいくほかなくなる。
なすべきは、統治知性の高度化であるのに・・・・・・
近代知ー民族国家ー賃労働・商品集中市場ー産業サービス社会制度(医療化や学校化)の超克であるのに・・・・・
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日本が、中国やインドと手をとりあって、「停戦」仲介に入れという主張だ。
ウクライナが中立的になるという提起には賛同するが、非軍事化をするべきというボケには賛同しない。永世中立国のスイスは強力な軍隊を有し、徴兵制度を徹底し(私の友人は徴兵の馬鹿馬鹿しさに抵抗し社会福祉業務を代わりにしていた)、ローマ法王護衛の象徴権力を構成している。
これほどの災禍を受けた国が、理性的にに2度と戦争しないことを強く打ち出していくのは確かだが、「そうすべきだ」などとは言えない、ウクライナが決めることだ。
この学者たちが、完全にボケている点がいくつかある。
第一に、ロシアを一括して設定し、プーチン独裁と国家ロシア、そして民衆的存在(一枚岩ではない)の識別と関係が全く了解されていない、つまり国家論の不在ないし浅薄さである。国家意志の発動を可能にするプーチン独裁権力関係構成はロシア国家構造といかにズレるのか明白なものが一切ない。まして、ロシア民族の多様さやその文化的編制、宗教的編制、など、一言で言うと、ソ連研究総体とロシア研究総体とのそれぞれの不在であり、さらにその差異の実際の統治性との違いに、戦争をしでかし続ける体質とそうではないものの「ロシア的可能性」が何にも伺えない。私は、彼らのソ連研究、つまりは社会主義を賛美してきたこと自体への批判総括もない研究を全く信用していない。要するに、理論的にだらしないのだ。そこからの実証研究など、実証研究にもなっていない。国家の理性図式と統治技術との差異と構成・編制が、なんら分析されていない。ロシア内のいくつもの少数エスニックの存在など見えてもこない。ブルガーコフの白衛軍などを疎外排除してきた仕方になっている。よくてスターリン裁判批判ぐらいに止まっている。レーニンの誤りさえ総括できていないし、レーニンの戦術的魅惑さえわかっていまい。社会主義的体制の残滓が今の独裁を派生させていることへの関係さえ把捉されていまい。教育面で言うと、なんで教師たちの多くは反革命へ回ったのかの根拠さえ考証できていまい。中途半端なソ連研究しかしていないのだ。理論的だらしなさ。
第二に、「外交」と「軍事」の関係での戦争抑制の発想しかない。「ヨーロッパの多元均衡」の外交で、物事が解決されるという20世紀で主要国家間では機能しながら局地戦において何ら解決できなかったその「外交」の不能化の根拠への反省的省察の不在だ。それは、社会主義に統治性技術がないことと、統治アートの総体は外交などへ焦点化はされないという、基本考察がないから、「仲介」でことがなされるべきだと主唱する。それが破綻したゆえ戦争が起きていることへの認知もない「転倒」からきている無意識の「だらしなさ」である。ロシア側に立ちながら、ヨーロッパの均衡を自分の依拠にして、ロシアを理解せよ、と他人にいう前に自分でしっかりヨーロッパの均衡を踏みにじったロシアを理解しろである。その原理は、現象的に拡大主義であろう、それが世界秩序に作用することは「悪」であろう。この侵略・虐殺に「善」など微塵もない、そしてそれは軍国主義日本がアメリカ帝国主義がなしてきた歴史でもある。ナチス的、スターリン的なものは未だ作用しているのだ。NATOのバカな官僚的拡大主義も同質である。世界戦争が起きる国家間均衡の軍事装置化でしかない。安全保障構造が根源から変わった、それはヨーロッパの均衡の軍事・外交の原則では対応できないことへの省察がない。歴史構成と現在性への歴史考察のだらしなさ。
第三に、日本が仲介たりうるには、日本が社会主義や資本主義の対立次元を超え、さらに民族国家的な統治性の限界をこえ、核兵器廃絶のリーダーとなり「絶対平和」の国家ビジョンを近代民族国家を超えていく国家理性として構成していく国家資本組み立てを編制替えしない限り、全くに無力である。ただ、「願望」の願い事をしているだけのだらしなさだ。これも国家批判の国家理論がないから、国家意志と国家構造との統治技術の移行的現実性と国家理念との関係構成がないために起きている、だらしなさである。平和憲法を絶対平和の戦略指導へと高める統治技術は、非国家化を理念想定しない限りなされない。理念へのだらしなさ。
第四に、戦争および軍事に対するボケがはっきりある。「戦争を止めるには、紛争当事者同士が休戦し、会談による合意をもって戦場から去らせるほかな」という転倒だ。物理的決着が何らかの形で作られない限り休戦はなされない。2014年からそうなっているから、休戦もなされずこの侵略が起きたんだろうが、戦争は単なる因果関係ではない、構造的に起こされる。「米国とロシアが話し合いをして、ロシアが憂慮するNATOの東方拡大について話し合い、ウクライナはNATOに参加させない、そのかわりロシアはウクライナの領土を保全するという約束を結び、ロシアの侵攻を阻止する措置をとるべきだった」と相変わらずの大国主義であり、それにウクライナはしたがえと言っているに過ぎない。親ロ派でないからとガスを止めウクライナ住民を苦しめたロシアがある、ことなど、生活水準でロシア政権が横暴な処置をしてきたのをウクライナ人は嫌というほど知っている。その政権は良きロシア人とどう違うんだを何もときあかしていない。
「ロシアの主張も聞いて調整を図ること」は、プーチン独裁が解体されない限りありえない。独裁が侵略戦争を巻き起こしているのであり、ロシア国家がそれにひきづられているに過ぎない。「独裁国家」がなんであるかの認識がないだらしなさである。
「お互いに平和的な関係を築いて共生していく以外に平和は訪れない」ことを侵食しているプーチン独裁およびそれを支える国家的構成がプレ・ディスポジションされているんだ、ばか、としか言えなくなる。すると、「この戦争に対して戦争で応戦して叩き潰すというのでは、犠牲者が増えるばかりであり」と、ウクライナが抗戦するのが良くないと、知性屑にスッと横滑りする。軍事論へのだらしなさ。さらに構造はpre-dispositonされていることへの無知。
第五に、何か起こると、この大学知識人という不能の輩たちは、すぐ仲間徒党をくみ、「抗議」したり声明を出したり署名活動したり、「善意」の自己正当化を図る存在保護を自分へ向けてなす。そして、自分たちが一番優れていて、教えてやるんだという態度をとる。そのくせ、自分たちの言うことは理解受諾されない、それはわかっていたことだと、知ったかぶりながら大使館や外務省に「お説教」にいって、自分たちは「憂慮し行動した」と自己保証するのだ。知識人としての政治的態度のだらしなさである。「名誉教授」など、ただ大学依存してのご奉仕の形骸的なレッテルに依拠して権威ぶっている知的堕落の集団である。「ウクライナ」の理性を侮っている。この学者たちの不能知性次元より、命をかけて自由の戦いをしている当事者たちの方が圧倒的に理性がある。そんなお説教を垂れているより、自分たちのかつてのソ連研究やロシア研究、国家論や権力論、さらには軍事論を見直せ、である。大学人の研究の質自体が、こういう世界情勢を生み出しているのだ。反省していないのは、政治統治者たちだけではない、こういう学者ら自身である。そして、この人たちを出演させずに防衛省研究所の馬鹿面の軍事もわかってない輩がマスメディアで語る、この日本の知的愚行へ戦えである。インタビューを受けたが、私の見解は遮断された、などと被害感覚でいるボケだ。学問研究へのだらしなさ。(政治構造political structuresと政治的態度politically attitudeの違いへのだらしなさ)
第六に、要するに自分たちの学問を反省することであり、戦争を起こさない新たな学問生産を自分へ向けて開くことであって、ボケて他者へ「仲介」しなさいよとお説教などたれる、自己慰安の「憂慮の慰み」行動で誤魔化すんじゃねえぞ、ということだ。プーチンなど、大学知性の典型的産物である、大学そのものが根源的に生み出している世界秩序構成が、国連を含み、西側においても破綻してるのだ。「ロシアだけを悪者にするのは知性の低下だ」と言わんばかりの見解だが、それ以上に、この人たちの知性自体が低下している。ウクライナの戦っている市長や知事たちや情報を世界へ伝えている人たちが「語る」言動とロシアの報道官や外務大臣らが「語る」言動の差を見てみろ、それさえ見抜けない鈍磨になって、国家一般化している知性だ。署名などして不能仲間を集めて、自己撞着しているだけだ。権威集団だから、大使館側は会う、そこに甘えているだけだ。政治的態度political attitudeのだらしなさ。
ロシア軍の威嚇は、フィンランド、日本海にさえ向けられている、ウクライナだけの問題ではない。
色々な行動はなされて然るべきだが、学者としてのしっかりした見解・考察が論じられるべきであって、それは学問考察しかしえないことなのにだらしなさすぎる。わかりやすく述べるなどの姿勢で解明されることではない崩壊的状態が山のように露呈されている。自律的政治態度のだらしなさは、学問自体への研究のだらしなさを導く。
学生時代のベトナム戦争の時から、「何もできない」不可能さimpossibleに、だから不能disablingであってはならぬと、現在世界の存立の根拠を批判考察し、学問体系地盤を転移し、可能条件を探ってきた、それしか学者はできないことの自戒をもって、私はただ知性堕落と闘うのみである。大学アカデミズムの社交集団にいたなら自分がだらしなくなるだけだ。
学問研究の困難さは、さまざまなだらしなさを自らへ招くゆえ、限界にあろうとも自戒と探究は自らへシビアにし続けるしかない。他者性を対象にしながらも、自分の自分への自己技術を磨くしかないのだ。上記の批判は自分へ向いていることであるのだ。
せめてブルガーコフぐらい少しでも読んでほしいと在庫がなくなったので、緊急出版した。自前でしているが、ブルガーコフ特集を2009年にしたのは、ウクライナ人から知ってのことであり、私なりにソ連・ロシアへの批判を込めてのことだ。ウクライナの友人・知人はたくさんいるが、数人のロシア人を薄く知っているのみなのも、ロシア人自身が自分へ解放されていないのを感知できるからだ。はっきりいうが、ロシアは武器が強力なだけで、インテリジェンスはウクライナの方がはるかに高度である。ウクライナ人の方がはるかに理性的であり温かい、ロシア人に権威主義態度を感じるが理性は低く冷たい。この感覚はアジア的な感覚からで西欧的感覚からではない。スイスではロシア人は本当に嫌われているがとんでもない乱暴な事件を起こすのが実際だからだ。偏見ではない。プーチンを生み出してしまうロシア人が自分を負のロシアから解放された時、ロシアはロシアになれると確信する。レーニン廟へ行ったことがあるだろう、この知識人たちは。あの強圧的な観光客への態度に非人間的なものははっきり出ている。なんで、兵士がレーニン廟を護衛してるんだ、そういうロシアはおかしいだろうが。天井から物事考えているだけの、だらしない学者たちの「憂慮」である。ロシアはよくなろうとしてきて、一挙に元へと戻されてしまった、ロシア人たちこそ解放されることである。
戦争は、人間悪の極限の総体である。絶対平和の理念は、外交軍事などで処策できない。私は戦争に対して中立の立場などを政治態度としてとれない。侵略された側の立場に立つ、ベトナムの立場にたちUSA帝国主義を批判する、ウクライナの立場に立ちロシアプーチン独裁を批判する、そしてUSA内でベトナム戦争反対の行動をとった米国人の立場に立ち、プーチン独裁を反対するロシア人の立場に立つ。戦争反対の絶対平和の立場に立ってである。そして、不可抗力の矛盾率において、倫理的に闘わざるをえないことを拒否しない。ウクライナをここまで愛し、命をかけてまもるウクライナ人を、悲哀において羨ましいと感じる。解決への通道は、プーチン独裁打倒(暗殺を含む)、それしかない。国家権力集中がそこになされて個人国家意志化されているからだ。後のロシアのことは、別問題である。ロシアが悪者ではない、バカ・プーチンが悪者=戦争犯罪者であり、それをエージェントする知性屑が悪者である。この善悪は画然とある。
ウクライナ支援の本。スターリンによって抑圧され発禁されたウクライナ出身のブルガーコフの時評、戯曲、短編、草稿。
4月25日発売。1980円。
この書の売り上げはウクライナへ寄付されます。
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日本でも、ウクライナ人が手をあげ降伏すれば虐殺はなされないですむ、民衆を救える、ウクライナ側にも非がある、という見解をいかにも知ったかぶりで、評論家的に述べる知性屑がいる(どこかの元知事も言っているらしいが)。プーチン論理そのものであることの自覚がない。ロシアの明らかな民衆虐殺の軍事行動の仕方は、ナチスとやスターリンと同じ、そこに人道的な正しさなどない。日本が大東亜戦争で東亜に侵略した、USAがベトナムに侵略したのも同質だ。
軍事の愚行は、虐殺・皆殺しを究極目標にする、「生物化学兵器の使用を禁止する」と言おうが、そういう使ってはならぬ兵器をなんで作っているのか、「虐殺」が目的であって抑止など機能しない。
しかも、降参などしたなら、収容所送り、拷問や殺害や強制労働など、USAもやったことであり、軍事侵略は必ずなすことであり、そこに「解放」などはないのに、強引に侵略し民衆虐殺するような攻撃に対して降伏すれば救われるなどを、平和や解決への回答だなどと述べる知的バカは、知性屑とはっきり言う。侵略虐殺する国家権力側に、温情などはない。
知性がないのではない、国家収奪された認識の仕方で、その国家は強権国家、独裁国家の「国家理性」であり、叡智性の形式である国家の最悪の使い方になっている「知性犯罪」であって、その共同性への疎外は個人幻想をそれを支えるものとして疎外し、自由個人の意見であるかのように転倒させていることへ、自覚が全くないゆえ「知性屑」という。
独裁は知性犯罪の究極である、そしてそれは巧妙に自国内民衆を共謀させて「ファシズム」となる。ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は同一民族だ、同一の信仰からなる、だから虐殺して一つにする、というロジック=知性を作動させる。しかも独裁者は必ず私的財産を巨額に確保し、民衆を貧困なままに置き、国家を全体主義化する。
NATOは、プーチン独裁の時点で介入していけば、その抑止軍事をもって、ロシア国民を独裁の罠から外すことができたのに、もうロシア国民の80%以上がプーチン支持をする「ファシズム」的状況になってしまった。サハリンに住むロシア人が、ユーロニュースを見れるのにそれは嘘だからもう見ない、国営放送だけが真実だと、完全にわからなくなっている、プルシェンコもプーチン武力侵攻支持の始末。かつての軍国主義日本の負けているのに勝ち続けているという報道を信じ切っていたのと同じである。大空襲の悲劇を自分へもたらす。
ウクライナ民衆への惨劇は、ロシア国内民衆への惨劇にもうなってしまう次元へきてしまった。
対ロシア戦争が、不可避に起きていく次元へと至っていく。
プーチン独裁が、「他の選択がなかった」と自らの戦略の無能さを正当化していくのを支え、バカ・プーチンをカリスマ化していく、ロシア・ファシズムへの形成である。
勝手に武力侵略してきたロシアに、ウクライナ人は最後まで戦う、それは必ず勝利するが、ともなう不可避の犠牲は、ロシアのせいであるのに、「いや違うウクライナ抵抗のせいだ」とするのが知性屑である。
目の前にこういうクズが現れたとき、私は心底、憎悪し憎みさえ感じ、声を荒げた。思想が決定的に対立したとき、身体決着以外に方途はないのも、愚行次元でしか対決しないからだ。つまり、こちらが相手の愚行次元へ落ちていかざるをえない。人は、賢く、ここで口をつむぐ。私には、目の前で私に直接向かって心の中まで土足で入り込んでくる愚行に、黙って通り過ぎるその賢さはない。
学生運動のときでさえ、暴力行為はやめさせてきた自分であるが、初めて、命懸けで戦っているウクライナに、「手をあげたほうが身のためだ」などと平気で言う輩に、我慢ならなかった。周囲が止めてくれなければ、私は身が滅ぼうが身体的対決に至ったかと思う、生まれて初めてのそういう情感が働いたことに自分に驚いているのも、何もなせない自分への苛立ちがつもっていたからだろうが、しかしただの感情の爆発ではない、理性的怒りである。私は、ウクライナ人へ戦えともやめろとも、こうした方がいいなども一言も言えるものではない。ただバカプーチンをバカの極みとなじるだけだが、ウクライナはベトナムの時のように絶対に降伏しないことだけは確信している。真の自由の戦いを友人たちはしている。また女性知人たちは難民として悲しみ苦しんでいる。
戦争という愚行は、絶対にしてはならないのに、やむなく戦争をおっぱじめた侵略者には戦わねばならない、矛盾の格率、つまり、私自身の次元にとっては、私に直接侵入してきた知性屑とは闘わねばならないものとしてつき返される。屑など相手にしたくもないが、国家構造が国家資本統合をもって再認・認知の欲望構造化をいかになしているかを説いたセミナーのその場で、平然と私に向かって私の心の中に土足で張り込んできた屑に、黙って無視することはできなかった。プーチン代行者が、目の前にいて、私に対し、その屑は自分が正しいと執拗に私へ向かって言い張ってきたからだ。
必ず、こういう輩はあちこちにいるのだが、言ってもわからぬ、その場で、事実を見せれば目覚めるなどということがありえないこと、それはどうなっているのかを解き明かした私の語りのその場で、自己省察もなく、めざとく力の強いものへ加担従属すれば救われる考えを述べる知性屑である。これは、もうファシズム兆候の出現を示している。再認構造は固定しているからだ。
自己の手持ちの認識コードを転じることのできない知性は、知性屑になる可能性に置かれた存在である。その果ては、知性犯罪を犯す。知性が優れているなどのユートピア状態などない、自己技術を喪失した知性は上っ面で、対象にも届いていない、他者の理解もできない、自己中心の撞着した考えで、評論家的に物事を語る。また、バカ・プーチンのように国家権力や組織権力を自国民に他国民虐殺に、横暴に使う犯罪にまで至る。戦争知性の最も優れたものは、人を平気でジェノサイドする戦争犯罪者になる。
日本の知的生産の環境は、産業的商業主義によって凄まじい知的劣化を招いている。
ウクライナの出来事は、それを露呈させている。
ロシアの報道的言動は、この知性屑の塊になっている。かつての軍国主義日本がそうだった。現在ロシアに繰り返されているように、日本でも繰り返されつつある臨界点へきている。
レーニン廟の後ろに、ロシアの指導者たちの胸像が立ち並んでいるのだが、スターリンのだけがコンクリート作りで(多分、一度破壊されたのだろう)、ひとまわり以上大きくて花束が一番たくさん多く捧げられていた、それを見てゾッとしたものだが、ソ連解体でも根元からの解体はなされず、バカ・プーチンがしゃあしゃと、ロシア、ウクライナ、ベラルーシは一つの民族だ、その「解放のためだ」と言って虐殺をしている、現在を再生している。
ゼレンスキーは現場に行っているが、プーチンは絶対に現場へは行かない、安全な場所でロシア兵を死なせ、ウクライナ住民の子供や老人を虐殺させている、そこに正義正当化が成り立つことの微塵もない。
究極の愚行に対して、従属すれば降伏すれば命は助かるなどは、絶対にない! 逃げることもできなくなる。ユダヤ人への収容所、スターリンによる収容所でなされたことだ。戦争の愚行に、経済制裁など、機能しない。
戦争は、仕掛けた側にも抵抗する側にも、誰一人得するものなどなにもない。
ロシア軍内から、虐殺と嘘をし続けるロシア指導者たちの知性犯罪に対する聡明な知性による分裂反対が起きることは願う。部分的には起きつつある。
代弁する知性屑たちに歯向かうロシア民衆の立ち上がりは願う。そこにしか戦争終結はないからだ。
そうでないと、対ロシア戦争が不可避に起きる。対独戦争記念日に、戦果を表明するなどの次元にもうない。虐殺はげしいマリウポリさえまだ制圧できないロシアが勝つなどはないからだ。
こちらは、理念的にも「ウクライナが絶対に勝つ」と設定するしかないのだ。この理念に隙があってはならない。
なぜ知性屑が発生するのか、資本主義対共産主義、権威主義対民主主義、独裁対自由主義などのイデオロギー的権力対立などが混成して、戦略的指針と戦術的指針との不整合が現場で発生し、理念不在のただ規則遂行の代行しかできなくなるため、最強のものに従属することの知性しか働かなくなるためだ。人を殺戮していようが民衆が苦しもうが、理解不能になり、判断停止になる。ただ擬似中性的な「社会」イズムだけで、物事が進められ、思考もそれしかできなくなる。婦人や子供がいて一瞬躊躇しても、「撃ち殺せ!」のヒステリックな命令遂行しかしなくなる。もう対象の識別すらできなくなる現場に対して、ただ机の上で、「我々は正しい」「不都合なことはフェイクだ」というおうむがえしになる。
強者が機能しているのが現実だから、それに「従属していればいい」安全だという国家配備になる。
経済制裁もその裏返しです。世界の諸関係交通が混融している実際に、社会規範遂行しかしえなくなって、自分たちも愚行へと巻き込まれていく。建前は、「世界戦争を避けるため」と言いながら、自国の物理的損害を被らなければいいとしているだけに落下します。
ウクライナ戦争は、国家間戦争ではない、もう世界戦争である。であるから、世界の人々は、戦争をやめてくれと何らかの行動を起こしている。ただの善意次元を超えているのです。
ウクライナ支援の本を刊行。
4月25日発売。1980円。
この書の売り上げはウクライナへ寄付されます。
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資本主義・帝国主義の行き詰まりは、ベトナム戦争が転回点である。
●社会主義対資本主義の冷戦の、局地的熱戦化であった。
ベトナムに勝利することができない大国であることが、はっきり露出したが、小国への武力侵攻であり、これは「放っておくと共産主義が世界へ拡大していく」というドミノ論理思考をもって「自由主義を守れ」の大義名分にしての帝国主義侵略であり、爆弾はどんどん虐殺的なものへとエスカレートしていった。
攻めた側の米軍兵の死者は、6万人、国内での反戦運動、世界的なベトナム戦争反対運動が大学闘争と重なって起きた。が、この反対運動は、反体制・反権力としての反振る舞いと配置されたのも、社会主義革命へと同一致されたからだ。
しかし、大きな根元的な問題(社会主義と資本主義との相互変容)はここから顕著に始まるのだが、20年にわたる戦争に1975年勝利したベトナムは、周辺国へ侵略、社会主義の「悪」の姿が露呈し始めていく。一方帝国主義側の無知の露出。
ソ連のチェコ侵攻と同じくして、社会主義が正義である理念は、崩壊の兆しをかつてのスターリン圧制を背後に、その本性を見せ始めた。社会主義(共産主義)は帝国主義(自由主義)と同じことをなす。
だが、この時点においてまだ社会主義<国>が悪で、社会主義は正しいという思潮が主軸をしめていた。(1980年ごろ)
●社会主義と民主主義とファシズムは円環する、という実際は、国家体制を本質にして存立している。
それがさらにはっきりと出現したのが、ソ連のアフガニスタン侵攻である。ベトナム戦争終結後の、わずか4年後、1979年。
共産主義政権を援助する大義名分「共産主義を守れ」での侵攻が、10年続き、攻める側ソ連兵死者1万4000人。
ここにきて、
「自由主義・民主主義を守れ」による資本主義・帝国主義の武力侵攻
「共産主義・社会民主主義を守れ」による社会主義・帝国主義の武力侵攻
が、相互変容的にはっきりと出現した。小国への戦争虐殺の侵略の正当化である。
小国での民衆への虐殺は、はかり知れない。
第二次世界大戦の愚行の反省は、世界体制としてなんら実行されていない。
●これをもって、帝国主義論は、帝国論へと批判概念を変える。「世界を救え」の帝国主義侵略の、「帝国を守れ」「強い帝国になれ」へのベクトル転移。
●そして、中ソ対立に見られた社会主義・共産主義の真正原理へのせめぎあいの終焉。
そして、1991年、ソ連の崩壊、ロシア連邦が作られ、周辺国は独立する。
そして、東欧社会主義・共産主義の=「独裁」の崩壊。
「社会主義そのもの」の崩壊が本質。
●ここに、社会主義・共産主義は、<独裁>を不可避に出現させるというスターリニズムの地盤がはっきり露出した。
これは国家権力所有者の問題ではなく、組織構造における再認の個々人の問題である。
中国は、共産党支配を瓦解させないための動きへと身を固める。
それは、1989年の天安門事件を分岐点にして、ソ連崩壊をもってさらに強化され、終焉民族への抑圧強化となっていく。戦車と素手の学生たちとの対峙。
内部崩壊が構造化されているゆえ、専制強権支配が強度を増す(?小平から習近平への回路。民の側に立つ共産主義者の敗北)。
この過程において、
・「独裁」をいかに構成し保持するか
・「独裁」をいかなるものが倒すか、という分岐が起き、
・かつ軍事独裁が社会主義や自由主義を倒す
亀裂が出現。
独裁か非独裁かの、<独裁>が軸になっての国家支配体制の世界秩序が、構成されていく。
もはや理念の国家的対立ではない。
1973年、チリの初めての民衆の自由選挙が選択したアジェンデ社会主義政権がピノチェット軍クーデターによって倒され軍事独裁がはじまる。
ニカラグアソモサ独裁を、サンディニスタ(共産主義)解放軍が倒す。1979年。しかし1990年、総選挙で敗退。
アフリカやアラブやアジアでの様々な混乱。テロの噴出。
東欧のように、自由主義がチャウシェスク共産主義独裁などを倒す(1989年の東欧革命)。
フィリピンやベネスエラなどの独裁をめぐる攻防、その顛末が、ミャンマー軍事クーデター。
こうした節目の中で、1991年ソ連崩壊から、ロシア内でのテロ、そして2001年同時多発テロ(帝国自体への攻撃)になる、世界秩序がカオスになる。
チリのピノチェット独裁は、反共主義=新自由主義=アメリカニズムを象徴する独裁である。2000年ごろに、ピノチェットの完全な失墜、国際裁判にかけられる。
つまり、2000年を境位に、秩序原理は大転換し始める。
消費的平和ぼけと日々のテロや侵略の脅威との分裂。
プーチンは、この世界過程から出現して、2000年に大統領。
そこに社会主義理念はない、ただソ連亡霊の帝国独裁の正当化出現である。
●社会主義が理念的な政治原理として機能しなくなり、ただの専制独裁国家となっていく。
北朝鮮がその典型だが(金日成と金正恩、その間を結ぶ金日正による個人崇拝と先軍思想の軍事主義)、そして独裁国家秩序が多様に出現する。
プーチンの武力侵攻、軍事帝国独裁へ。
1999年、首相時代の、チェチェン第二次紛争への、虐殺的武力侵攻。
2014年、クリミアへの介入、
2015年、シリア内戦へのロシア軍事介入。化学兵器使用へ。
2021年、ウクライナ武力侵攻。
あまりに、単発のようであるが、旧ソ連帝国復元の、内外妄想の軍事武力解決の仕方の構造化がなされてきた、20年間である。
ここに、西側は、無力さ、だらしなさを露出させていく。つまり帝国主義を喪失した帝国の失墜による、冷戦構造のまんまのただのダラ官僚統治へ。
プーチンは国内独裁を強化し、反対勢力が動けない体制を構造化。
愛国ロシアのためなら、国内外に何をしても構わぬという専制権力体制を構造化した。
それを、西側は軽んじ、放置するしかない無能さを実際化してきた。
中国での香港やウイグルへの専制支配。
ここで、2000年を節目にしたこの20年の過程の結末として、国家対テロのカオスから、侵略戦争を「いつ起こるかわからない」と不決定において許す、危うい新たな世界秩序再編がなされようとしている。
それは、
●<独裁>専制国家主義と自由<消費>経済主義との対立である。
その裏には、
*社会主義の真正理念の完全崩壊。少数民族への抑圧。
*国連の、「ヨーロッパの均衡」国際主義の瓦解。
*NATOの官僚主義的無能さの拡大主義。
が実際化した出現。
つまり、ウクライナ戦争は、ナショナリズム的な抗争・対立ではないし、国家間戦争でもない。
世界秩序戦争である。
国連総会でのウクライナ侵略「非難決議」(非難などしてなんの意味があるかだが)、そこにはっきりと出現した、反対をなす「独裁」国家、棄権をなした、旧来からの帝国主義を引きずっている西側を信用しない諸国、そして人道的った伊庭からの賛成多数諸国。
それまでの紛争や虐殺に、国連軍派遣を成すにとどまってきた、放棄状態の完全な露出。
民衆の良心=コンシアンスは、
戦争絶対反対(国家を超えるもの)と自国権益のための戦争容認(国家に閉じるもの)との対立
となっている。アラブの紛争、難民が、ヨーロッパへ拡大、アジアへ拡大した。その根元では、アフリカのカオス。
(スイスでは難民受け入れをなすも、住民たちは脅威を感じている。)
ここに、「帝国」=国家は「侵略と少数民族抑圧」以外に何もできない。西側に向かう難民、難民を排除する西欧諸国の国民。
これらの背後にあるのは、
世界金融構造の解体的な行き詰まり。
「社会」市場空間の規範化統制。
産業的生産様式の不能化排出。
生態系の退化・崩壊、気候危機。
つまり、国家統治、産業社会経済の行き詰まりであり、
主語制国家資本統治の近代原理の行き詰まりである。
この不能化状態が、独裁を不可避に産出する。
TVに馬鹿面して、プーチンを怒らすとかなだめるにはとか、勝利宣言のお土産は東部制圧だとか、呆れ果てる「ご機嫌伺い」軍事=政治を平然と語る、そこに、もう忍びこんでいる、虐殺を何らかの形で不可避だと容認していく新たな暴力装置の支えである。
軍事と政治の関係すら認識がなく、軍事が民衆から成立するというベトナム戦争で明らかになったことの存在さえ把捉していない武器軍事論しかない。そして、戦争とは虐殺、暴行するものなんだという放棄思考。事実・真実にさえ「〜と思う」としか言えない無能。
他方、ウクライナ戦争をかくも多大に報道するのは白人主義のなせる技だ、チェチェン、シリアで何があったかを報道も考えもしなかった、という相対化をなすのが、大卒知性の主知主義。プロパガンダはウクライナもしている、という相対主義。
チェチェンやシリアでの非人道的虐殺は、それこそ、アフリカやアラブで日々起きていたことであるが、戦争・紛争の前提でしか世界の物事の政治が成り立っていないこと自体への転移がなせない人類本質問題であり、歴史暫時性の出来事への善意や認識のあれもこれもの相対主義の問題ではない。
ウクライナ戦争は、世界秩序原理となっている「ヨーロッパの均衡」の近代原理/国家原理の主唱当事者たちである「西側」のだらしなさが、社会主義残像のまま独裁国家となっている専制国家原理の侵略を容認し、侵略さえ許す引き金になっていることの、露出である。
「解放のための虐殺」をずっと見逃してきた西側である。
フェイクにだまされる国民が、事実を知ったところでプーチン体制は瓦解しない、逆である、プーチン独裁を容認・再認している土台があるゆえフェイクを安全と受け入れるのだ。こんなこと、かつての日本軍事主義支配でさえ、USAベトナム戦争でさえ、あったことだ。人は信じたことを信じ続けるというような主観の問題ではない、国家を合意形成している国家統治の問題であり、そこに主語的=主体的主観を統合している国家資本が形成され、欲望構造まで国家領有させている根深い国家問題である。
事実を「わからせる」など、プーチンがしていることと同じ「わからせる」という支配統治の仕方である。そんなことで解ける次元の物事ではないゆえ、高度な知的資本が要される。
こんな粗末な認識知性しかないから、バカヅラして解説している防衛省の軍事研究者たちや大学教師たちが、一番ダメなのだ。
ポーランド首相が、マクロンはじめ西側諸国の首脳を名指しで強烈非難していたが、その通りで、NATO西側は、プーチンと同じ「虐殺」の日々を容認している。
原理作用が、相互変容交換する事態は、カオスの現れそのもの、それがブチャやキエフ周辺の村の虐殺を、世界各地に巻き起こす均衡崩壊になっていることに対して、ウクライナは命をかけて戦っているゆえ、一歩もひかない。
深刻ぶったりヒステリックになったりせずに、驚くほど冷静にウクライナは世界へ「自由の真の戦い」を表明している。
ウクライナはひとごとではないゆえ、皆、世界中がそこに関心をいだいているのも、そこまで独裁脅威はきているからだ。このコンシアンスは絶対的に大切である。相対化すべきことではないが、平和ボケの大切さが「真の自由」への覚醒へと自らへ向かうことだ。
経済制裁が経済関係に障害を起こすなど当たり前のことで、間違っているのは、それによって国民を貧困化させれば政権打倒に至るだろうという、プーチンを逆転させた同じロジックをなしている西側の堕落である。住民を虐殺すれば恐怖と諦めからゼレンスキー政権崩壊を成すだろうというのと、同じロジックでやっている。チェチェンやウイグルに、なんらの対応もし得ない、それを放置しえきたそのままウクライナに対応している虐殺容認のNATO的世界秩序である。
ともに堕落した、無能同士の世界秩序になっているから危うい。テレビ解説者も同様であるのも、日本国内で起きているプーチンと同質の物事の仕方や考え方である。
プーチン的所業は、日本のヒエラルキー的組織体においてあちこちに存在している物事である。現場を見ないで、自分の思い込み意識しか押し付けない仕方である。
他者批判は自分へ返ってくる、自覚的自戒ををなしてしか批判は成立しないことを知った上で私はこういう無能・無知性の徘徊を自らへ許容しない。
非国家化を打ち出しても、反発されるだけであった状況はようやく、本質から非国家化を、アナキズムへ還元理解されずに前へ押し出せる状況になってきた、民のコンシアンスはもうそこを感知できるようになってきた。
過渡的国家は、国家の叡智性の形式として「絶対平和」の理念でもってしか作用しえない、その次元に来たのだ。それを、あまちゃんだとなじり、物理的武力配置や経済的力作用が現実的だと主唱する低知性とは、象徴闘争していかねばならない。善意などの問題ではない、国家的構造の統治技術の問題である。
*本質的に同じロジックだとしている批判対象は否定対象であって否定思考の表現であり、相対主義は肯定対象へそれを向ける肯定の判断停止思考である。
否定表現と肯定表現とは、対称的ではない、全く意味作用が異なる。
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何が、このヨーロッパの均衡を、普遍として世界秩序たらしめてきたのか、基本原理としての、少数の大国(強大な武力を持つ)と多数の小国との相互対等、不可侵の統治において構成されてきたものがある。
1)帝国は、保持されている、帝国が生き残るための方便
2)国家を疎外構成して、国家間均衡へと一般化した
3)そして、各国家内統治統合(集中化・統合化)は、「社会」を自然性化して、社会統治の制度規範体制を日常的に構成してきた(自由市場という官僚国家統制の下での国民の安全と保障)
4)戦争を、外部へ局地化し、国家自体へ波及しないようにしながら、自由国家か独裁国家かのバランスを保存させてきた
5)その戦争しないために武力体制を核まで含めて「抑止」機能の軍事技術として、生物兵器・化学兵器までと高度技術化してきた(つまり、いつでも戦争するぞという体制を保存してきた)
6)その軍事政治の国家保持のための商品経済世界市場を規範バランスとして波及させてきた:一部の金持ちへの富の集中化、貧困な分配統治経済
7)生存経済は、社会統治と商品経済との相互性における規範体制のバランスとして転移形成されてきた
8)それを支えるのは、労働集中経済(賃労働者としての服従と選択的自立)としての構成であること
9)その労働者となるべき学校教育体制の構造化と日常化(子供の情緒性から知性への統合):医療化による故障の治療依存体制
10)生活の商品・サービス依存の蔓延化:社会サービス制度を、官僚と不能専門家が決定し規範統治する
11)選挙という、数年に一度の疑似的政治参加へ限定され宙吊りにされた政治的行動、
12)それによる、政治リーダーの不能化の蔓延と官僚国家のエリート規範統治膠着化
13)これらを、国際機関として平等幻想に基づいて世界配置する
ということになっている。
400年かけて、革命と戦争を繰り返して、「社会の実定化」を為してきた「秩序」である。
その瓦解が起きているのが、ウクライナ戦争として表出した。
学生さん「ビラ」の次元で、このくらいのことは、言っていかねばならないが、現在の大学人で、こうした総体を把握できている者がいない。
若者たちは、感性のみが疎外されて鋭利になっていくが、知性が、旧態以前のままになって保守領有されている。
それぞれ、細分化され、しかも細分化された問題構成は、ウェストファリア条約、ウィーン会議のまんま、つまり均一・均質の「社会設計」のまんまの前提でしか探求されていない。
ここに、プーチンはつけ込んできたし、世界あちこちの自分のことしか考えていない独裁者たちが国家を使って、金儲私欲をしている、という様だ。
平気で、平和的=安楽的状態に対しての人殺しを国家遂行できる。その限界まできたということだ。
自由の幻想の保持ではなく、「自由の戦い」とは、独裁者の打倒だけでなく、ヨーロッパの国家均衡への戦い、自分自身の自由の幻想への戦い、というものを「象徴的闘争」として自己技術に強いられる。一人一人の考えが世界を支えている、個人は無力ではない。
だが大学人言説の個別専門主義思考などで、この瓦解、崩壊を乗り切れないし、そこに依拠していて個体的力能の自律性はない。
安楽の日常で、「平和のための戦争」を、制度や商品や社会サービスの次元領域で、なしてきた「規範政治」支配になっているのだ。
だが、あまりに「安楽」であった、この消費政治的な快楽は、相当な麻痺をもたらしているのは、存在と本質において考えることを放擲してしまっているためだ。それが、アホ解説者たちに丸出しで露出している。
社会主義に代わる真正の理念、自由資本主義に代わる真正の統治技術を、創出していかねばならない。
それが、述語制地盤での場所と資本の環境統治・技術経済の創出であるのだが。。。。。。
ウクライナの勝利後に、待っているが今ここでの課題であり、惨劇の犠牲続出になっている・・・・
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全国会議員を、首相や閣僚まで入れて、演説し、聴かせる、という構成を世界で作っている政治手腕。
聴くに値することを10数分で的確に語っている。情感を揺さぶり、理性と分離させていない。
acteをしていない、actionしているのが、誰の目にもわかる。
(戦争しているんだから、対等に扱え、1国に偏るのは民主主義に反するだとか、肩入れは危険だとか、そういうのが制度化された「acte」の水準。プーチンにはプーチンなりの正義があるなど、の見解はただのアホ。事実をまったく伝えていないところに正義などはない。肯定には、合一性しかない、それは「愛」でしかない、ゼレンスキーには国民への愛がある、プーチンには国民への愛などない、自己愛しかない、国家愛さえ自分で裏切っている。戦争において双方は対称性にはない、不対称な存在である。)
他人事ではないぞ、という普遍と本質に立ってのロジックをきちんともっている。
国のため、国民のために、命がけで戦っているからだ。
国家において、孤立していないからだ。
今、政治リーダーとして、もっとも理性的なのがゼレンスキーの態度だ。
欧米には、かなり厳しいことをいっていたゼレンスキーだが、日本へそれを言ってもどうにもならぬと思ったのであろう、日本の「調和」へのプラチックの高度さ、根底にある文化度をたたえていたが。各企業体はロシアから撤退してくれとはっきりいった。
だが、ニュース解説は、そこを真正面から抜いている。
ゼレンスキー大統領「閣下」なる、日本側対応の発言形容には、ゾッとしたものの、参議院議長の発言は真っ当であった。
経済制裁はするが、企業ビジネスは別だなどとお子ちゃま政治している日本政府だが、はっきりいうべきは、
「ウクライナ侵攻して無差別的に人殺ししている、プーチン政権統治である限り、企業協力はしない。プーチン失脚後なら、戻ってくる」と断言すればいい。それが、ロシア企業のためでもある。
自己権益を守っている虫のいい態度は恥です。
そんな企業経営で、世界ではやっていけない、そういう時代にもうなっている。
政治態度ではない、人間としての自分への態度・姿勢です。
「戦争犯罪者を容認していてビジネスなど成立しない」とはっきりロシア人へいうことです。他者否定ではなく、間違った侵略殺戮を否認する、自分への意識としての対象の意識です。
ロシア人はわかります。分からないなら、いっさい手をきればいいだけのこと。
相変わらずの「〜と思う」しか言えないテレビ解説軍事不能専門家は、まだ寝ぼけたことを言っている。
ロシアを刺激したなら、化学兵器、核兵器が使われてしまうと。
何をボケているのか、もう、化学兵器は使われる、戦術核は使われる、だから「使うぞ」とはっきりロシアは布石を打って言っているではないか。
「そうしない」などいっさい言っていない。何を、この人たちはボケているのか。
使わせないためにも、戦争を終わらせるためには、NATO平和維持軍が入らない限り、終わらない。
ロシア側は、チェチェンなど、動員してウクライナ攻撃させている、ベラルーシ参戦も要請している、それはロシア軍がもう弱体だからだ、戦線放棄しているロシア兵たちも出ている。そんな軍隊が勝つわけないでしょうが、武器だけの軍事だなどと人を無視した粗野な認識である。ロシア支持は、専制独裁国家連合を構成している、それは国民抑圧政府の自己利益しか考えていない輩たちの共同である。
何とボケてるんでしょう、この防衛省の研究所のえせ専門家たちは。
こういうのが、ロシア報道官と同じ、嘘を平気で言うようになる、その練習やってるんでしょうな。どうやったなら、真実を言っているかのようにして、国民を騙せるかの練習を。
ロシア代行発言者と同じ、顔に自信がない、自己への意識ではないから、「〜と思います」と誤魔化す。
ゼレンスキーは、国連も安保理も、もはや機能していない、組み替える時だ、日本がリーダーシップをとってくれと言っていたが、絶対平和を掲げて、固有の世界秩序設計を賢い国家理性を有した小国、スイス、オランダ、オーストリア、チェコ、ウクライナなどがなしていくことである。カナダ人も賢い。世界で、いろんな人にあったが、ただの小生の直感であるが、アホな国はやはりアホが多い、特に米国、ロシア、イギリス、フランス。。。。中国、つまり常任理事国だ、これが双方機能しなくなった。
大国リードの戦争威嚇でリードされる時代を許してはならない世界水準に入った。第二次世界大戦後の常任理事国指導の瓦解である。
真の自由、安全は、どのように統治されるべきか、明示していかねばならない。それはもはや、資本主義国対社会主義国ではなく、自由国家と専制国家との対立であり、自由主義国家でさえいつ専制国家になるか、国民は真っ二つの半々的状態になっている、危うい世界秩序である。
国家を守りましょうでは、もう存立しえない次元に世界は入ったのだ。
そして、真に世界の民衆のほとんどは、専制国家内でさえ、「平和を望み、戦争は絶対にだめだ」という良識になっている、これは大きい力だ。
未来ビジョンをしっかりもって、世界対応していかないと、米国の金魚の糞で後おいしていると、北方からの侵略が始まる。
もう、プーチンは、G20への出席を表明した、つまり、アジアへ共存体制作りに共同するぞ、なのに、その俺を排除したな、ならお前らが排除したから北方からの侵略を中国の台湾侵略と北朝鮮の韓国侵略と一緒にやるぞ、と出てくる準備にはいったのを意味する。
西側へ侵略した軍事行動は東へも侵略しないと、国家防衛できないなど、軍事の基本である。
東側のロシア隣国は日本である。
もう「ヨーロッパの均衡」の政治軍事では、機能しない。アフガニスタン、ジョージア、チェチェン、シリア、そして今回のウクライナが極地点、もう黙って無能無策で、見過ごしているわけにはいかなくなったのが、このウクライナ武力侵略である。こんな出鱈目専制政治を、容認していては、本当に泥沼、世界崩壊の核戦争になる。
核廃絶のおいてさえ、ボケている日本。
ヨーロッパ均衡+核抑止の、世界政治秩序は、瓦解したのだ。
10月まで、プーチン政権がもてばのことだが。
嘘で塗り固められた、ロシア国内報道をみて、もう基盤がプーチンには完全にないことがはっきりしている、基盤があるなら真実報道できる、ないから虚偽で固めるしかできない、そこまで強権化しているほど弱体化している。
ともかく、こんなバカ・プーチン挙動、絶対に許してはならない、テロの大玉の累積虐殺者だ。
馬鹿に世界中が振り回されている。
今、NATOが平和維持軍を派遣しない限り、戦争は拡大するのに、大国依存ボケした官僚軍事に堕しているNATO。
ポーランドなどが、苦しみを知るゆえ、平和維持軍すべきと主張している。ウクライナを犠牲にするような、NATO軍事配置など、へっぴりごしには呆れる他ないが、いつでもウクライナへ入るぞという実際であるのを願う。
]]>そこに、あまりに頻発する、共通しての、事実を述べているのに、「と思います」が必ずのようにくっつく。
事実認定できていないのだ。
また、明らかに事実であることを、「と思います」と主観化することが、客観性だと思いこんでいる言動である。
対象の意識は、不可避に自己の意識になるのだが、それはただ感覚的確信の次元でしかのべられていないから、対象それ自体に肉薄できず、しかも軍事局面は必ず政治面を伴うゆえ、政治理論など全く知性にないから、「と思います」と逃げる。
贔屓目に見て、対象の意識を客観外化せずに、自己意識として受け止めていると言ってあげたいが、そうではない、対象へ肉薄できない、客観化もなせない、ただの大卒知性の一般的「感想」の現れである。
武器については、一般人より「知っている」ようだが、知は意識でも事実現実でもない。その軍事的な作用についてはアホみたいに一般論になる。
防衛省の所属研究機関の幹部たちらしいが、こんな低知性で、日本の国防などやっているようではそら恐ろしくなる。
ゲーム理論の上っ面模倣で、国の防衛などできない。
軍事ほど理性を擁されるものはない。物理的武力行使は、国家理性による殺戮の究極形態であるゆえ、最高度の理性を持ってしないと、今のロシアのようにその場限りのミサイル爆撃打ちっ放しになり、相手側民衆を無差別殺戮し、味方に多大な死者を生み出し、敵国国土を焼き尽くし、さらには自国崩壊にすらつながる。
防衛に被害者が出るから、さっさと手をあげて占領を受容せよ、将来の日本を思うからだ、など強いものには逆らうなの元知事のバカが出てくる。苦しめれば弱者は手をあげる、とロシア軍の思考とおんなじだ。対象が違っているようでいながら、同じ否定媒介を設定しているからこういう思考になる。不同は同一と同じである。チェチェンのように、傀儡独裁(税で私設軍を持って横暴をなす)がなされるだけになるのを、わかってないからバカという。
プーチンがやけになって、何するかわからない、などの素人想定など、何にも言っていないに等しい。
生物兵器を使うかもしれない〜と思います、ことによっては、考えたくないことですが戦術核を使うかもしれない、〜と思います。。。
アホか、である。
侵略攻撃の「対象の意識」は、軍事侵攻に勝つことであるのだから、もうウクライナ民衆を無差別的に殺戮しているのだから、なのに軍事的に明らかに劣勢なのだから、生物兵器を使う、それでも決着づけられないのが見えているから、戦術核を使う、だから、今、食い止めねばならない、その軍事戦略は、NATOの軍事参画、飛行禁止区域の設定、核抑止のこれこれの使い方をすること、だ、でないと第三次世界大戦になる、とはっきり言えである。バイデンは米軍派遣しないと言ってますから、NATOは参戦しない、〜と思います、など言ってることを言ってどうする。
軍事に関して、後追い解説など、全く何の意味もない、ただの反省自我である。そんなこと、戦争が終わってからやれだ。
軍事は語られることではない、過去のどこかのことではない、今、ここウクライナで、キエフで、マリウポリで、このとき、ウクライナ人へなされていること、それ自体である。「〜と思います」ではない。
一番呆れるのは、地政学さえないことだ。芸能人の方が語っている。ただ、首謀者の思惑だけで、外交軍事を主軸にしてでしか、「言ったこと」でしか推察していない。ひどいのは、プーチンとバイデンの二人の意思で決まることですからと、呆れ果てる。
元ウクライナ大使の実際体験から、国家防衛隊の民兵的組織が語られたなら、どっかの先端研究所の軍事「専門家」なる者が、それはソ連時代からあったことだ、と今頃、ただの知識として述べる。ウクライナ兵の実情など、ロシア見解と同じように侮ってみていたことでしかない。
民兵訓練は大変な時間がかかるとわたしは思っていたが、2004年以後、すでに数万人あるということだ、これはあっという間に何十万人もの民兵化が可能なるのを意味するからだ。しかも場所ごとにあるという。これは強い。
だが、相変わらず、小学校算数の兵士数である。キエフ北部の道に並んでいる戦車数さえ出てこない。
ともかく、あまりのずさんなひどいおんなじ解説しかなされない、よくも知ったかぶりで語れるものだ。
軍事に第3の立場などはない、敵か味方か、勝つか負けるか、の二項対立しかない、愚行極致なのだ。ゆえ、強度の理性が要される。
最初の頃の解説は、明らかに多勢の軍事力あるロシアが圧倒的に勝つという、強国主義の上っ面認識に立っていたが、キエフ陥落がなされない、すると補給がとどいていないからだ、今立て直し中だ、と、バカみたいな解説である。そのうち、ウクライナが「善戦」していると道徳判断をもり込んだが、力の作用や軍事的戦闘の法則さえ見れていない。
マリウポリのように3000人も殺され、数千人の女性・子供がロシアへ連れて行かれた、ほぼ都市壊滅的状況になっても制圧できていない。マリウポリ虐殺の戦争犯罪だ。
ハリコフやヘルソン、ニコラーエフなどさえ、陥落されえていない。北進できる状態ではないのだ。キエフからオデッサへ、そのまっすぐの道を、かつて私はオデッサの友人に案内されて通ったことがある。ほんとにひたすら短調な平地の直線の道である。この道、ロシア軍が通ったなら、完全にウクライナ軍に破壊されよう。
オデッサへも攻撃できていない。艦隊があっても地上軍が動けないからだ。が、攻撃が始まった。
南部制圧の強化である。
だが武器を持たない市民たちからロシア帰れと追い出されている。マカリフはウクライナ軍によって奪還された。
つまり、1ヶ月近く経っても都市制圧ができていない、完全にロシア軍事侵攻失敗である、「〜と思います」ではない。
ロシアが切り返すのは、ヨーロッパ戦争をおっ始め全面戦争へ突入するか、または敗走でしかない。
つまり、解説者たちの思考そのものが、話にならない。だから、大卒知性だと言っている。
大学教師らのコメントなどそうなべして、自己意識欠落の、対象認識にもなっていない、もっとひどい低次元の論外だ。
プーチンを怒らすと何するか分からないから、なだめすかしながらやらないと、など子供の喧嘩じゃないぞよ!
日本でのこうしたお話が、個々人の意識の現れになるゆえ、批判している。
軍事は、武器だけではない、ありとあらゆる総体の動員である、それさえわかっていない解説に呆れる。
同じ水準で、岸田政府の善意気取りの西側追随の経済制裁しながら、日本のロシアでの経済権益を守るなど、ボケたことしている事態ではない。お子ちゃま政治である。
学術会議に、軍事研究を政府が依頼したなら、根性なき学者ぶりで、それを拒否した「いい子ぶり」の情けない政治学者をはじめとした擬似学問集団の大学アカデミズムの不能な連中たちだが、それがこうした、三流以下の軍事研究者たちの徘徊を派生させている。
ロシアも中国も「隣国」であることを忘却して、戦争加担になるからしないなど、軍事の意味さえわかっていない大学人たちである。
社会主義の亡霊が専制国家となって、暴力装置を貧困な政治理性で行使することが、このようにはっきりと出現してしまったとき、国家間の均衡の軍事外交がいかに破られ瓦解するか、国連平和擬似統治も含め深刻に吟味せねばならない。
普段の日常の国家統治が招いている物事が、どうなっているかの考察さえしていないから、緊急時の危機に何が起きるかの認識さえ喪失している。
軍事=政治である古典クラウゼヴィッツさえもわかっていないように見えるが、レーニンやトロツキー赤軍や、ヴォー・グエン・ザップ、ヒトラーやスターリン、毛沢東、さらにはもうほとんど機能しまいゲバラなど含め、近代の「反振る舞い」や独裁者戦争や多発した軍事クーデターなど、とても現実実際の戦争・紛争を踏まえて勉強しているように思えない。ペンタゴンなど、ただ二律背反を想定項目列記し、プラスの多い方を選択するだけの戦略しかしてきていない。情報収集は、はるかに高まってはいるようだが、分析や戦略だてが、後手でしかなくなっている。ロシアのなすがままの横暴な局地戦争を見逃してきた、西側の怠慢さ、失敗の総括さえなされていない。
ウクライナが踏ん張っているのは、民衆一人一人の存在が戦っているからであって、それを国家共同性が民衆の立場に沿って動きえているからだ、政治家たちの操作でもちこたえているのではない。
国民一人一人が決定していくのである。
]]>それは、権力を上り詰めること、国家権力を掌握することとして、媒介設定され、対象の意識は権力=物理力を知覚した占有となり、自我の意識(自己への真理)はそれによってしか実際現実化されないとなっていく。
そして、強権発動が現実化となるためには、経済サポートとしてオリガルヒ(経済独占所有者たち)を配置し、イエスマンの閣僚体制を政治統治配備し、対他的な権力関係の支持基盤を確定することになる。
これは、「ロシアにとって」正しいことであるから、それを批判・非難するものは、邪魔者であり、非効率的なものを負うことになるゆえ排除する、社会統治抑圧を日常機能させるようにする。つまり、悟性としての規則を抑圧的に布置する。
それによって、スムースに事を運ぶ、現実化する。という意識だ。
これは、国家の叡智性をプーチン権力所有の意識の叡智性へと書き換えて、国家資本をプーチン一手へ集中化する構造を形成することになる。
限定されたナショナリズムの変形形式であるのだが、全的に自分を知って自分自身を確信している精神であるため、真実の概念となって普遍体の形式を有している純粋の自己意識だ、となっている。
そう思いこむ主観ではなく、パワー諸関係を所有配置している。そこに保証されるプーチンの自己意識となる。
プーチンを気狂いだ、狂っている、と私は言わないのは、ロシアのソ連概念が、自分の現実態となって存在のための境地を自分の純粋な知ること自身において自分で具えているからだ。否定態を作用させているからだ。
つまり、プーチン的なものは、あちこちの組織体マネジメントでなされていることである。自分に都合のいいことは肯定し、都合の悪いことは否定するだけでなく排除する、ことで純粋な意識を純粋義務として保持する仕方である。対立において本質が出現するのを回避する仕方である。そこで、自分の単一態を放棄していることに、全く気づいていない効果になる。
自分を放棄しうることで自分になることを失って、他者を否定して前進できる、具現化できるとしている様態だ。
冷酷さが普遍態になっている。
徴収兵を戦争の最前線へ送って死なせても、ロシアへの貢献だと居直る残酷さになる。
ロシアを愛するなら死ね、と兵に言い、自分は死なないよう警護を固めあらゆる手を尽くす。
物事において、それは思惑通りに進まない、また失敗の結果が副作用的にエントロピー的に不可避に産出されるため、それを表立って見せると、無知な大衆は同意してこないから、それを隠す、嘘で、良き状態になっていると覆う。
いわば、逆生産次元へ入ってくると、それは自分の体制自体の不十分さ、不備からきているものであるのだが、そこが露呈しないように防衛に入る。つまり、他なる欲望の配置がここで変転する。
良きものとしての他なる欲望の配置は、悪しきものを隠す他なる欲望の配置となる。
ここへいくと、もう後退できない、自己を否定媒介できないゆえ、ただひたすら自己肯定を嘘で固めることしかできなくなる。
自分をいずれ罰することを、自分を衛ためにしていくという、犯罪行為でしかなくなる。
これは不可避の心的なパワー関係である。
しかも、ソ連原理とは異なる欧米的な消費欲望の原理が、民衆を誘惑し、ソ連への渇望がなくなってしまう。
この不安の昇華を図る作用を、なさねばならなくなる。
この頂点で、意志は妄想へと転じられる。乖離する意識と現実のギャップを埋めるためだ。
神話を作れるような理性はないから、暴力抑圧で押さえ込みながら、外部性の敵設定へと否定媒介を作り出す。
「自分でしかできないことだ」が全ての規準にある。
自分とは、富の所有者であり、身体の強靭化である。
私的所有を極大化し、身体誇示する。具現化し得た自分の誇示であるが、去勢防衛から来ているものに過ぎない。
劣等者の典型的な自己補償だ。
俺は、自己実現できているぞと、示威する。
他方、自分ではない他なる奴らは、自分の実行より優れている、成果を明らかに出している、と民衆からみなされてしまう。
この矛盾を克服するには、奴らを敵と設定せねばならない。
その敵は、自分の野心へ対決してくる敵であり、その敵の幻影はソ連を脅かしたナチ、今のネオナチだ、と対象の意識が転化される。もう、対象への観察はずれていく、対象の意識の真理の場が、実際現実とズレる。
それは、自己への意識としてもズレる。対他性が喪失され、即時的なしかも閉じた対自性しかない。
正当性は、ウクライナ民衆はネオナチに苦しめられている、親露派は自由を奪われている、という対他性の転倒になる。
クリミア半島の成功体験が拡張される。皆、ロシアを望んでいるのだと、願望は妄想へ。欲望の遡及的な転化。
その独立だ、解放だ、それはソ連の復回だ、それが対象の意識=真理だ、他なるものの意識だ、それに俺は服しているだけだ、とされる。
さらに、ウクライナ人へもいいことになる、と妄想される。
幻影の対象は、実際の相手を欠いた自己意識の頑な我執として自己止揚していくだけになる。
ウクライナは兄弟だ、と言って民衆を殺し、その子供や病人までも殺していく残虐性が「ロシア」の名において正当化される。
NATOが、俺の正義の野望を無視しやがって、俺の他なる欲望を満たせない邪魔をする、ウクライナがそれを支える、こいつらが敵だとなる。
他なる正義の欲望となっている、それがただの自我の対象意識をはき違えたものでしかないという対自意識しかないゆえ、ひたすらの妄想被害観と妄想拡大欲望となって、それに反するものは全て制圧せよ、殺戮せよ、弾圧せよ、「俺の正義」をじゃまするからだ、俺はロシアのためにやっている、と。
この「正しいロシア」が存立しないなら、世界の存立など意味ないと、他者性は全て否定される、妄想。否定媒介になっているから、真理だと思い込まれる。
もはや他なるものは、すべて自分の意識、それが対象の意識だと合体されて絶対化されているゆえ、他なるものはプーチンの自己意識以外には存在しない。プーチンの意識が世界となる、独裁者の完成。
あとは、
正義のために犠牲は伴う、
一歩も緩めたなら瓦解してしまう、
躊躇はならない、
など凡庸な一般論が強圧的に遂行される。。。周囲は、自己保存のために服属するパワー関係になる。
対外的には、嘘、虚偽でしか固められないゆえ、敵側に自己の原理をなすことを捏造して、対他的な補償をなそうとする。
自分がなしている悪は、敵がなしている悪だと、誰の目にも明らかな虚偽を、それゆえ、正当化する現実化処置をなす。
生物兵器をウクライナは作っている、だから生物兵器を使う、もう確実に使うということを国連への疑似報告をなした、言ったろうと縁している。
これは、ソ連=ロシアの統治常識として慣習化されているゆえ、当事者は平気でやる。
この妄想は、宗教的信念として共同化されているため、概念を持ちえていないゆえ、自己意識の運動に対立するのだが、そこを埋めるのが「ロシアのため」だという妄想である。
自己への意識としての「美しい」自分勝手の魂の妄想は、虚しい、血に染まった現実によって実際世界では打ち砕かれる。
しかし、この妄想自体は当人には解けない、失脚しても、戦争犯罪人と裁かれようが、妄想は解けない。
それが機能するように権力所有を固め、権力関係を配置してきた抜け目ないプーチンがいた、だらしない取り巻きが固められた。
そんな政治も軍事も、物事自体の動きで、機能はしなくなる。そういう歴史は学ばない、妄想を正当化する歴史を絶対的な知として領有する。対象意識と磁気式とがどんどんずれていくから、そのギャップを妄想で埋めていく。
資本主義は社会主義の真正的理念を模倣して、自由主義をそれなりに形成してきた。
だが、社会主義を喪失したロシア=プーチンは、資本主義の身を共産主義派級から守るという帝国主義の侵略・殺戮の悪を模倣した、悪は真正原理とはならないが、自己意識にはなる。
もっと詳細に説いてもいいが、バカを馬鹿として説明する馬鹿馬鹿しさに価値はない。
自分が自分のうちで為すことを知るには、他なるものの意識を知る、対象の意識を自分の意識として知る、それにおいて自分を否定媒介にしていくことにおいてなされる。
それをし得ず、自己肯定しかしていない自己意識で絶対者だと思っているのを、馬鹿という。
歴史上最低のバカ独裁者がプーチンである。権力占有の旨みを知っていたが、国家や社会が軍事がいかなるものであるのかを、全くわかっていないバカだ。
]]>
キエフ陥落は不可能がみえた。
ロシア軍が引けばこの武力侵攻は終わる。(問題解決ではない、武力による市民殺戮は終わる。)
ロシア軍が引くには、二つのことしかない。
?プーチン個人が失脚すること。
?ロシア軍が分裂すること。
これのみである。
そこにくわえて、もう一点、危ういリスクが多分になるが、
?NATO軍がウクライナ内に平和維持軍として入ること。
停戦協定がなされても、再び戦火は開かれてしまう。
?は、国家権力所有においても権力関係においても、プーチン一人に権力所有が集中化され、権力形態の究極構造になっている。国家の叡智性の形式はない、プーチン自身が自ら破壊している。恐怖と未来が読めないイエスマン取り巻きが支えてなしているに過ぎない。
プーチン個人の意思による侵略侵攻で、彼が失脚すれば、まず侵攻は終わる。それは問題解決ではないが、何より民衆への殺戮攻撃は止まる。そこから、問題への対話交渉が始まる。プーチンが出現してしまうようなロシア的国家構造があるにしても、この武力侵攻はプーチン妄想でしかなされていない。
ウクライナだけでない、自国のロシア自体を滅茶苦茶にしているプーチンでしかない。
?騙されて戦争させられていること、酷寒の中での恐怖、指揮官の出鱈目さ、に兵士たちが気づき始めている。正当性が全くない戦争がプーチン命令によってしかけられた。末端がどこか1部隊でも、真っ当な指揮官とともに、戦争拒否したなら、一挙にロシア軍は崩れる。キエフやウクライナを制圧しても、兵力は足りないなど、先のボケたことから、現在を観るなど、軍事武力侵攻は一刻一刻しか進まない実際であることを何にも分かっていない、呆れ果てる。対抗概念的な想定設定など、武力衝突に全く意味ない。
?飛行禁止区域を設定して、ロシアへの爆撃も可能になることで、?ないし?が派生する、ないしは、ヨーロッパ戦争が起きる。だが、ロシア軍は核をぶっ放しても勝てない。NATOの官僚化堕落を、内部のいくつかのロシア隣接国が突き上げでなされうるかどうか。慎重論など、ただの責任回避の軍事的・政治的だらしなさである。
諸関係が複雑に絡むのは当然だが、武力侵攻を止められるのは、この三つしかない、そこへ個々人の、対象への振る舞いを絞り込むことだ。
つまり、これは違法な条約破りの、武力侵略、殺戮である、戦争ルールさえ最初から破っているが、戦争はルールではない。犯罪、極悪人プーチンでしかない。ソ連強権構造など、ロシ民衆にもなんの利益もない。
ロシア政府愚鈍さで、ウクライナ統治などできない、もはやロシア統治でさえ、抑圧でしか支配できなくなっている。あちこちで、綻びが出るのをもうとめられない。
プーチンの戦争犯罪である。それ以外の何事でもない。一連のソ連覇権構想の歴史的脈略があろうとも、正当性が一切ないこの侵略である。
プーチン権力所有集中化=独裁においてなされただけである。
ロシア・ウクライナ関係の政治問題解決は、後のマターだ。
タモリSTATIONで、相変わらず、軍事専門家と称するあちこちにテレビ解説している、多分政治絡みで選ばれて広報活動しているんだろうが、二人の専門バカが、政治と軍事と経済とを混同させ、都合いいように恣意的に、つぎ合わせて、意味されたことだけを述べ、意味することは「〜だと思う」と大学人言説の典型を語っているが、政治も軍事も何も分かっていない、つまり、プーチンと同質のことをただ柔らかく述べているだけだ。無意識の強国主義である。
こういう、輩の隙間に、プーチン的なものが存立しうる根拠がある。
おまけに、プーチン非難していてはダメだ、など完全ボケだ。プーチンの傀儡代行で、善意ぶっている。
よいか! まず、基本的に、究極の政治も軍事も、「勝つか負けるか」どちらかしかない「戦いである」、対話ではない、それは後始末のものだ。政治ボケは、相当なものだが、軍事ボケはもっとひどい。軍事は武力・兵力だけではない、それは1要素でしかない。
軍事には、総体が関与し、地盤は正規軍ではない、民衆である、民衆の場所である国である。それを守る軍事と、軍事喪失している正当性なき侵略殺戮との戦いである。武力衝突という、人間のもっとも最悪の愚行における、叡智性の作用が軍事である。
軍事として、ウクライナはもう勝っている、負けていない。兵力・武力が少ないから、ロシア軍をおいだせない、蹴散らせないだけだが、相当なダメージを与えている。防衛戦をしているにとどめている、この戦略はすごい。
ロシア軍は負けているから、見境なく単発ミサイルをぶっ放している、虐殺段階に入っている。東部でさえ都市陥落をなせない。なせたところで制圧維持できない、クリミアのように喜び迎える民衆など親露派にもいない。命令だから引けないだけだが、内部的には損耗している。補給がなされたところで、生き延びられるだけで、もう士気はない。首を怖がっている指揮官の目先の自己保守恐怖だけで、攻撃へ動いているにすぎない。20日間も戦車内で、ろくな食料もなく、糞尿の垂れ流しをしている自分へ、どんな兵士であれ気づいているであろう。
武器力は圧倒的にロシアが大きいが、軍事力能はウクライナの方が圧倒的に強い。
軍事は、物理的武器だけで決着はつかない。
軍事的楽観の見通しなど意味ないゆえ、緊張状態と武力衝突はなされ続ける。
これは、今までの紛争的戦争とは全く違う。民衆参画の抵抗総体になっている。
ウクライナの方が賢い、ロシア侵攻側は、プーチンから軍指導部、外相など閣僚含め、「嘘しか言えない」愚鈍。勝てるわけがない。戦場の現場も見ずに、ウクライナが民衆を殺している、などと首脳間でしゃべるような嘘つき、極悪人プーチンが勝てるわけがない。
国家権力集中は、強いのではない、弱体だからそうなっている。
国家論もなくよく軍事など語れるものだ、ただ現象を並べている。現象学は、教育的お勉強でしかないレベルにあるものだ。命懸けで防衛に戦っている行為的理性への感覚的確信さえ、ない解説者たちである。
武力衝突が起きても、ミサイルが1000発以上撃ち込まれても、家が破壊されても、人々の毎日の生活はなされていく。
戦闘よりも生活の方が遥かに大きのだが、それを破壊しているプーチンは戦争犯罪者である。
]]>
吉本さんの没後10年と知の新書『心的現象論・本論』刊行記念特別セミナー
「世界知と吉本思想
日本国家と超資本主義を考え直す」
講師:山本哲士
場所:週刊読書人セミナー室(神田神保町)
申し込みは、こちら。
https://dokushojin.stores.jp/items/61fc98ee72c5de5851aa345c
ヘーゲル「精神現象学」を、吉本思想はいかに乗り越えているか。
没後10年、普遍の輝きを失わない思想の世界性を説く。
「心的現象論・本論」から「物と感覚」の述語的思想表出の意味を説きながら国家論・資本主義論を考え直す。
こんなおりウクライナ戦争が勃発、国家の世界秩序の瓦解が起き始めていることにも関わって、
吉本思想の本質的普遍力から現在を考えたいと思います。
現在性と本質とが、いかに絡むか。社会主義を喪失したプーチン=ロシア独裁と官僚軍事でしかないNATOのだらしなさとを、国家論から考えます。
日本国家論として話す予定だったのですが、国家そのものの問題として。。。。。
]]>軍事侵略には何の効果もない。軍事侵攻はほとんどロシア軍敗走的状態なのに、プーチンは海外要員まで募って継続させている。
住民死傷者は増えるだけの世界政治の仕方だ。
経済制裁でロシア国民が、政府情報統制の虚偽に目覚めるだろうとか、対話交渉で要求水準を落とすであろうとか、「意識」理性へ関係すると設定していることの過ちでしかない。
政治理性喪失しているから、武力侵攻が起きている、これは軍事マターだ。
背景から武器援助をする、それは効果を奏すが、制空禁止も出せない、戦闘をウクライナ人へやらせているだけのNATOの無意味存在の露出である。
また、戦争を止める機能が果たせず、ロシア支配者が自身で常にやっている政治策略=嘘を相手側非難へ向ける、その嘘の報告権利を与えている、国連の無意味さである。
外相が平然と世界へ国民へ嘘を言い、国連代表・議長が平然と嘘を世界へ語る、それを容認していることに、自由の存立はない。国家権力代行為であるから、そういうことになる。国家間均衡を、プーチン・ロシアは破った、戦争犯罪人なのに。
世界秩序は転じられた。
バカ・プーチンが勝手なことができる、それを容認できるような世界秩序の瓦解がはじまってはいるのだが、軍事抑止で、即刻に戦争を抑えないと、取り返しがつかなくなる。
キエフ陥落後で対話が始まるなど、侵略戦争すれば対話交渉へ持ち込めることを正統化legalizationしているだけだ。
正当化justificationがそうした仕方でなされる秩序を構成することになってしまう。
ウクライナ人の一人一人が悲惨にも関わらず、何らかの形で戦っている。
ロシア人の一人一人の自覚(認識ではない)が蠢いて行く。
世界の一人一人の平和への願いと戦争反対の振る舞い。
この個的振る舞いの世界秩序に対して、独裁国家権力もNATOも、何もできない、政治統治不在の統治官僚になっていることの、瓦解だ。
コロナ感染を防ぎ治し闘うのは個人個人の治癒の自律力である。
医療化ではない、ワクチンではない。個人の感染力と自律ケアである。
ここにもう、他律が何かをしてくれるのだということの機能停止状態が現れているが、ウクライナはそんなこと言っていられない、戦いたくもないのに否応なく、毅然と戦っている。
ここは小児病棟だから、また病床がないから、負傷兵は受け入れられないなどと言っておられまい。
病床がないから感染者を受け入れられないとやっているのが医療化で、医療放棄しているだけ、それをNATOはしているのだ。
ロシア兵に戦う意味などは、どこにもない、ただ他律命令に服従しているゆえ、蛮行にでる。
それを不正だなどと非難して、軍事抑止をしないことでは、被害は拡大するだけを進めているに過ぎない。
また、ばか・プーチン自身が、戦争現場を見ていない。
イエスマン部下の都合の良い情報提出をさせることを、自分が作ったのに、政治機能しなくなる。これこそ、人を入れ替えても同じ専制権力所有構造が作られていることに、当人がわからなくなる。このシステムは、数人で、全体を動かせる「騙し」と「欺き」の抑圧支配体制構造になる。
この国家権力構造(統治技術の稚拙さ)への認識知性なしの大学的知性は、日本社会人が在日のロシア人への非難を匿名的に平然となす振る舞いを作り出す。コロナ患者に出ていけというのと同じだ。医療化権力構造が構成されているから派生する。
権力関係では、相違が対立したり調整されたりする、その揺らぎに動く自律性に自由がある。
規定性・規範性に自由保障があるのではない。
NATO諸国が、直接軍事行動を抑止的にとらない限り、終結への道はないどころか、殺戮状態が拡大し、ほんとにヨーロッパ戦争へ拡大する。
ばか・プーチンとロシア軍に、力はない、驚くほどずさんな軍であることが露呈した。戦車の上に防衛鉄骨(?)組み立てをほったて小屋みたいに作っている、戦車機能していなからだ。都市侵攻しても、これはもたない現れ。
ウクライナの方が軍事的な戦略戦術が機能している、ただ武力増員がないだけで、それをNATO諸国が直接補給せねばならないのにしない。核ボタンが押されるなどと怖気付いた正統化をしていると、自分たちへの核攻撃が始まるのも、もはやウクライナ国の問題ではないからだ。核抑止をプーチンに使われている、だらしなさから脱していない。
馬鹿な武器開発してきた、国家統治者たちの愚行・無能の露出である。
軍事の本質根元が、歩行=自律性にあることは、ベトナム戦争でわかったことなのに・・・・・どんな非人間的な殺戮爆弾を作ろうが勝てなかったUSA、そのドミノ論理が、またプーチンによって使われている、ともに進歩なき無能さ政治だ。
経済が締め付けられれば、政治が変わる、軍事が変わるなど、安っぽいマルクス主義唯物論です。経済が政治を決定するというタダモノ論の考え方です。
また、国家と社会の区別とその関係性への認識もない、独裁に社会国家などないが、社会統制は独裁でなくとも固有に機能しうる、統治技術と国家との関係すら認識にない、ましてや大他者の欲望主体化と国家との関係への認知など皆無。
大学人たちは、権力巨大性が物事を決定していく、良識や対話が戦争を解決する、などとして、軍事が「dispositif」として、戦局に応じて一刻ごとに変化作用することにあまりに無知。聴衆が考えていること以下のことを、専門家たる非専門家たちがテレビでくっちゃべっている、こういう低知性が最大の癌。プーチン統制と同じです、テレビ局に都合のいいことしか喋っていない。
そういう事態が世界蔓延している。
日本の首相もいい気に、善意ぶってロシア批判制裁しているが、注意深く言動しないと、プーチン=ロシアからの攻撃を東方戦線として受けることになる。
こうした政治不能状態に対して、若者たちが、対象そのものを捉えて、ウェッブで新たな情報交通関係をつけて開いているゆえ、その若者たちが、大学知を超えて、自分が為していること自体へのしっかりした認識を持っていくこと。
その一人一人の力がいちばん大きな作用なのですが、歩行で軍事的に戦っていることと同じ次元での「歩き」=「学び」の自律性です。
津波が来るのに(ロシア軍が軍事侵略しているのに)、校庭に並ばせられて危険があるかどうか、どこへ逃げるかの回路を探っているうちに(経済制裁しているうちに)、全員が津波にさらわれる、ということを軍事次元で規則軍事・規則政治やっているのがNATOです。
ヒットラーが会話・対話をしましたか?!です。戦争は制圧と侵略、それでしかない愚行。それへの抵抗は、軍事活動そのものの理性の戦いであり、軍事外の戦いではないゆえ、愚行への政治理性が問われる、現場での戦いです。
バカ・プーチンが、攻めてきたのですから、軍事圧力をかけるしかない、世界戦争のリスクをもって。
早く、気づけ、ごまかし続けるなです。軍事圧力によって、ロシア内での軍クーデターが起きうる。そこまで今、政治=軍事情勢局面はきている。ロシア兵を殺し続ける結果を招いているプーチンに対する、ロシア軍指導者たちの一部の勇気ある行動を、だ。
せめて、ウクライナ隣接国境に、NATO諸国軍を早急に配置し、いつでも軍事支援すると軍事示威することである。
キエフ陥落は、そうたやすく行かないであろうが、キエフ陥落させてしまったなら、確実に遅い。
]]>住民への爆撃もどんどん、悪化して粗雑になっていく。
原発まで危機状況へ置かれている。
ロシア政府は、嘘丸出しの弁明をしていく。
国内統制を機に、ロシア政府=プーチンの正当性の正当化根拠が不在であることが露出している。
ロシア兵の死亡者=プーチンへの貢献者の犠牲存在さえ、表明できないプーチン。
この、ばか男、完全に存立根拠を喪失している。
国民や兵士を騙し欺いて、国家元首としての資格などまったくない。
古くさい政治論理の次元、つまりやむなく、レーニン国家権力論次元へ戻っていかざるをえないと言わざるをえないのだが、通常なら権力者が失墜してもその権力構造は権力関係に支えられているため、人が入れ替わるだけで構造は何も変わらない、統治技術も変わらない、これが理論的な権力所有構造と権力関係との関係構成の実際である。
しかし、プーチンは、権力諸関係と権力所有とを一身に構造構成し体現化しているため、プーチンを失脚させるしか、方途はない。
プーチンを引きずり下ろせば、権力諸関係も瓦解し権力体制の統治技術は転じられる。
そういう、国家権力の究極形態にあるのが、今だ。
この政治局面は、ロシア軍がいかに無能であるかを露呈したこととそれに応じてロシア国内統制を強化したことの国家内外局面で、変わった。イデオロギー国家装置の基盤がない、共同幻想の国家化も脆弱だ、ということの露出だ。ただ、独裁者プーチンの大他者欲望からの妄想があるだけだということの露呈。
プーチンの表明に、正当性を正統化するものなど何もない、代行者たちの代弁表明も「嘘」だらけであることが露呈しているのは、正統化政治の土台がないからである。プロパガンダにもなっていない粗末さ。
つまり政治的権力諸関係は、権力所有へと収奪構造化されている現れ。
ばかを可能にすることしかできないプーチン。
軍事武力侵攻に対して、NATOは即、軍事武力威圧防衛をすべきだった、それをせず、旧態の「ヨーロッパの均衡」の外交軍事の政治で、経済制裁へと勘違いをおかし、経済混乱へと世界を導いた、これはNATOのだらしなさに他ならない。核戦争を防いだのではない、さらにその危うさを招き入れた。
政治資本がないから、起きた無能さである。
どんどん、危機が深まっていく。経済制裁効果など、プーチン=権力所有体に全く損傷ない。むしろ、国民からの正当性の根拠に使われる、ほらみろ、ネオナチ=ウクライナ政府によって、あんたたちは苦しめられている、と嘘を正当化転嫁できる。
プーチン暴走を進めるだけ。
直接武力の軍事侵攻を経済へ転嫁するなど、NATOは何も政治がわかっていないことから、派生したことだ。
世界性で、単純なレーニン国家権力論を全くわかっていない、低知性には驚く(ましてやプーランザスの国家ファシズム独裁論など無知である現れ)。
国家権力の究極形態が出現したときは、国家は強力なのではなく、脆弱なのだ。
なのに、プーチン軍隊は強力だと錯誤し、怖気付いた。
ロシア軍も粗雑、NATOも粗雑、この双方の政治的粗雑さから、ヨーロッパ局地戦争=第三次世界戦争が、双方の愚行から起き、東アジアにも拡大する危機の臨界点。政治指導層の貧困な政治資本が招く。
キエフが陥落したなら、国家終焉戦争という希望が転倒したものが起きる、なんとも不気味な政治様相である。
プーチン側は、戦争正当性がないのに海外志願兵1.9万人を受け入れると言っている。それに対して、NATO側は義勇兵を足止めさせ、参加したなら反テロ行為で罰するなど、規則軍事をしている。まだ目が覚めていない、どんどん悪化することを進めるだけのNATOのだらしなさ。
だが、どうも、キエフは陥落する気がしない。そんな「気」を世界へもたせる、ウクライナ人たちの抵抗だ。
ないしは、東京空襲みたいな全壊滅状態にあるかだが、空爆もできない、ミサイルぶち込みでしかなせないうちに、ロシア側へもミサイルが飛ぶことになる。抑止の瓦解、最悪地獄。ヨーロッパの均衡の外交=軍事では、解決できない。
やむにやまれぬウクライナの抵抗力が半端ではない。プーチンに欺かれているロシア兵の離脱が、ますます要になってきた。
キエフ中央広場で、音楽演奏しているウクライナ人、さすが文化国、すごいなと感服する。こういう存在は、銃を持って戦いうる力の作用になる、この「銃」はロシア兵の銃とは全く違う。
戦いは、1時間ごとに変わっていく、誰も予測などできない、刻一刻の動きである。計算や目論見通りになるものなどは一切ない、戦い途上に、対話などはありえない。だから、馬鹿馬鹿しいのだが、攻撃してくるものがあればやむなき悲劇へ悲惨へ、どちらもいく。国連での馬鹿馬鹿しい正当化主張の儀礼論議が典型なように、対話はありえない。
ソ連崩壊でやっと平和安定な世界がひらけ、東欧の社会主義脱出もなされたのに、世界各地での局地戦争を、また、少数エスニシティへの抑圧を、旧態政治のままなしてきたことと、欲望快楽の経済しかなしてこなかったことの、natio-state保持を成すしかなかった、その限界効果が現れた、ウクライナ戦争だが、ばかプーチン倒壊を成さない限り、破滅へ行くのみになる。生活エネルギーではない、利権エネルギーしかやってこなかった結末の現れである。武器だけ進歩している、馬鹿馬鹿しさ。
「戦争しないことをしないでい続ける」、その「しない」状態によって、世界はどんどん後退して行く。そこへ、入ってしまった。
そこで、自分は何を自分へなしていくか、その自己技術がいちばん大事なことです。国家という次元がある、そしてビジネス・経済という次元がある、そして制度の次元がある、この三つの円環において、大学人理性では、ポジティブな動きにならないということだけははっきりしている。
国家権力が強いものが勝つことはないのに、その前提でしかテレビ解説していない、大学知性情況の方が脅威だ。
国家権力論だけ見ていたのでは、その状況的出現や限界をもっての使い方がなされない、私の国家論5部作の知をもって、その権力究極形態の実際を掴むことです。
日本は絶対平和の政治理念と路線を確立していくべきで、憲法改正の自衛隊軍隊化などで、この愚行世界危機への対応はなしえない。
]]>これを、「真実をねじ曲げる」と批判する思考は脆弱。事実とフェイクの反転が、真実として真理作用させられる。
真理・真実をめぐる闘争に入ったということ。
事実は、真実ではないという関係が構成されたのを意味する。
真実は、プーチンの意図にそうものだけだという真理生産の国家統制である。
つまり、ロシアの社会空間に、事実の交通が遮断される。
そして、事実の解釈が、国家的に一元化される。
これは、イデオロギー装置が機能していないことを意味し、暴力装置ののが物理作用することになる。
隠すことでしか、国内保持をできなくなったプーチン独裁。
ロシア・プーチン政権の末期兆候であって、もう持たないから、情報統制に入った。
権力発動強化は弱体化の現れであること。
統治技術を一本化しないと機能しない現れ。
ロシア独立ジャーナリズムは解体された、BBCやCNNなど海外メディアも閉鎖、国外退去していく。
情報が真実であることは、情報過多からどんどん失われていくゆえ、情報制限が真実に近づくという思い込みパワー関係が派生する。
物事が、ことごとく逆生産状態になっていく。
他方、国際ハッカー集団が、ロシアに情報戦争をしかけているが、一時的機能障害が起きるだけだ。
ロシアは、どんどん閉鎖状態になっていくが、プーチンには絶好の機会となっていく。プーチンが国内倒壊するかあるいは破裂して世界戦争を起こすか、その別れ目にきていることの、兆候が、この国内情報統制だ。
民衆は真実を知らされなくなるのではなく、情報を信用しなくなるだけだが、物理抑圧の強化が増す。
暴力装置の露出は、残虐を生み出すが統治技術の弱体化の現れでもある。
社会主義理念なき、ソ連復回妄想になっているゆえ、もう何でもしでかしうる閾に入った。
事実がへしまげられていく次元は、超えた。抑圧のみが作用する。
他方、統治しない統治による「ヨーロッパの均衡」は幻影とされた、この軍事侵略に、NATO官僚軍事は何も出来ないで、ジョージアのような国をサポートすると、またジョージアをウクライナ化するような仕方になって、フィンランドやスウェーデンがNATOへの加盟を申請してきたと、成果のようにボケている。
世界戦争状態へ、状況は配備されているだけだ。
ロシアは皮肉にも、かつてのロシア革命前夜の状況になってきている。
国内にレーニンやトロツキーのような革命家がいないだけだが、何かが必然に燻っていく。
ロシアを守る正当性などが、どこにもない政治状況ゆえ(ツアー体制より貧弱)、プーチンはひたすら外国=ヨーロッパ侵攻をエスカレートするしかない。核抑止の政治=軍事能力がNATOにないことが、露出したからだ。冷戦的抑止均衡はなくなった。
ロシア軍も脆いが、NATOも脆い。武器のみが先端技術化しているゆえ、愚行同士の悲惨な戦いになっていく。
政治情勢は、世界戦争か国内革命かの典型的な次元に入っている。
つまり、10日間で、ウクライナ問題ではない次元へ実際的に転化した。
ウクライナに凝縮されている政治=軍事の諸関係総体であるためだ。
大衆的熱狂の支持のないヒトラー=プーチンとなった。個人意志からではない、状況構造がそうなっていく。
もう国内の式典にもプーチンは出席できない。身辺警護が強化されていることは、もう危険であるからだ。密室に隠れていることしかできなくなっている。象徴的権力表象の表出である。プーチン暗殺も起きかねない。
ゼレンスキーへの暗殺計画は、3度あったというが、その情報はロシア内から通報された。ウクライナ侵攻を納得していない人たちがロシア内のあちこちにいる。
「ウクライナが勝利する、プーチン政権体制が倒壊する」、国家権力構造内で収まるものはこれしか道はないが、それがなされないなら、世界戦争状態がやってくる。皮肉にも、そうなる危機を抑制できるかどうかは、中国にかかってくる。USA指導の時代の終焉の始まりになる。中国がそれができないなら、ロシアと同じ行動をとる。
いずれも、地獄への道だ。国家政治の世界秩序構造であるかぎりそうなる。
世界の平和を願う声、その良識に見合う国家政治になっていない、政治指導者たちの低知性の政治資本による世界秩序の瓦解・・・・。
私は静かに笛を吹いている、自己技術だけ・・・・の不可能性の穴にいる。
]]>
ウクライナの国連大使は、ウクライナが敗北すればヨーロッパが瓦解し、国連も瓦解する旨の発言をして、世界の支援を求めた。
ロシア国連大使は、ウクライナ南部のロシア人、親ロの民衆への虐殺がなされている、それを保護するためだ、とウクライナの非武装化・武力解除を求めるキエフ侵攻を正当化した。
ここに、
*「ヨーロッパの均衡」の世界秩序と、
*「帝国」の世界秩序との、
統治合理性とその統治技術との差異がはっきりと出ている。
物理的構成と国家資本構成と幻想構成との統御(統治)の組立の違いである。
現、国際世界の政治リーダーたち、国家統治者たちが、東も西も政治理性として「真理の権力」に無知であることの露出なのだが、身を賭して戦うウクライナ人リーダーたちの政治理性は、必然に実践的に本質存在的となっていく。
ましてや、日本のテレビで語る大学人たちの無教養さには、呆れ果てるほかないが、それもまた実際現実である。
世界秩序がいかなる原理で成り立っているか。
国家とはいかなるものであるのか。
国家権力とはどのように究極化されるか。軍事権力との関係を含む。
国家/国家権力と統治性・統治技術はいかに関わるか。
経済秩序は、国家間均衡・交通といかに統治関係するか。
この少なくとも5点が、ウクライナ・ロシア戦争に対して、何もわかられていないという感想をもつ。
つまり、国家権力という権力集中化の様態は、国家それ自体ではなく、ある究極的な極限状態であって、権力諸関係の支えがあってこそ成り立つという基本であり、さらに統治技術は国家の外部に疎外されており、「国家の統治制化」は、「統治制の国家化」ではないということの認識が基本である。さらに、国家への統合は、国家資本の集中化であり、共同幻想の国家化なくしてありえないという近代民族国家の基本構造である。
国家とは、叡智性の原理にたつ戦略的形式であるのだ。
それが、プーチンによって、「国家が怪物である」という古典的・レーニン的な国家暴力装置として出現したことで、何を政治理性はなすべきかが問われている。
国家権力論は単純である。権力所有者が軍隊・警察の暴力装置を持って、国民を支配抑圧する。その権力を奪取することが革命だというものだ。統治性の概念も権力関係の概念も幻想概念も、また国家理性の歴史的省察もない。
だが、このウクライナ侵攻において、プーチンは丸出しの国家権力所有行使を「帝国」の秩序において、発動させた。
それは、ウクライナを同一民族だと設定し、帝国に制限をもうけた「ヨーロッパの国家間均衡」の世界秩序を解体再編する戦略意図でなされている、血迷った「国家の叡智性の規整化」理念妄想である。大ロシア帝国とソ連「帝国」の二重化された幻想=妄想から行使されている国家権力所有者妄想の独裁行動だ。ウクライナを「従属・隷属」させることが、ロシアの救済、さらに新世界秩序だと妄想している、他者の欲望の軍事行動である。ロシア国内の、共同幻想化も社会合意構成もない、むしろ国民・兵士を欺いての、政治無能者の「振る舞い」である。ただの、バカだが、取り巻きの権力関係に支えられた、秘密政治結社が、核武力を有する国軍軍隊を掌握していることにおいて可能となっている、恐怖政治の疑似統治である。
権力所有者であるという妄想とソ連幻影とから、国家化された「他者欲望」を正当化しての、冷酷な武力「権力」行使である。
それを可能にさせてしまったのは、「ヨーロッパの均衡」の世界秩序の規則化であり、その機能停止の露呈である。
軍事力による戦争侵略、国家破壊、国連憲章違反なのに、なんの軍事=政治対応もできない、国連、NATO、EUとなってしまっている。
諸国家が、競合関係に入る上で、自国が敵国を挑発することなしに、国力を増強させ最大化し、他国の機動性・野心・増強・強化を可能な限り制限する、そういう安全システムを作ること、それが帝国の夢と教会の普遍主義とに変わる、「固有の政治の自己目的・自己肯定を主張しうる諸国家の併存」、つまり「ヨーロッパの均衡」の秩序である。
つまり、「ヨーロッパ」とは、
?普遍主義的な召命を持たない、普遍性のない地理上の区わけへの制限、
?ある国家に他の国家が従属して帝国の階層的形式となるのではなく、複数の国家の存立、
?諸国家が一つにならず、小国も大国もそれぞれ共存する水準の違いの尊重、
?世界との関係で経済支配・植民地化、通商の利用関係を保持する、というもの。
そして、「均衡・バランス」とは、
?最強の国家であっても他の国家に自分の法を押し付けない、相互の隔たりが保たれる、
?互いの平等の維持、平等主義的な貴族性。
?小さな諸力の連合が、最強のものたちの力を制限、等しくし、最強のものたちに抗して脆弱なものたちが結びつく、
ということ。
(拙書「ミシェル・フーコーの統治性と国家論」より)
これが17世紀以来、国家理性次元から、小国が多様の存立協調できるヨーロッパを形成してきた基盤にあるもので、帝国と小国との抗争を経ながら、さらに世界大戦において「帝国」の支配を回避し、EUにまで至っているものなのだが、形骸化、規則化してしまい、不安定で脆弱な世界平和として、相対的平和、平和の複数性、国家の複数性からの平和、を期待し、自国の増強が他国の破滅にならない「安全」を確保する目標と据えられたものである。
つまり民族国家間の均衡を維持する「平和と戦争」が、ヨーロッパの安全システムであり、それに社会主義国も後発開発諸国も従ってきた世界秩序である。これは外交と永続的軍事配備によって保証される、そこに自国を知り、他国を知る、知っていることを隠す情報装置が配備される。
軍事・外交・安全の国家間政治である。
アメリカの帝国も力を失い、ソ連の社会主義帝国は解体し、中国が今、帝国力を形成してきた。
その中で、疎外されてきたプーチンが、このヨーロッパ的均衡の世界秩序を、組み替えんとしているのだが、ソ連=大ロシアの「帝国」の復権と、ヨーロッパ均衡の解体としてだ。
ウクライナは属領地であって国家ではない、まして対等交渉などあり得ないという、プーチンの専横主義である。
それには、世界大戦を勃発させても構わない、ということだ。(つまり、もうロシアは解体していることの現れ。)
ウクライナを機にして、それをはからないと、プーチンが描くロシアは存立しない。
勘違いしているのは、「ヨーロッパの均衡」原理でもって、物事がすむと思いこんでいる、NATO /西側の暗黙の傲慢さである。無意識に、ヨーロッパが最強なものとしての普遍主義に陥っていることに気づいていないことが、今回露呈したことである。
戦争はノー、人殺しはノー、の人類叡智を、それは守れなくなって、ただ民衆の善意のデモの声に押しこめ、さらに軍事と外交を、ウクライナに押し付けて、背面での経済制裁で、均衡を保てると思いこんで、軍事侵攻への軍事=政治の履行ができなくなっている。
ヨーロッパの均衡は、「統治しない統治」という妥当な統治を、規則化したままで、「統治技術なきゆえ支配強化、侵略する」プーチンの国家権力所有の暴力装置使用を、抑えられなくなっている。
それが、ウクライナでは武力衝突がなされているのに、国連総会で何十ケ国が数日演説しあって、またロシア外相が喋り始めたなら退席ということしかしない国連の形式となっているものだ。
国家権力の暴力装置の発動が、核武力を持って、帝国の物理的支配確立を成そうとしている、その国家暴力露出へ、政治=軍事対応できなくなっている「均衡」である。
安全システムが壊されたのに、わからなくなって、直接軍事干渉しなければ、均衡は取り戻せるとしている規則政治に堕しているのだ。核抑止を使っての軍事支援ができない、及び腰の無能さの根底には、国家の叡智性原理の不在があるためだ。
こうした「ヨーロッパの均衡」の圏域的問題は、しかし、世界秩序の指導原理にもなっているがゆえ、ウクライナ・ロシアの局地問題ではない、なのに、旧態と同じことしかしていない。
今回のウクライナ侵攻は、世界戦争を起こしかねない武力行使であり、世界秩序瓦解を招くものである。
国家はたえず考慮・維持されねば「一瞬たりとも」存続し得ない、統治を具体的かつ反省的に省察し続けねば国家は何も維持されない、ということが、西側でなされえなくなっている。諸国家間の均衡の複数性にあれば平和があるという国家の永久化の原理に対して、プーチンさらに中国の恒久平和は「帝国の中」にあるという原理が、社会主義幻影を持って対等対抗していることへ、不能になってきている、そういう危機である。
自国内国民や自国軍兵士を欺いて支配しているプーチン独裁を、軍事=政治対抗できない、国家間均衡は、帝国によって瓦解させられる。自ら痛みを被る経済制裁などからの効果を待っている状況にはない。
キエフ陥落後の内戦状態は、さらに世界戦争の危機を招くだけになっていく。
まず、何より今は、ロシア封鎖ではない、プーチン独裁打倒の、国家権力へ極端化されたその次元でのくい止めに失敗したなら、取り返しのつかない、惨劇を招く。規則政治の外交なき外交をやっている事態ではない。非ヨーロッパでの局地戦争を、ただ国家間均衡保存としてやっていただけの状況ではない、ヨーロッパの真っ只中で、ヨーロッパ均衡の瓦解が起き、国連の真っ只中で国連憲章が踏みにじられた、その暴挙を制圧できないで、もはや平和はない。だらしない、西側政治リーダーたちの政治資本の脆弱さである。
日本の国家は、叡智性の原理もなく、ただ経験主義的な効果と憲法改正いじくり次元で、驚くべき低政治資本での政治をなしている。
あっというまに、帝国によって、崩壊させられてしまう弱体国家水準にしかない。国家増強することではない、国家資本の組み替えをせねばならないのだが。。。。。私の国家論5部作の先をいく議論、考察がなされねばならないのに。。。。。
]]>
日本のロシア大使館は、「事実として、日本は100年も経たぬ間に二度もナチス政権を支持する挙に出ました。かつてはヒトラー政権を、そして今回はウクライナ政権を支持したのです。」、とプロパガンダにもならない妄言をtwitter公表した。
このツイッター、凄まじい低知性から日本語で主張されている代物だ。
ウクライナの知性に比して、ロシア指導者たちの低知性はひどいものだ。
日本は、軍国主義、ファシズムの歴史を反省し、批判し、なんとか自由主義の道を開いてきた。
だが、安楽の全体主義は、消費社会の拡大の中で蠢いているのも事実である。
企業組織に、スターリニズム的組織経営がなされてもいる。
ファシズム、社会主義、民主主義は円環する危険に常にあるのも、国家統治支配が本質的に社会機能しているからだ。
であるがゆえ、このウクライナ侵攻に対して、論点をぼかしてはならない。
目指すことは、国家権力所有の集中化を極限的になしている「プーチン独裁の打倒」である。
ロシアとプーチンとを切り離さねばならない。
ロシア軍部・警察など、武力装置を権力所有していると思い込まれている、その妄想をプーチン失脚としてなすあらゆる手段を政治行使することだ。
プーチン取り巻きの権力関係は、もろく瓦解するが、それゆえプーチンにしがみつき、同じ妄想認識をし初めている、そのケースの一つの現れが日本ロシア大使館の公表見解である。無知は蔓延る。
スターリン体制がそうだった。ブハーリンたちを責めた言動の愚行を見るがいい、自分たちは正義だと信じている妄想からの粛清裁判である。
プーチンは、世界からの孤立を恐れていない。むしろ、自分の思うようになれる絶好の機会としか認識していない。
権力所有が自らにあると妄想した「独裁」は、なんでもできると錯乱していく。
核戦力部隊を発動させたのは、もはや脅しではない、ウクライナに勝てないとやりかねない。
ロシアと中国、北朝鮮以外は、彼にとって全て敵である。
敵に対しては何をしてもいい、という前提にもう立っている。西側にミサイルをぶち込むより、日本にぶち込んだ方が効果的だと考えているとみてもいいほどに。
ロシア大使は、「制裁しないでくれ」ではない、日本へ対抗報復するぞと脅している。
ロシア兵が、プーチンに騙された、と言い始めているが、もうそんなことはお構いなし、言うことを聞かない兵士は切り捨てろとなっているし、戦争反対の声をあげているロシア民衆は逮捕し、粛清する。そこへもうきている。
国外も自国内も、自分にイエスマンにならない者は全て敵なのだ。
そこまできているがゆえ、中立的だったフィンランドもスウェーデンも、ウクライナ支援の動きをとり、また、永世中立国スイスさえ異例のプーチン資産凍結制裁に踏み込んだ。すぐ止めないと最悪事態になることの現れだ。
もう、プーチンはナチス及びスターリンと全く同質である。ヒトラーほど大衆的熱狂の支持を得ていないが、ただソ連覇権ファシズム=大ロシアに取り憑かれた妄想男になっている。
独裁者たちがプーチンを支持する、ベラルーシ、ブラジルなど。
国家権力があるとする究極形態だけでない、個人独裁権力があると信じ込んだ妄想は、溶けない。
企業組織体にワンマン社長があちこちにいると思うが、そこへ何を言ってもわかられないよう、もっと大きな国家帝国規模で妄想に取り憑かれた独裁者は、自分が何をしているかまったくわからなくなっている、確信犯になる。
内的な不安が、それを正当化する。NATOがロシアを攻めてくる、消費的快楽にロシアが堕落する、自分の経済政策が息詰まった、ロシア民衆が離れていく、などの「不安」はロシアの弱体化を招くという不安として疎外され、それを防ぐのだと正当化される。
不安は部分対象を、全体対象だと誤認する。南部のロシア人保護を、首都キエフ武力侵攻へと切り替える。
不安は原因ではない、力が失墜するその地点で全能をでっち上げて妄想する。
そして不安は制御不能となり、全てが命令の強迫神経症的徴候となる。
そして、アングロサクソンを敵視し、西欧の分断をはかれると妄想する。
経済制裁は、その不安を正しかったと保証するものとして解される。それみたことか、ロシア人の暮らしを破壊し、ロシア経済を破綻させた西側ナチスだと、妄言を吐き始める、それが日本ロシア大使館の言動にもうなっている。日本人がそんな愚言に惑わされうると思っている、公式機関が病理になっている。
埴谷雄高のスターリン論があるが、スターリンの孤独と不安の心理を実によく描いているが、今のプーチンはまさにそのものだ。
自分の行動は、無知な大衆を救ってやるのだと思い込まれている。ロシアのためだと思いこんでいる。ナショナリズムにも愛国主義にもなっていない、独裁者の不安からの欲望妄想である。他者設定の欲望であるゆえ、自己撞着であると微塵も思っていない。
国連ロシア大使も、命令を受けたロシア軍指導者も、少しも自信ある誇りをもった態度ではない。仕方なく、おどおどしながら命令従属して、誰も納得しない正当性主張している。間違いをもっとも知る裸の王様は、間違いの容認を自分でできなくなる、裸であることを知っているのに絶対に認めなくなる。
戦線にあるロシア兵は、素手で立ち塞がるウクライナの村人に、攻撃をすることができずに戦車を停止させているよう、自分たちの軍事行動に納得いっていない。
反乱軍に分裂したとき、いやそこまで行かず命令拒否の軍隊が一部出現しただけで、プーチン独裁は瓦解する。そこまで、物理暴力に傾斜した究極事態になっている。
このままでは、核ボタンは押されうる。第三次世界大戦の危機は、目前にあるが、ただプーチン一人の犯行である。この妄想は社会構造化されていない、個人権力妄想でしかない。
社会空間や国家空間、そして外交規範性など、一般を語る論述にはなんの意味もない次元へ、もうきてしまっている。
唯一、プーチン失脚以外に、この危機を回避する道はない次元へ至っている。
世界の原理は、根底から転換せざるを得ない閾へきているが、
その原理は、新著で示したが、プーチン構想とはまったく対抗的に逆立する。
国家資本の組み替え、そして市場の転換、それを構成しないと、ロシア・中国の市場圏域構成が世界市場分断的になされての帝国新秩序に崩壊的にいくほかなくなる。市場は震源地になるからだ。
サハリンからシェルは即刻撤退したが、日本企業はまだオタオタと自社利益しか考えていない、そういう他律エネルギー依存の企業のあり方はもう市場機能しなくなる。経済が政治に従属するのではない、経済が自律政治を自らできるようになることだ。アップルもGoogleなども、企業体として経済の政治倫理判断をしている、こういう次元へ世界は入っているのだ。(ディズニーは昔から反ナチスの政治行動をとっていたが、チリ・アジェンデ社会主義政権に対してはピノチェット側に立つ、ネオ帝国主義の政治的行動をとった。)
広く、読んで欲しい基礎考察である。
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本格的に国家をしっかりと考えたい人は、
国家は複雑であり、国家権力所有などに構造化されていない。
なのに、権力所有者妄想に取り憑かれたプーチンの馬鹿さ加減は、ほんとに何をしでかすかわからない究極的国家権力=帝国権力の存在となっている。
]]>もはやウクライナ一国の問題ではなくなってきた。
考え方を、整理しておかないと、恣意性のおしゃべりか大学人の不能化された理解しかなされない。
古典的な認識世界と、新たな激変した状況への認識をめぐって、思考の自己技術を定めておきたい。
1)ロシアとウクライナの関係:ロシアへのウクライナ人たちの嫌悪の歴史根拠
何よりもロシア革命後の、ウクライナ・ロシア戦争。ドイツがウクライナに加担したゆえ、ここを第二次大戦のナチス包囲とを混在させて、プーチン妄想が構成される。
●1917〜21年のウクライナ・ロシア戦争:赤軍と白軍:ウクライナが反革命側の動きをなし、ドイツ・オーストリアの援護を受け、レーニン・ソビエトと闘う。10人に1人が死んだとされる。
●スターリン支配時代の社会主義支配下。1921ー2年飢饉が起き、ついで1932−33年の大飢饉を、2006年ウクライナ政府は、ジェノサイドと認定した。400万人〜1000万人が死した。(ウクライナの農民の存在は、レーニン労農同盟論の根拠であり、かつその破綻としてのスターリン虐殺)。
●1941年、ナチス軍がキエフ包囲、スターリン・ソ連赤軍は敗退。ウクライナ人800万人〜1400万人が死んだとされる。キエフ攻防があったおかげで、ナチスのモスクワ攻撃が遅れなされず、スターリンによる巻き返しがなされえた。
この3つの大きな出来事は、社会主義をめぐる内戦、侵入の混在であり、ウクライナ人には、外部圧力からもたらされる惨劇として記憶されており、ソ連崩壊後の独立で、ようやく自由になれた、という実感にある。
さかのぼり、18〜19C初頭、ウクライナ語形成など、民族主義的文化の高揚。
さかのぼり、17C、コサック国家がウクライナに作られ、ウクライナ・ロシア戦争勃発。
が起きている(wikipedia知識次元)。
ヨーロッパの「帝国」の攻防の中で、ウクライナも内紛を重ねつつ、国家形成をロシア帝国の下でなしていくが、常に抑圧・支配されていた。
実に複雑な、状態にある。nation形成が容易になされるような、エスニック状態にない。
他方、ヨーロッパは、帝国拡張から脱すべく、国家間均衡のヨーロッパ秩序の近代国家を形成していく。
プーチンが言うような、兄弟民族ではない。ただの覇権主義者の妄想言であるが、ロシアに痛めつけられてきたことだけは事実である。
そして、近代尺度に治るような実状にはない。西側の帝国と東側の帝国との板挟みでの混乱状態。
ウクライナ人の情緒・情感には、ロシア憎悪は、かつて支配されたポーランドやオーストリアやドイツに対するよりも強固である。
2)ウクライナの政情不安定:民族国家の限界と享楽
初めてウクライナへ行ったのは、ソ連崩壊後。私の初めての旧社会主義国の実体験。社会主義の実情を見たいと、チェコのプラハ、モスクワ、そしてモルドバを、ベトナム、中国(上海、香港)とともに見ていく、10年ほどの旅経験。
自分の社会主義研究から得た認識は間違っていないどころか、実情は、想像以上に何もない「社会主義世界」であった。これが、資本主義と対抗していたなど、あまりに隔絶していた。
キエフ空港についてまず、驚愕。一体どこの貧しい国かという、メキシコ以下の実感。
キエフの街は、死んだような暗い雰囲気。何十年も前かのようなひからびた路面電車。一番高級ホテルに泊まるも、殺風景。
このキエフが、何度も訪れていくうちに、どんどん消費社会化していく。若い友人たちは、新たなアパートを買い始めていく。ソ連時代の親たちからの離脱だ。ブランド店が進出してくる。日本の寿司店も開かれるが、日本人ではない。
だが、内部政情は、親ロシア派と親西側とが対立、不安定状態の中で、ロシアの嫌がらせがなされることも、さらに明らかになり、オレンジ革命、そして2014年の内乱的なマイダン革命、そしてクリミア危機、東部紛争・戦争状態へといく。
大統領がロシアに毒をもられ、スイスで治療、などの事件も起きる。
2014年の時点で、ウクライナを離れた知人もいるが、消費者化は止まらない。
社会主義が間違いであることの実感と、同時に、この社会主義国に対しての消費的安楽主義は、快楽を招きはするが、享楽生存にはなり得ないという、私の確信だ。
宝石、金融、スーパーマーケット(モルドバ人がキエフの最高級スーパーを経営。ジュネーブのモルドバ大使館に呼ばれ日本との協力ビジネスを頼まれる)、シャワートイレ、ファッション、などを媒介にして、それを痛感する。若い彼らは貪欲に挑戦して行ったが、浮き沈みの目まぐるしさであった。そこへの、微かなサポートだったが。もっと、泥臭い事態があるが、公には語れない。
社会主義的享楽と資本主義的享楽の差異を、自覚、認識した。
民族的問題は、人種、宗教、経済利益など、総体が絡んでの混乱にある。
キエフは、ギリシャ正教会。聖人たちのミイラが陳列されている。モスクワ、レーニン廟のレーニン・ミイラは、そこからきている。
3)ばかプーチンは何をしようとしているのか:国家権力所有の妄想亡霊の瓦解
⑴社会主義公正原理の喪失のソ連幻影
ソ連崩壊は、東欧の民主化と同じく、「社会主義原理」の崩壊である。社会主義統治の瓦解であるが、「覇権主義」の幻影が残存しているのがロシア。スタリニズムの残滓。社会主義は、真正原理をもたない資本主義に対して、「公正」原理を供してきたが、それが虚構であることが、東欧の民主化の中で露呈してしまった。所詮、独裁者政権にしかならない、その体現が現ベラルーシ。
そして、サンクトペテルブルグ以西の、リトアニア、エストニア、ラトビア、黒海以東のグルジアやカザフスタンなど、独立国の発展は、ロシア社会の羨望になっていく、その最先端がウクライナだ。ロシア人も欧米諸国や日本を知っていく。
ロシア農村部は何も知らないなどの問題ではない。情報はどんどん入っていく、いかに統制されていようとも。また、その農村の遅れはウクライナに比して相当なもの。
東欧崩壊は、電波が届く範囲で、車のエンジンから電気を取って、西欧のテレビを見ていた欲望的享楽、そしてF1を東欧で開催。欲望快楽からうごかしていったことである。
この資本主義的享楽の快楽・欲望が、プーチン的支配を脅かす。プーチンによる経済発展など、大したことではいことが露呈されてしまう。社会主義残像をおったままの経済発展恩恵など、末端民衆には届かない。
これがプーチンには止められない、民衆からなされていく最大脅威だ。
そこで、ウクライナ内情勢の民族対立をいいことに、NATOのだら官僚ぶりにつけ込んで、今回の侵攻になっている。
社会主義理念は、プーチンにはない、ただのソ連威光幻影妄想があるだけだ。ソ連解体で、周辺が明らかにソ連統治状態より良くなっている、そこへの脅威が、妄想転化されての狂信的武力侵攻にでた。
国家間均衡のヨーロッパ政治などに価値を見ていないプーチンの策謀政治が、ウクライナ内ロシア人を救うなどの擬装で、自己権力保守のために発動された。
⑵ウクライナ危機のロシア新革命への転化
現在、プーチンへの国家権力の集中化の極端状況として追い込まれている。つまり、無いものが有るという幻影下の物理的な暴力装置状態に追い込まれている。ここは、レーニン国家権力論の世界である。
この究極状態では、プーチン失脚以外に、道はない。ケレンスキー的状態だ。
それは二つ。
国内での民衆及び良識勇敢政治家たちの反乱と何らかの形での権力奪取。国家のイデオロギー装置に関わる権力関係での転換。政治資本上での闘争。
軍隊の分裂的作用による、国家暴力装置の転換。プーチンに納得していない軍の動きが起きうるか否かだ。軍事資本上での闘争、警察暴力装置も関わる。大量のロシア兵犠牲者に対して、軍も国民もプーチンを容認しなくなることの可能性である。
つまり、ロシア内の革命状況化である。ソ連崩壊時の再来だし、ロシア革命時の再来でもある、状況になった、とみなす。もはや選挙という次元にはない。ウクライナのロシア国情への転化が起きる。
古典的政治形態状況だが、解決にはならないが、それしかない閾にきている。レーニンのいう弱い環、それがウクライナである。もはや、レーニン時のような社会主義正義の後ろ盾がないから、ロシア国民の支持は得られない、プーチン独裁権力の打倒に不可避になる。
つまり、統治技術の一番弱い状況を招いているゆえ、強権統治になっているに過ぎない。戦争反対のロシア国民を逮捕しているプーチン政権へと落下している。この負の作用は、正当性が機能しなくなっているからだ。ソ連崩壊時、東ドイツの崩壊時を見てみればいい、驚くほど脆い。
プーチン批判は命懸けの恐ろしいことだ、の次元を超えた、プーチン体制従属の方がもっと恐ろしいことだへと転嫁してきている。
経済制裁で、ロシア国民を貧しさに追いやり、不平を煽るなど、ボケたことを言われるほど、ロシア国民は無能ではない。
社会主義建設時には、イデオロギー装置作りが5年以上かけてなされる。プーチンに、イデオロギー装置形成はない。臆病な権力従属者の取り巻きとKGB的な秘密体制と、独裁幻影・妄想しかない。軍隊掌握がまだあるゆえ、強権発動しえているだけ。
ドル体制から脱出、エネルギ供給による経済浸透などの準備形成で、一部資本家たちが利益をえているだけで、末端民衆には届いていない経済下部構造の形成にはっていないが、中国との市場再編にはなっている。
4)NATOおよび西側のだらしなさ:軍事と核抑止
ソ連崩壊後、独立した諸国はワルシャワ条約から脱して、NATO加盟へ。しかし軍事対立の構造は、旧態の冷戦状態のまま。
NATOは、いい気になって、旧態の構図のままに拡大を無責任になした。相手側が、危機を感じていることを、了解した政治=軍事を何もできていない。ウクライナは、社会主義防衛のため、いちばん核を保有していた国だ。それが、西側につくことでの、ロシア=プーチンの自己保守意識を、なんら理解できていない。
そして、ウクライナ侵攻において、自らの核抑止政治を何も使えず、プーチンのナスがママにさせているだらしなさ。軍事は政治だ、その政治的軍事の無能さの露呈。
5)国連の無意味さ:国家間均衡の世界秩序の瓦解
安保理の議長国が、国連憲章を破り、拒否権発動するという、横暴さを許している国連の無力さが、極限的に露出した。
ジュネーブに、国際連盟の記念場があり、歴史記念碑になっているが、国連の場所も、いずれそうなるであろう。
世界各地での紛争に、無力の国連。
幾度も戦争の愚行があるたびに、無効さを露呈してきた国連は、ついに究極にまできたのは、ヨーロッパ統治そのものの国家間均衡原理そのものが無視されたからだ。
緊急国連総会が招集されているが、ことの次第では、ロシアは離脱するかもしれないのも、侮辱を浴びせかけられるのは必須だからだ。国家威信を確保できなくなる、国家権力所有妄想にあるプーチンならしでかしかねない。核戦争の、脅威に入るのを意味するが。もし、離脱しないなら、もうプーチン独裁の敗北の始まりの兆しとなる。
6)中国の出方:共産圏の再編成
侵攻数日前、中国はウクライナ主権を擁護し、プーチンへの牽制をなしたが、無視された。
ばか・プーチンによって、中国の覇権主義は、その正当性の筋を再修正せざるを得なくなっているはずだ。
既存のままでは、かつてアメリカ帝国主義が世界的に批判されたように、中国<帝国>主義批判が世界世論で起きる。まだ、少数民族の人権問題次元の非難だが、帝国主義批判となると社会主義理念が危うくなる。習近平の掲げる世界の指導国とはならない。
ロシアは、もう喪失している。北朝鮮はただあがいている。キューバは、徐々に解体しつつある、カストロ亡き後の弟ラウル議長が亡くなったなら多分、一挙に崩れよう。
ロシア支持すれば、中国の孤立は深まるか、あるいは、これを機に、全く異なる共産圏の経済圏・政治圏・軍事圏の分断編制に入るかだ。
中ソ対立さえ、あったことだが、社会主義理念をめぐっての対立であった。一方に、もう理念がないのだから、どうなるのか。中国理念さえ、内部的崩壊が見えている。
7)経済制裁と世界市場
経済制裁は、低開発的国に対しての一定度の有効性であって、ロシアに有効ではないどころか、西側も害を被る。経済圏の分裂が冷戦時のようにあと戻りするだけで、ソ連体制を回復させたいプーチンにはもってこいでしかない。
1ぶき業態などが崩壊し、国民生活が貧しくなっていくだけで、プーチンには自己正当性を図る絶好のことにしかならない。
経済は、貧しくなるだけの話で、なされているのは武力侵略だ、双方の殺戮である。
武力侵攻のマターは経済マターではない、全く勘違いしている西側諸国。
やっと武器援助を表明したが、誰がどこへ持っていくのか?
プーチンの個人資産凍結など、なんの意味もない。賃労働給与官僚たちは、資産規模への認識すらない。1400億円の豪邸に住むプーチンだ。世界市場は緊密な直接性になっているが、遮断されたところで大したことにならない。一部の損害が出、経済総体の退化が起きるに過ぎない。
エネルギーなど、他律エネルギー時代の限界などとうにわかっていることなのに利権で温存されていただけだ。
自生エネルギーの時代へ行くことでしかないのに、また原発頼りなどの利権確保がうろつく。
しかも、金融体制など9.11で解体している、それが露呈するだけのことだ。
グローバル世界経済の組み替えが始まるべきで、その土台は場所生存の環境経済でしかない。
商品の多数など、無くなったところで大したことではない。基本スタッフをしっかり場所確保する時代へのシフトである。
少なくともこの七つの次元を混同してはならない。
相互作用的に、ウクライナ侵攻を機に、一挙に作用していく。
「今そこにある危機・2033年」というドラマを、スターチャンネルでやっているが、それは「ウクライナ難民」への対応から始まる。予想されていたことだったのだ。
政治的自律性は、どこで動かすことか。
天安門事件のとき、私は上海の留学生K君の立場に立つ、客観世界情勢分析など一切意味がない、社会主義革命の誤りはもうとうに実証済みだったのだが、どこか後ろ髪を引かれていたマルクス主義も誤りだと、態度を決めた。
事態の本質を見る努力はするが、あくまで、ウクライナの友人たちの立場に立ってである。
キエフで、彼らは銃をとり戦っている。そしてその家族は、田園地域へと避難している。国境までは行かれない。国境を越えれたのは40万人ぐらいでしかない、あと多くは国内に止まったままである。
武力侵攻は、殺戮をうむだけだ。
]]>プラハ侵攻の時は、あっという間にソ連戦車が入り込んだが、今度はそうはいかないようだ。
キエフの街中を大きな幅広い川が流れているのだが(かつて大きな遊覧船を借り切って日本のトイレ会社幹部たちを、ウクライナ友人たちと歓待した。シャワートイレがウクライナに入っていくきっかけを作った平和な時)、そこにかかる橋を爆破して、戦車が合流できないようにするのかもしれない(CNNもそう語っていたが)。
前ウクライナ大統領も、防弾服、ヘルメットを送ってくれとユーロニュースで呼びかけている。
ロシア人民衆たちも抗議デモを始めて、戦争反対の声をあげている。
ロシア軍が分裂し、侵攻拒否をするのを望む。いかに軍隊といえ、この愚行に納得はしていない兵士たちが必ずいる。その時、プーチンは失脚する。
チャウシェスク共産主義独裁を倒したルーマニ人はウクライナ人避難者たちを受け入れている。ポーランドも。
他方、ベラルーシ共産主義独裁はロシアをサポートしている。
戦争侵略を社会主義・共産主義の亡霊たちがなしているのは、はっきりしていることだ。
軍事には軍事でしか対抗できない、NATOのだらしなさ、旧態のまま膠着化して、ただ圏域拡大していた官僚的軍事。そこをつけ込まれた。
このウクライナ侵攻を容認したなら、世界はカオスに入る。
社会主義国の亡霊が生み出している侵攻であるが、それはもうファシズム権力になっている、これを制御することだ。
義勇軍の名で、即刻、援軍を送るべき。
国家政治側はプーチン以上に、今こそ核抑止力政治を行使すること。これがなせないなら、ほんとに国家間均衡の時代は終わったのを意味する。
第三次世界大戦の危険が、愚行から起きかねない。それでは遅いどころか、国家統治機能が揺れているのだから、ただ混沌となる。
このウクライナ侵攻は、バカ・プーチンによる偽装チェチェン侵攻制圧(5ヶ月かかっている)、クリミア略奪とは違う。世界諸関係が絡んでいる。
1917ー21年のソ連・ウクライナ戦争の再来か。ウクライナの10人に1人が死んだ。レーニンも誤ったのだ。
17世紀から何度も続いている、ウクライナ・ロシア戦争。その歴史記憶は消えていない。
だが、世界関係はより緊密になっている。1国問題で終わらない。
経済制裁など、こちら側も損害を被る、時間もかかる愚かな策だ。
SWIFTからのロシア銀行放逐も部分ダメージしかならない。
起きているのは、「軍事」侵攻・侵略である。何を西側は勘違いしているのか。経済のマターではない。
軍事は政治である、それができていない西側。
NATOのだらしなさである。
外交政治は、各国のロシア大使一人だけ(家族や職員は残していい)、を全て即刻、放逐退去させること。
政治は、プーチンを孤立させるべく、ロシアを分裂させるプロパガンダをなし続けること。
でないと、ほんとにUSAで民主党のだらしなさに対して、トランプ復活が起きてしまう。ファシズムを支えるのは大衆心理である。
すると、ロシア、中国、USAの「帝国」復活になってしまい、民族国家間均衡は国際秩序として完全崩壊する。EU国際官僚では対応できなくなる。
つまり、国家権力所有していると欲望「妄想」に入っているバカ・プーチンを孤立させ、止めるだけで、それを支えている権力諸関係は崩壊する。
スターリン体制を瓦解させ、ソ連体制を瓦解させたロシアはある。
ロシア革命時でさえ、赤軍と白軍が内戦した(マルクス主義者たちは赤軍正義を称揚し続けたが、ウクライナの大作家ブルガーコフは「白衛軍」の小説を書いている)。
不徹底だから、プーチンなるものを復活させたに過ぎない。ロシアは一枚岩ではない。
モスクワに行った時、あちこちに社会主義の雰囲気が残っていた。他者性を容認しない、威圧的な雰囲気である。
空港がそうだし、ターミナル移動でも恐怖的威圧を変えるし、レsyトランやホテルでさえ。
ウクライナのように、そうした社会主義的専横は消滅させていかねばならない。
考えが違うではない、間違ったことをしていることは確かであるし、ロシア人たちも半数はその自由を重視し始めている。
それが、プーチンに最大の恐怖なのだ。
社会主義の亡霊が、故郷喪失愛を妄想し、血迷っている「ウラジミール」プーチンだが、その武力制圧妄想を許容するウクライナでは、もはやない。
民衆のほとんどは、戦争を望んでいないが、ただの消費安楽主義は、不安への統御を喪失するため、戦争による侵入を許してしまう自覚はもつべき。
政治理念は、「帝国化」阻止を狙った、ヨーロッパの民族国家nation-states間均衡の19世紀政治に代わって、また国連の今回もの無効性を露出した20世紀の国家連合United Nationsに代わって、場所間交通連合の政治統治に移行していくことだが、資本経済がしっかりしないとありえない。
nationの次元を突き抜けていくことなのだが・・・・。
ドラッカーでさえ気付いていたことである。
むしろ、マルクス主義の方が国家を前提にし、保守的である。
近代民族国家は主語制の統合によって成立している。客観性がそれを支える。
この国家資本統御を述語制へ組み換えることが移行過程になる。
もう、真剣に、知的資本として取り組むべき、政治資本形成に入るべきだと思う。
情緒資本は、そこにおいて稼働させること、nationにおいての情緒資本はただ排他的ナショナリズムを生み出す。
戦争反対もいれば、賛成する人もいるが、戦争によって幸せになる人など、一人もいないことだけは真実だ。
(2月27日、12時)
]]>主体化された幻影は、妄想になって、このウルトラバカは、自由をネオナチと呼び、ロシア兵に立ち塞がる婦人たちのパワーに、女・子供を盾にするなと、民衆存在を何一つわかってない、ほんとの馬鹿だ。
(メキシコのチアパスで、政府軍の戦車をストップさせたのは、チアパスの婦人たちだった。兵士にお前たちにも家族がいるだろう、攻めるなとストップさせ、お腹が空いたろうとご飯まであげた。戦車兵士たちは、攻めることも命令で退却もできずに、村境で滞留した。他方、チリ、ピノチェット・クーデターに対して、夫を返せ息子を返せと、放水車を浴びせられながらも「グラシアス・ア・ラ・ビーダ」の歌を歌いながら、ずぶ濡れで抵抗したのも婦人たちだった。)
馬鹿にバカだアホ、だと言ってもなんの意味もないが、そこまでバカだプーチンは、レニングラード大学の大卒知性のウルトラバカがそこにいる。
バカにばかとしかいうことができない、こちらの無力さもあるが、もうここまできたなら、バカと言い続けるしかない。
あと、数時間で、キエフに戦車が入る。自分ならどうするかを、イメージしている・・・・・
ロシア国民たちよ怒れ、すでに、反対の声をあげ、数千人がロシアでも拘束され始めているが、こんなソ連=ナチス亡霊バカは、スターリン以上のことを今後ロシア民衆に対してもおっぱじめる。いや、もういくつもしてきた。
「権力所有がある」と妄想する、独裁者たちは、ただ権力関係に支えられているだけだが、ピラミッド的組織構造のヒエラルキー関係が必然にもたらすものであり、国家とはなんであり、国民・民衆とはなんであり、政治とはなんであるかもわかっていない、無知主体のバカが大統領になっている。
EUはプーチンと外相の資産凍結を決定したが、資産の大きさも知らない賃労働者官僚が、やっていることでしかない。スイスはEUに入っていない、ケイマンやセイシェルなど、ロシア系は島へ資産を保持している。西側も大卒知性で抗しているにすぎない。プーチンは少しも困らない、資産の一部がなくなるだけだ。
ウクライナ侵攻と同時に、プーチン体制の崩壊も表象してきたのを意味する、ウクライナがロシアの「弱い環」になった。
傀儡政権が出来ても、ウクライナ軍は従わない、ロシア兵駐在となって、またモスクワでは、かつてのようなテロが起きていく。
だだっぴろい、隙間だらけの都市構造である。他の民族も、抵抗を初めていくであろう。支配抑圧する統治は、抵抗を強化していくだけになる。
ロシア国内も不安定になっていく。ロシアも分裂していく。
国家<内>国家の瓦解である。
国連で、国連憲章を破った国が、拒否権を持つなど、国家<間>均衡の外交政治も終わった。
20世紀的政治構造の終焉が、相対的に露出し始めている。
「政治資本」を組み替える段階に世界は入った。
ここは、数歩後退して、知的資本としての、国家・政治を論じていかざるを得なくなった。
でないと、マルクス主義の亡霊が、これをいいことに進出し始めてくる。不毛なことだが、対決はなす、仕方ない。
経済を政治に従属させたり、経済を決定土台にしたりする誤認が、またはびこってくる。
歴史哲学に依拠する知的亡霊たちだ。
(2月26日12時記)
]]>国家は非常に重層的な複雑な体系で、国家権力など一部です。
ただ、(国家)権力所有を容認する権力諸関係が構成されます。
ウクライナ南東部独立に、イエスかノーかと幹部を集めプーチンが公開演出しましたが、「ノー」と言えない権力関係を作ります。しかし、権力諸関係には抵抗の穴があり、モスクワやあちこちで反戦争・反プーチンのロシア民衆の動きがなされるよう、半分近くは反・プーチン体制です。絶対に。ですから、プーチンは必死。国家的共同幻想も脆弱だからです。
国家は、分割して統合するという立体支配をする。つまり、トーラスを無理矢理立方体化しますから、社会主義国は抑圧の技術しか取れない。権力所有者がいるかのような偽装を構造化します。ここが欲望構造の国家化=主体化。
媒介に「社会」(非利益の利益の市場)を使います(生産諸手段の国有化などは典型。ウクライナでさえも未だ農村にはコルホーズの構造がとられたまま。貧しい農家でしたが家の前の土地で、向こうの果てが見えない、百万円で買ってくれないかと言われました。農薬で、草一本生えていません)。
社会主義国統治に、統治技術はないに等しい未熟ですから、抑圧支配しかできないだけ。
西側がなすべきプロパガンダは、プーチン独裁を批判し、ロシア民衆は戦争など望んでないだろう、プーチンを倒せと、分割すべき。「ロシア」丸ごと批判していたなら効果ない。
ウクライナは「統治しない統治技術」という最良の国家統治状態になってますから、親ロシア派をひっくり返したオレンジ革命(何やってんの?と聞いたなら、「遊んでるよ」と言っていた、のんびりさ)後とくに、うまく行っていた、キエフなどモスクワより消費者化されていく、それがプーチンには恐怖だったこと。ロシア体制は必然に瓦解しますから。
地下鉄に逃げ込んだ住民たちが、昨日はこんなふうになるとは思っていなかったと泣きながら話していましたが、「非統治の統治」のウクライナであった。ソ連から解放され、のんびりしていられたのです。
基本、チェコ侵攻でも、武器を持たない住民への直接射撃を戦車はしない。威圧支配です。ソ連戦車の上に若者が抗議で乗ったりしています。しかし攻撃されたなら容赦無く射撃します。学生数人が死んだ、それはプラハ大通りの素朴な記念碑になって、今も飾られています。
そして、必ずのように誤射が起きるし、意図的に誤射を装った破壊射撃をしたりする。軍の傲慢さ。
ソ連亡霊に取り憑かれ、再現しているプーチンです。
銃撃戦は、単発的にしかおきえない、全然ウクライナには体勢がとられてない、銃を渡すから参加してくれなんて。
抵抗の虚しさですが、抵抗し続ける、悲劇になる。
民兵形成には数年を要する。スイスみたいに国民皆兵制で常態化していない限り、永世中立はありえないし、勝てない。
親ロシアの傀儡政権が、暫時的に作られ、いずれそれも崩壊しますが、お決まりパターンになっていく。国家政治の歴史悲劇です。
NATO、G7の経済制裁など、既存国家社会にたったままの、無効の手段です。海外の金持ち資産を凍結されて困るような金持ちはいない。金持ちのスケールが違う。銀行閉鎖したって、お金は別筋で動きうる。経済統治も、わかってない西側です。しかも中国とロシアで、市場は成立してしまう。
軍事戦略という愚行は、社会主義国がいちばん長けている、常に防衛してきたからです。
そして、軍事は軍事でしか対応できない「政治」です、もっとも愚かな人間の愚行ですから、すべきはNATO軍は、核戦争を起こさせないウクライナ侵攻を抑止的になすべき。
一方は勝手に入ってきているのに、NATO加盟国でないから侵攻しないと規則政治しかできない。その政治力がない、ゆえ、プーチンごときの小賢しさ、しかし周到な準備につけ込まれた。
ここが不可能の可能閾で、外交統治技術の至上命題になる。最悪は最善になる統治技術ですが、最善が最悪になることしかできない統治技術に、自由主義国側もなってます。核抑止も使えない不能が、核を有している。
国家間均衡政治の無能さが露出した。
社会主義はほんとに間違いです。歴史の害悪です。社会主義的性格の亡霊が、今回の武力侵攻に現れている。
しかし、資本主義的享楽が、商品・労働の組織構造に転じられている水準では、こうして<社会>主義につけ込まれる。真正原理を有していないからです。
企業組織体でも、起きています、独裁社長の仕方で、同質次元で。冷たい、無味乾燥の空間にしかならない。朝、皆で集まって、「今日も売り上げ頑張ろう」なんて、プーチン的体制です。自由なウクライナ的なものを見つけるとつぶしている。
「資本」が喪失していると、こういう統治技術マネジメントのない支配状態に不可避になります。
ホロニックに構造化されているものです。
それにしてもソ連解体しても、スターリン的な同じものが残滓し続けている。
中国とロシアの帝国が解体しない限り、未来はない、と言っている間に、次期はトランプ再選でUSAもそうなりかねない。資本者を労働者に転じている社会的労働経済が生み出しているものです。日本の平均年収は433万円です、ひどい<社会>主義。
国家は、統治を意識的になしたとき、愚行さを露出する、日本のコロナ禍統治で出ているように。
統治しない統治技術がいちばん正しい統治マネジメントですが、場所が自律していないとなされない。
イノベーションの今度の小生新書は、こういう射程まで入ってのことなんですが・・・・・安楽の社会主義も滅びますので・・・。
(2月25日11時記)
]]>
ロシアには、誰もいない。
これは、民族差からきている。
ウクライナ人は、のんびりしている、穏やか。そして、文化度が高い。スポーツレベルも。
ブルガーコフなる大作家もいた。
ロシア人は、冷たい(白人系)。広大な領土で、東の方は、日本人と変わらない黄色人系の感じ、飛行機内で話しかけられ、こちらがロシア語をわからず、相手側もびっくりしていたぐらい、似ている。
モスクワしか行ったことがないが、道を歩いていても恐怖を感じる。警察か兵士かわからないが、クレムリンへ行く途中で、パスポートを要求され、尋問されるかのような威圧的態度だ。レーニン廟では、並べ!、線から出るな!、しゃべるな!、ささっと歩け!と、おそろしい。
一度破壊されたらしいスターリン像には花束がいっぱいだった。
何よる、スターリン様式の建築ビルが不気味だ。
クレジット・カードナンバーを盗み取られたのもモスクワであった。
ウクライナには、何度も行っている。シャワートイレを入れようということで、INAXの幹部の人たちを、ウクライナの友人たちと招いて船を借り切り接待したこともある。
ウクライナ料理は美味しい。ボリシチなどは、ロシアよりウクライナの方がうまい。
レーニン像を、ウクライナ人は倒したりしなかった。だが、ロシアへの不信感は強力である。歴史的に散々な目に遭っているからだ。それがとうとう、ここまで来た。
最初、ウクライナに行った時は、チェコのプラハもそうだったが、なんにもなかった。
それが数年で、一挙に西欧化し、消費者化していき、ブランド店などがあっという間に、キエフもプラハもできていった。
友人は、キエフに、スイス資本の宝石店を開いた。
その後、オレンジ革命。
そして、NATOへの接近。
ロシアは、自国の資本主義的快楽の欲望の侵略に恐怖を持っているのであろう。軍事ではない、内部からあっという間に瓦解してしまうからだ。
ガスを止められ、どうしているのかと聞いたなら、夜は皆外に出て焚き火していたという。
のんびりさの現れだ。
東南部では戦争しているというのに、のんびりとしたまま首都は繁栄していった。
プーチンの脅威は、そうした、西欧的享楽の進出に対してであろう。この欲望には勝てない、という。
核までちらつかせて、侵攻している。
よう、シャアシャアと、自分がナチス並みなのに、ウクライナをナチス化だなど平然でいう。
知性落下の典型ゆえ、恐ろしい。
このバカ、歴史に侵略者の名を刻もうと必死なようだが、いつしか、かつてのチリのピノチェのように、失墜後、国際裁判にかけられるであろうが、ばかにつける薬はない。
ジュネーブに住んでいたアパートには核シェルターがあった。スイス人は、ロシア人を全く信用していない。
チェコ侵略以上のことをしでかすようだが、一歩間違えば、核戦争も起きかねない、NATOのだらしなさだ。
戦争ごっこをまだし続ける、世界の国家指導者たちの愚行が、あちこちで起き始めている。
局地紛争は、耐えることがなかった21世紀。
中国の台湾侵攻も時間の問題に見えてきた。
資本主義的享楽は、社会主義的享楽に勝利しているが、こういう愚行を許してしまう次元でしかない、欲望へ転じてしまっている限界にある。ヨーロッパの統治均衡論理は、もう機能しなくなっている。
世界原理の転換の緊急時期に入った。
国家均衡の時代が終わっていることの兆候である。
資本主義は、自ら、国家原理・社会原理・商品原理を、場所原理・資本経済原理・環境原理へとシフトしていかないと、社会主義の亡霊が「脱成長コミュニズムだ」などとスターリニズムで、日本でも低知性ではびこっていく。
商品経済・労働経済は「社会主義」ならざる、イデオロギーなき「社会」イズムで、socialismと同質である。
労働力能ではない、文化資本の自己技術力が自分の働く基本なのだ。
新著を書いた。
2月20日、刊行。1430円。
購入は、https://bookehesc.base.shop/items/59041515
こういうイノベーション設計をしていかないと、組織管理マネジメントのままの構造に、横暴独裁的な社会主義が忍び込む。
知的資本が低すぎるからだ。
そして、社会主義は絶対的に間違いである。実証研究して、大学院時代に確信をもち、ソ連崩壊後の、プラハやキエフを見て実感もしている。
キエフの友人たちよ、負けるな!チェコのように耐えても、必ず、ロシア侵攻で傀儡政権が建てられようが、崩壊していく。
ロシア内部崩壊も時間の問題でしかないことの、今回の侵攻である。
独裁政権は、必ず歴史的に瓦解する。
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ある意味、わたしは、アカデミズムや知識界に対して、完全に近く距離をとり、自分がしたいことの世界を自在に作り表現してきた。
日本において他者が、理解できるとは思えないほど、日本の低水準に迎合対応する気がなかったことだが、世界では常識的な当たり前の次元に遅れをとりたくなかったからだ。一時は、日本語での表現はやめようかと思ったが、日本言語の論理的なすごさに気づき、わかられなくともいくところまで行こうと決断した。
文化生産としての研究生産、研究生産としての文化生産の基盤システムは、とうに作っていたため、300という数がある限り、浸食はなされないとふんでじっくりやっていたのだが、その数さえ危なくなってきた流通状態に、非常に危機を感じた。
わたしの本は、なんとか300はいく基盤があったのだが、私が尊敬評価する他者の書がそうならない事態が起き、わたし自身のものも浸食作用を受けていく雰囲気を感じた。これは、知的環境の完全な危機である。
数年前、尊敬する建築家・山本理顕さんの「パブリック」論は、わたしのいう「場所」のパブリック論を建築の方から開削していたもので、共有場はアーレント。その出版記念の場で、建築家の難波和彦氏とおしゃべりしていた時、氏から、私の書(国家論)がますます読者を切り捨てていくなと指摘された。そして、理顕さんは、他の愚鈍な建築家が「場所」を論じているためか、頑として「地域主義」を主張され「場所」概念を取ろうとされない、同じことを対象的につめていながら共有されない、この事態にも、自分の至らなさだけでなく、知的市場の退廃をひどく感じた。
私の「ソーシャル」批判とそれに代わる「場所」のパブリック論は、すでに「哲学の政治 政治の哲学」で開示していたもので、これが全くに普及の回路を日本で有していないことに、ある恐怖さえ感じた出来事である。
世界知が、日本で文化市場を持ち得ていないのだ。セネットやゴメスのパブリック論が、「公共」概念へ転倒されて翻訳されている頽落は、放置できない「社会」全体主義化への恐怖を感じる。「公的」はソーシャル=社会への対抗軸であるが、「公共」はソーシャルなものへの合一化でしかない。この自覚のなさは、決定的な社会設計の全体主義化があちこちで機能しているのを意味する。その認識すらないということの「不在」が、「場所」を消滅させる国家作用になっている国家資本の壁だ。ブルデューの国家論さえ読まれ得ていない日本の知的停滞は、恐怖ものである。それは吉本「共同幻想論」の了解さえなされていないのを意味する。まして、「国つ神」など完全に非在化されてしまっている。
すると、ボルタンスキーの「シテ」論が訳者たちによって「市民体」とソーシャル認識へと誤認され、メキシコのアウスティンの「カルプリ」など読まれるはずもない。ゴドリエの人類学もいつの間にか放置されたままになっている。
世界で、地理学、都市論、社会学、政治学、文学、美術などで膨大に問題にされてきたPlace論の、全くの不在というか、無知の日本文化市場だ。そこで、上田閑照の「場所」を読むと、とんでもない「私」をめぐる人格的な上っ面の西田解釈になっている。パリの浅利誠氏が指摘するよう、西田場所論はコプラの普遍形式を転じる潜勢力を有しているのにだ。
場所規準や「資本」規準を持ってくると、何事も理解されていない次元が明証に浮上してくる。
ここがないと、「述語制」はただの構文問題であるかのような、言語理論にもなっていない文法論が普遍様式で闊歩することになる。
この閉塞包囲を突き破らないと、何事も開かれない。
これは、基本的、基礎的な入口がないからだと気づき、「知の新書」の刊行に踏み切った。
印刷費が非常に廉価になっていることで、経済的にも可能である条件があった。
この新たな出立において、私は思考の向こう側にある「情緒資本」に手をつける回路をとった。
すでに、感情史・感性史などで社会史・文化史が欧米では探究されていることであるが、もう一つは、自分で残したままになっている文学理論である。おりしも、鈴木貞美さんから声がけされ、文学へ踏み出すことにした。
これは「哲学する日本」で、第4巻目に構想していたもので、そこへいくには「述語制言語論」を通過していないと不可能ゆえ、回り道していた対象である。
手元には、emotion/feeling/gust/sensationなど、準備していた多数の文献があり、そこへようやく切り込んでいくことだ。
こうした作業を成すとき、もうとっくに処理していたいろんなことがあり、その棄却の根拠、それはまた自分が明らかにしていない規範規準支点であるが、そこを示しておかねばならないというのが、私の「知の新書」での作業になる。
それだけで、私としては10冊以上のプランがあるのだが、そこをやってしまうと山本新書になってしまうので、抑制しながら、もっと多くの他者の参画を促すことを現時点でやっている。
自分としては、とりあえず、二つ新書を出した。
一つは、資本経済へのイントロ。もう一つは、販促をかねた007論という遊び。
それを自分で為しながら、他者の書と自分の著書の新書化(これはフランスの仕方の模倣)で、総計、15冊を作った。
経費節減のため、全部自分でやった。毎月の刊行をとりあえずやった。
今年は、総体で30冊になるまでやりきり、これを新たな知的環境の「入り口」の母体にする。
そこから、ようやく始まるのだと思う。
自分で書くのは、
*イノベーション論
*場所論
*マルクス論
*大学院設計論
*ホスピタリティ論
*吉本隆明論
ボルタンスキー論
などであろうか。抑制を、少し外す。遊びも息抜きでやる。
印税を少しでも払えるよう、流通を開かないと他の著者がアクションできない。この課題だけが、disblingをこちらに強いてくる。
なんとか入口が機能できる出口を開きたい。
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1)日販・トーハン自体の取次体制において、公正取引違反に匹敵する排他的独占支配の横行が起きていること
2)日本書籍出版協会が主張する再版制度・委託制度が、現場現実を見ずに、1)の流通独占排他を支え共謀していること
3)出版社が、そこに忍従して支えていることから「売れる本作り」へ凋落(かつて払った名目・保証金などの支払いを継承者たちが認識さえしていない)
4)書店が依存共犯していること(自分たちで、書籍洗濯ができなくなっている)
を見てきた。
そこに、さらに、著者の問題を指摘しておきたい。
著者は、原稿をあずければ、あとは知らぬふり。「本を出してくれて、ありがとう」とボケている。
「何様のつもりか」である。
流通への無関心、売れるか否かは、知ったことかの態度である。
いや、売れないのは、出版社の責任だと、無意識に意識している。
要するに、出版状態、知的環境への、無知と無関心である。
わたしは、最初から、出版社から実情を学んでいた。
どうやって活字が組まれ、どうやって注文が来て、どうやって売れていくのか、最後まで、教えてもらってきた。
活版がなくなって、新たなシステムになってきた状態の変化も知っている。
そして、流通で、鈴木書店や地方小出版が、日販・トーハンに対抗して新たな流通を作ろうとして努力してきたが、崩壊していったことも知っている。
実際にいくつも出版企画をなし、それがどうした効果を生み出してきたかも、常に注意してきた。
わたしは自分の本に対して結果までを見込み、内容を落とさずに出版社側に、損を出さない努力もしてきた。
つまり、「結果」の最後にまで、責任をもって関与してきた。
その総体として、まず、出版生産において、学者自身が出版・編集をなしていかないと然るべき質をキープしたものは作れない。
出版社の「流通独占支配」が生み出す「売れる本」しか作らないという、この仕方に対して、いかに少部数であろうとも損を出さずに刊行できる仕組みを作った。
そして、今、新書生産によって、普及に関わる流通の問題に与して、流通次元で試行錯誤をしている。
先ほども、ダイレクトメール、400通を書店宛に送付してきたが、こういう作業も著者が自分でするようにならない限り、本は売れない。
読者が読まないのではない、読者に届かない仕組みになってしまっている関係構成を、変えていかねばならない。
baseshopは、その一つの仕方だが、はっきりしたことは、価格の問題ではなく、著者が直接に関係者や読者に働きかけない限り売れない=普及しないということだ。
ほっといてしかるべく最低限のものが戻ってくるのは吉本隆明本だけである。
わたしの本は、5〜7年かけて元が戻せる。
だが、著者は、「教師」であるものが圧倒的であり、それは賃労働者として、何から何まで事務職員がやってくれているため、何にもしないかつ何もできない、という状態に置かれている。税金まで、事務職がやってくれている。
「社会人」でありながら、社会的タスクを自分でしない不能状態になっている。
その日常的態度は、意識されないまま、子供や学生たちに日々対応しながら、伝播されている。
それは、「最後の結果にまで責任を持たない」という、根源的な失格である。
自分のことが、「よそごと」になる仕方である。
「俺は、いい本を書いた。」「偉いんだ。」「下々のことは、他者がやること、俺がすることではない」という態度が確定されている。
こういう態度が、日販やトーハンの傲慢な規則支配態度を生み出している原因の一つである。
「原発を電気供給のために作ってやった、その爆発は俺の責任ではない、津波のせいだ」うんぬん、という態度とおんなじである。
本制作には印刷代・製本代などの基本的なコストがかかる。レイアウトにも。
そもそも、もはや、レイアウトへの関心もない、他人任せの態度からして、失格だ。
わたしは、最初からデザイナーたちと話しながら、書を作ってきた、新しいタイプの書籍刊行をやってきた。「プラグを抜く」シリーズ、「actes」シリーズなど。
全くの不能者に、なっている著者たち。
これも、知的環境劣化を生み出している大きな要因である。
出版社が、甘ったれを許している。
「結果に責任を持たない」・・・・これが、学校教師、大学教師たちの日々なしていることで、学生や子供の面倒の他律関与に、自分が問題にならぬようにはするが、自分で自分のことを生産する知的生産への結果に責任を持たない、この自己技術不能が、知的環境劣化の、取次、書籍協会、出版社、書店に次ぐ、5番目の主要因である。
ひょっとすると、最大原因であるといってもいい。
その結果、印税さえ出なくなっている。そこまで、落下した。流通独占支配が、浸透しているからだ。
全部、初源に戻って、立て直ししていかねばならない。
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書店での陳列販売など、一部でしかなされない。数店舗と言っていいくらいである。
立ち読み風景は、理想的な様態である、しかし、本自体が届けられない実際にあることを見ていない。
価格の問題ではない、流通システムの問題であるからだ。
「価格」とは、流通経済のことではない、象徴的心性に関わることであって、安定価格などただの交換規制でしかない。
物質のことではないことがわかっていない。
要するに、価格統制しているだけでしかない。
わたしは、東京へ出かけた時は必ず書店へ行っていたのも、地方では本がないからだったが、今は、東京へ行っても本屋へ行かなくなった。上の光景などは、もう存在していないからだ。
パリには、まだ書店がなんとか機能しているが、ロンドンはそうではなくなってきてしまっている。
そして、日本ではもうアウト。ジュンク堂だけだ本屋といえるのは。
自分の地盤、足元をイノベーションしていないから、つけこまれる。
再版制度に便乗して、日販・トーハンの不公正な独占支配が可能になった。
書店はつぶれ、出版社は在庫を抱え、1000者を超える小出版社が呻吟し、読者には本など届いていない。
現場を真剣に見よ、日本書籍出版協会です。
何より、経済とはなんであるのかさえわかっていない協会だ。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14052188.html
コロナ禍状況の前であるが、初めての赤字らしい。一種の独占にあぐらをかいた放漫経営の現れである。
私から見て、良い兆候である。大手がつぶれない限り、何事も変わらないからだ。
だが巨大企業は「社会的に」雇用保証を正当化してつぶれないゆえ、さらに腐敗を蓄積していく。
会社がつぶれてはいけないというのは、良質の会社であって、アコギな売り上げだけが高い会社などは淘汰されてしかるべきだ。
出版流通網は、分配の政治の問題であって、経済ではない作用が働いている。
みせかけの現実性を因習として規範存続させる。
流通は環境の規整性を受ける領域なのだが、物流の物へ分離され、さらに情報流の記号だけに貶められてしまっている。
分配は、政治の最前線であり、統治がそこに作用する。
出版社は約3000社、書店は2万店から今や8000店ぐらいへ減少。
この間を、取次が結んでいるが、取次からの一方的配本であるため、書店がわは書籍を選択できなくなっているか、送られてきたものをそのまま突っ返す。
書店自体が、質的な自立選択をできなくなっている。
そもそも、出版社の怠慢によって、取次の寡占化は、完全な独占支配状態へと退化した。マネジメントができている編集者に1人たりとも会ったことがない。出版社社長でさえマネジメントスキルを有していない。ほんの一部しかいない。
マネジメント無知の著者と編集者とが共謀して、出版蓄積をなしてきた、必然の結果である。
60年代的組織マネジメントを成した出版社だけが、巨大化した。ドメスティック経営をソーシャル経営に転じた組織マネジメントだ。
知の質など理解していない編集者ばかりに年々なっていった。
アコギな取次が大成長した。
Amazonは、そこへつけ込んだ。
Amazonによって、しかし、配本状況は悪化こそすれ、よくはならない。別の寡占化が進むだけだ。
日販的取次のネット化への転化がなされるだけである。いやもっと劣化が起きるし、起きている。
古本売買に、印税を課さない限り、ただ儲けだけの悪質業者の中古本売買が、出版社や著者に関わりなく進んでいる。
自由市場のようでいて、AI統制されている、低次のロボット販売である。
価格を変動できない「再販制度」と委託販売(先取り収入を求める堕落出版)の穴につけ込まれたのだ。
新品本が、高価格で売られている。私の本など、すぐ2倍以上になる。価値ではない、儲けでなされているだけだ。なんの収入も、出版社や著者にない。こちらには、在庫が動かないまま累積していく。
Amazonが自由市場だと、ほとんどの人が思い込んでいる、その無知へつけ込んでいる。
日販とamazon、これが二大巨悪である。
これが、真の自由市場になっているなら、何も言わないが、自由市場では儲けられないのだ。
経済が歪んでいる典型であるが、いかなる業種においても、取次・問屋的な流通のシステム自体の根源的な問題である。
この媒介・迂回サイクルの因習から脱したところが、経済飛躍している。
このamazonの悪質状態のことは、内閣省のあるメンバーには、対処しろといっているのだが、官僚は本もろくに読んでいないから実感がない。
ここも、学者たちがだらしないから(教科書以外の本を出せている大学人が少ない)、わかっておらず、伝わっていない。
物流から情報流への転換の中で、本が売れなくなる状態は、知的資本が急速に低下するのを意味する。
知的環境の腐敗、知識産廃物状態である。
国家そのものの知的水準の劣化である。それは政治家たちの言動にはっきり出ているが、ともに経済人たちの、企業人やコンサルなどの知的劣化は、明らかに大学知性として大学の知的劣化が生み出している。
若い消費者たちも政治的抵抗すらできないし、していても政治的自律性からはるかの遠い。
子どもの親たちは、つまらぬ漫画と週刊誌しか眺めない。
結論は、単純である。書店と出版社が、直取引をすることだ。取次は、それを補助することにタスクがある。
知的資本の最低限量は、3000部だと私は見ている。それは、ある社会力を作用させる力である実感が、経験的にある。
良書は、この数を、知的資本の流通量として設定し、その可能状態を取り戻すことにある。
それが、実状300部も危うくなっている。
良書とは何か? 未来を知的・文化的に開いていく、その自己技術形成に役立つことだ。
物事を現前させ、可視化させ、触れられるようにし、操作可能にすべく、光を当てる書。
主体に欲望快楽を手に入れさせることだけに役立つような自己調整的な知識が市場に供されているだけになっている。
目先の効果だけを後付けで確認するだけの、どのように知が働くかを理解できないような、大学人のシニフィエの整理などは、良書ではない。大学教科書など、シニフィエ整理しているだけの最悪の知識、いわば擬似的「純粋客観」の書でしかない。自分の真理と他者の真理とが同じになることが真理=真実だとして、思考停止を招くだけのものだ。学校の教科書から、そういう同一のものを共有する訓練を受けている。
取次の数字至上主義が、それをさらに蔓延させる。人間は情報を取り扱う機会と類似しているとする認知主義の欺瞞を、文化市場化して、享楽の欠如を、充しえぬ欠如として生産されるだけの消費者として、欠如を幻影的に埋めるだけの存在にして、実は消費者を疲れ切っている即効性の満足に押し込めている。
すると、満足ではなく幸福だ、というアホなコンサルが幅をきかす。売り上げ至上主義から一歩も出ていない。
全ての人が同じものを同時に享楽するベストセラーに飛びつくだけの状態が典型だが、そこに押し込んでいるのだ。小さな書店にベストセラーものが届かないと、同一性になれないことへの不満が要求される。
マルクスも読んでいない五流学者の「人新世の資本論」などが波及する。いや、それはだめだ、こういう「資本論」や資本主義論を読めという場を、書店が作れない。私は「知の新書」「甦えれ 資本経済の力」で、資本主義論の基本書を上げておいたが、使えないのだ。見てさえいまい。資本主義は変貌こそすれ、本質は変わっていない。
考える「知の市場」とは真反対の知識環境の劣化状態になっている。
雑誌部門・コミック部門を単行本から分割すべきである。
欧米では、雑誌は新聞とともに、屋台的な路上ショップで売っている。回転が早いものだからだ。
この、雑誌部門と書籍部門が、日本では書店に合体しているのが、まず病巣である。月毎の回転と、ある長き回転時間を要する書籍とは別物である。つまり、流通回転時間が異なる。それを一緒くたにしているから、経済退化が起きる。
流通論もない流通になっているのだ。
漫画市場に、フランスなども覆われていったが、漫画特化店さえ日本ではつぶれていった。
単行本は、雑誌と漫画の回転時間に追いやられて、ひたすら縮小している。
私は漫画好きだが、私が求めるような漫画さえ、もう書店にはない。すると、amazonへとなってしまう。
漫画乱発・氾濫が、単行本市場を狂わせた。
雑誌は、路上ショップへ。
漫画は、amazonへ。
単行本は、書店へ。
これが健全な分割である。
漫画で、儲けようとするから落下する。
良書は、再販できなくなり、中古本としてamazonへ寡占化され、旧来の古本屋もたち行かなくなっていく。
これは自由市場競争の様態ではない、ただの寡占様態である。
市場が不健全になっている。寡占取次ぎシステムが招いた結果である。
2年たったなら、単行本の割引を可能にすべきだ。再販制度など害悪でしかない。
委託販売など、経済の転倒である。
新書を含み本は、直取引にしていくべきである。取次は、それをサポートすること。
書店の特化がなされるべきこと。
1位の紀伊國屋の売り上げは1000億円を超えている。異常だ。
ジュンク堂は400億円ぐらい、よくここまで来れたが、良書販売でもここまでいける証だ。これが、健全臨界点の目安であろう。
権威出版社だけ扱う紀伊國屋と、どんな小出版であれ「良書」なら扱うジュンク堂との対極的な違い!
だが、私の出版社のように小さなところは営業を雇う費用がない。そこで、今、小出版社の協働を呼びかけ始めてはいる。大手取次口座を持っていても、もう売れないからだ。自努力をしない限り、もう動かない。
そのためにも、日販解体は、不可避に要される。
トーハンに改善の可能性があるのかどうか? それも日販解体によって試されていこう。
それはさらに一極集中になるのではない、そうしたなら、日販と同じくつぶれていく。
根抵からのイノベーションをすべきである。
両者の売り上げ差額は、1000億円ある。
この1000億円が、揺らぎの場になる。市場的にはそうだが、商品市場のことでしかない。
市場は、経済範疇ではないことがわかられていない。それが、この知的資本市場を落下させている根拠であるのだが、おそらく誰も気づいていない。
今、私は「知の新書」を素材に、経済構成がどうあるべきなのかを、小さなことから一つ一つ検証している。
二年間で、回答を自らに出す。他人事ではないからだ。
いろんな人たちが、出版取次の理不尽さや問題を指摘するが、よそごとでしか言っていない。
中には、取次に原因を課すのはお門違いだという、お門違いの「書籍専門」大学教師までいる始末だ。
売れる本作りを推奨までしているから呆れる。ジュンク堂を見よ、ちゃんと良書を売っている。
商品は、流通が規定するのである。
活字離れなど、大学教師が招いていることだ。情報世界の問題ではない。
正味問題や返品率(平均30〜40%だが、単行本は70%を超えてきている)など細かい問題は多々あるのだが、日販が解体されない限り、治りもしない傷手当てをするだけにしかならない。
根本が、腐っているのだ。書店がそこに規制されていくほかなくなっている。
HHI(ハーフィンダール・ハーシュマン指数)というのがあるらしいが、公正取引委員会では1800以上で市場構造が高度に寡占的基準になっているのだが、2大大手で3303となっている。半分に割って、ギリギリまできているゆえ、独禁法にまだ引っかからない。
かつての統計で、
日販6327、トーハン5748、大阪屋1287、栗田503、億円だった。
この、3位、4位だった大阪屋・栗田がつぶれたのだから、流通の歪みは相当なものである。
こちらへの影響は、配本数が3分の1へと落下した。
一般論的に、取次解体とするのは、戦略的に意味ない。競合が、分割共存ではなく、首位でアコギな日販が解体することで、「人情のトーハン」と言われたそれが、イノベーションへと入ることから、取次の変革が始まりうる。競合併存するから類似化してしまう。ただ単体会社が潰れるのではなく、そういう「仕方」がつぶれることだ。
人情をなくすことではなく、それをホスピタリティ・オペレーションのマネジメントに転化していくことだ。
商品資本主義は「真正」原理を有していない。だから、儲け主義で寡占化する。
その元凶が日販である。その崩壊的臨界点に来てはいる。
産業社会経済(商品数字至上主義)は、統合に統合を重ねて寡占化し、臨界点を超え、不可避に社会利潤率の限界に突入していく(銀行統合がその典型、みずほの機械障害は、実際はお金がないのだ、だからおろせなくなる)。
社会市場の原理をわかっている企業がいるよう見えない。
単純である、社会画一市場の規模は、人口数以上にはないからだ。
そして、「質」というものは、数字ではない。同一性ではない。
つづく
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その兆候は、すでに、取次の独占状態において起きていたのだが、完全に崩れたと実感したのは2000年ぐらいからである。
Amazonの登場が決定的であった。
生産側ではない、流通側から雪崩くずれが起きていった。
これは知的腐敗環境を、現在、構造化してしまっている。
ハードな書が売れなくなり、知識の産業的廃棄物場に書店が落下している。
唯一、ジュンク堂が、そこに抗して「良書」を売ってくれているにすぎない。
売れないのではない、売ってくれている、その知的努力をしている。
例えば私のイリイチ論、ジュンク堂が60冊、紀伊國屋が18冊、三省堂が1冊です。
この差は、なんで出るのでしょう? 本の内容ではない物事が作用しているのを意味する。
かつては、三省堂でも、東京堂でもこちらに好意的に、書店員の方たちが売る努力をしてくれた。
書店崩壊は、すでに起きてはいたが、2003年のリブロの売却から、起きていったと言ってよいだろう。日販傘下への没落である。
かつて、リブロは、吉本さんの『試行』が印刷されると、その日に、吉本宅へ彼らは赴いて、それを書棚においた。
私が刊行した『actes』も、池袋リブロで、大きな棚をとって、関連書を並べて特集してくれた。それを見た堤清二さんが、私に連絡くれて、そこから、資生堂の福原義春さんや富士ゼロックスの小林陽太郎さんを紹介されて、私の研究所を立ち上げていくことにさえなった。
文化生産を、書店がなしていたのである。
そうした、担当者の方たちがいなくなって、一挙に、書店の質的落下が起きていく。(2015年リブロ池袋閉店。)
私の企画は、編集者たちの不勉強=無知状態に対して、創造的に作り出していったもので、新評論、ついで、新曜社の堀江社長や日本エディタースクールの吉田社長が、私を支えてくれた。
お二人が亡くなられて、私は、既存出版社には見切りをつけ、出版社を自分で立ち上げる。学者が、自分でしていかねば、風化が起きると実感したからだ。
そこで、突き当たったのが、流通である。書店への配本である。そのビジネスをなす、取次である。
日販に掛け合ったなら、いくら金を出せるか、とお金を出せという。
「はっ?」、こちらが書籍を提供してやるのに、金をだせ、なら口座を開いてやる、だ。
平然と、偉そうに、高飛車に対応してくる。「やってやるから、金をだせ」、これは泥棒だ! 公然詐取である。
日販の悪評は散々聞いていたが、配本の仕方の機械的なことへの批判かと思っていたがそうではない。
金銭主義で、知的世界は汚染されている。本の質的内容など、全く関係ない。
当時、書籍は、3000部以上行けば採算が利益をとれる水準だった。
私の書は、必ず、再販へ行った。つまり、3000部以上売れた。
ところが、自分で出版社を作り本を出すと、配本できるところがない。
そこにJRCがいた。小出版のための取次だ。刊行数が少ないこともあって、ここからスタートすることにしたが、300部配本が実状であった。そこで、300部でも印刷代が出るべく、価格単価をあげた。そうせざるを得ない。
最初は、読者から、高すぎるという不平が出たが、致し方ない。儲けは目論まないが、製作費が出なければ、回転できない。
流通状態に合わせて、生産体制を組み立てた。知的水準を落とさずに、刊行継続を図る経済土台である。
これで、20年何とかやってきたが、二年前ほどから、配本数が、250部、120部と急に落下してきた。
そして、鈴木書店(2001年)、大阪屋栗田とか、いくつかの取次店が皆つぶれていった。(その前に、地方小がつぶれたが、再建したようだ。)大阪屋は大手に組み込まれていく。鈴木書店メンバーはJRCを創設した(2003年)。
平凡社が縮小し(1981年)、河出書房休眠が新社(2007 年)となり、筑摩が再建(1978年会社更生法)とか、三一書房労働争議(1998年)とか、徳間書店の解体(2000年)、などあちこちで、崩壊現象が起きていた後のことだが。
大手出版社を除いて(大手でも角川書店や小学館など再編が起きていた)、2000年をはさんで、中堅どこのハードな人文・社会系は、崩壊していたといってよい。
私はともかく、いかにハード難解であろうと(しかし狭い専門主義は拒否し)、きちっとした書を刊行できる体制として、創造生産側として、1部でも成り立つ状態を作ることに専念した。これは作った。
つまり、取次がどうなろうと、かわりない単行本生産の基盤土台を私は作った。
こちらの質水準に対応できる出版社はもうない、ということからだ。
だがここで、学者たちの限界に直面する。大手出版で依存して出したい願望から彼らは脱せないのだ。部数が減っても、また絶版状態になっても、そこが出し続けてくれると思い込んでいる。実際は、売り切れてもうださないのに、文庫にしてくれるだろうと願望依存している、情けない。
吉本隆明さんだけが、まず賛同してくれた、「心的現象論・本論」をいただけた。私の1500ページの書と、それがスタートだった。
これが、Amazonで、中古本が高価で回転していく市場を支えている。学者たちが結果つくってしまっていると言っていい。
依存できることが権威だと錯覚している様態である。自分でしようとしない。何から何まで依存しかできない大学教師たちである。
一方、出版社はどんどんていたらくになっていく。
大学人知性それ自体が、専門細分化のなかでどんどん質的に落下していく。
つまり、日本の「知識市場」は、ひどい停滞、落下状態に覆われてしまった。
特に、人文・社会系の知識状態の落下は、悲惨だ。いくつかが、懸命に頑張っているが。
膨大な本が、書店を見てみればわかるだろうが、毎月生産されて氾濫している。
しかし、人文・社会系のコーナーはどんどん縮小している。ほとんどなくなっていると言ってもいい。
駄本新書が、代わって氾濫している。
印刷屋に聞いた、一体彼らは何部刷っているのかと、1万部以上だという。
私が生産の仕組みとして確認し得ていることは、300〜500部売れれば、製作費は出る。
つまり、それ以上は、売り上げ利益になる。人件費や設備費に回せる。純利益は、1000部以上から出る。
ぼろ儲け状態になっている。
この水準において、日販は独占体制を作っている。市場参入は、当然ではあるが、儲け主導だ。
総体としての、知的な低次元文化環境になっているのだ。
あるビジネス書の社長から言われた、「読者はバカだ、バカに向かって書け」と。
これが「売れる」秘訣の基盤である。
こんなことに、同調などできない。
だが、できないからそう言うんだろうとつまらぬ非難がくるから、ライターと一緒に、1万部売れる書は、二つ作ってはおいた。
あぶくのように売れて消えていく書だ。実際売れておしまい、とそうなった。
とんでもない次元に日本が来ているのを新ためて知って、私は入り口の指標になる、知的に高度なものを外さないでの「新書」による文化普及市場の拡大に、今年踏み込んだ。
そして、分配状態の大転換を起こさない限り、日本は知的に没落するという認識にいたった。
おりしも、政府が、分配に焦点をおく情宣をしている。それが多分に誤認からなされようと、戦略的に、ここを使うことだ。
分配の意味における象徴的闘争を組み立てることで、関心を促す。
それは、必要悪に成り下がっている、日販解体を宣していくことである。
分配は、統治性を規定する、政治は分配に関与する、経済ではない政治的権力支配になってしまっているのだ。
この日販独占配本状態(売り上げ5210億円、約1000億円減少している)は、権力分割しないと健全にならない。
日本が良くなるには、知的環境を高めること、それには日販解体が分配政治の権力分散化として不可避だ、といえる。
出版社は数千社ある。それらの自由度が、書店との関係を開かれるようにせねばならない。
少なくとも5極化から10極化ぐらいに、市場が多極分割されることだ。
大学解体も知的環境の高度化のために必要なことなのだが、これは不可能であるのも制度だからで、だがいずれ自然崩壊する。
日販は、知的市場を堕落させている自由市場経済における企業体による独占権力である。
60年代組織マネジメントの典型物で、他の企業のためにもその解体は、良き手本になるであろうが、何より、日本国民の知的向上の文化環境作りとしてなさねばならぬ、日本の責務である。
解体されるべき悪質な企業体というものがある。東電、大手銀行、そして日販が典型である。産業社会経済が不可避に生み出した、一種の独占体である。分配の独占構造になっている。
出版の落下は、日本だけの問題ではないのだが、日本のあり方をよくするために、はっきりと言っていかねばならない。
*著者が、原稿を書いて、あとは人任せで、ほっぽりだし。
*出版社が、「わかりやすく、やさしく」書けば売れると勘違いし、知的質を落下させ、自分を閉塞させている。
*取次が、日販の仕方に代わるものを生み出せていない。
*書店が、本を自分で選べなくなっている。規則従属で、書棚を維持している。
*読者が、安易な仕方で、物事を理解できると思っている。
これが多数を占めて、総体として知的環境が落下している。これは、物事が滅びゆく兆候である。
「安楽の全体主義」(藤田省三)の拡延である。
つづく
]]>
大学知に退化した、出版消費市場に対して、EHESC出版局は、1冊でも可能な出版生産を、形成してきました。
書店での氾濫する書籍において、当方の出版物は、大きな書店にしか置かれない。
本屋も本を売ってくれる場ではなくなってます。
地味に、着実に、意味ある本を生産し続けていくには、学者自身が出版マネジメントをなしていくほかありません。
試行錯誤しながら、使えるものとしてオンラインショップにて、カードなどの精算ができる場所を作りました。
当方の出版物は、古本で高価になっていますが、これもアマゾンの愚行の効果の現れです。
在庫は、たくさんありますが、市場へ出れない。
そこに、まず、風穴を開けます。
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送料も、流通市場席巻で、非常に高くなっています。それも、頒価との絡みで、抑えるようにしました。
交換価値化の方でなく、使用価値の有用性の方へ近づけるためです。
頒価も、割り引いていますのも、流通を通さないために可能なことです。
何もかもが、商品経済に包囲されていますが、少しでも、出口を開けられればという試みです。
をご覧ください。
]]>運用益、4.38%を目指すという。
運用責任者は、官僚出身のようだ。
できるわけがない。
基金とは資本である、資金ではない。この勘違いは、日本ではいくら言ってもわからない。
お金だけのマターではないということだ。
しかも、ソーシャルな商品運用するだけで、資本運用とは「プライベートなマター」でしか動かないことがわかっていない。
サラリーマン官僚が、なせることではない。
基本設計が最初から間違っている。
現在世界で、大学基金は、
ハーバードが、45023億円、スタンフォードが30470億円
オックスフォードが、8235億円
それに比し、東大が149億円、慶大が783億円、だ。
笑ってしまう、日本の幼稚さである。
わたしが、スイスのプライベートバンクと一緒に企画した学術ファンドが、100億円であった。
一つの小さな研究所である。国際学術財団としてジュネーブに登記した。
10名のメイン研究ディレクターに、100名の海外協力研究者が機能しうるよう作ったものだ。
文系としては十分で、1〜3%の、当時の安全運用であった。
それに比して、日本の大学基金の貧相さが推察できよう。
20億円は、基金になったが、バンク側が、後で知ったのだが、日本サイドとスイスサードとで、分裂しており、運用が不手際(こういうことも、こちらに関わりなく起きてしまう。簡単なことではないが、如何様にも構成できることでもある。)
そこに加え、金融情勢がどんどん悪化する世界状況もあり、9.11、リーマンショック、と、100億円まで行かなかったが、
ジュネーブの国際学術財団としては、2020年まで細々ながら維持できた。
そこへコロナ、海外へもいけない、くたびれてやめた。
この、わたしの動きを、日本の学者たちの誰一人理解できない。スイスからいろいろ教えられてできたことであるが。
閉鎖したから言えるのだが、遂行途上では、できる限り秘匿した。
余計なちょっかいを回避するためだ。
日本の研究費の劣悪状態は、およそ研究などできる環境ではない。ただ賃労働大学教師の生活保障があるだけだ。
なんとか打開しようと、スイスと組んでやったのだが、日本のファンドへの無知状態も絡み、驚愕的なビジネスしていない日本企業にも愕然とした。だから、劣悪なバンクに騙される、(クレディ・スイスだ、ここは個人運用連中が集まっているだけ。)
このとき、賃労働の社会保障体制があるだけで、資本世界が完全に不在になっているのを知った。
つまり、商品利子運用しているだけで、ビジョンも資本もない。
誰も、理解できない、ひどい状態である。
投資会社が、日本でもあちこちにあるにはあるが、商品金融しているだけで、資本金融できていない。
わたしから見て、ただ金儲けしている、利子産み資本へ転じられた、いかがわしきものでしかない。
他方、ベンチャー的に、たまたま稼いだ者が、馬鹿馬鹿しい金遣いをしている。
マネーが、資本として機能していないのだ。
スイスに、倫理ファンドというものもあったが、ファンド=資本の活用は、文化経済であり、文化資本がないとなせない。
わたしは、ただ恣意的に、資本経済を主張しているんではない。マルクスへのマルクス主義的誤認が、一般大学知となって、金融世界にも浸透し、こういう、ソーシャルなファンド形成の仕方になってしまうのが日本。
ソーシャルな正当化でしか日本では動かないのだが、それは資本ではない、社会市場上の商品ファンドである。
失敗するに決まっている、土台が間違っているからだ。
最初の利回りで、1兆円だという。東大の年間予算が、約800億円だから、その10倍以上のことがなしうるということになる。
(わたしの研究所の設計は、1センター、1研究ディレクター、1億円でトータルな研究生産をなす仕組みであったが、文系の話だ。)
だが、10兆円で、利回り4.38なら、4380億円である、2、3年のことで、1兆円作ったならそれで終わりというのか?
研究は、文系なら3年、理系なら10年以上かかるであろうが・・・・
そこからして、変だし、また研究なるものをわかっていない。一回きりのものにしかなっていない。
しかもそのソーシャル均等配分を、既存の予算配分と同じに官僚的になされるだけだろう、均等分配からはなんらの成果も産まない。
研究の意味や質の選択判別も、文化がないゆえできまい。
ソーシャルな「説明責任だ」などと、もう頭からひっくり返っている。
官僚とは、「利益を求めない利益」をなす本性にある。つまり、資本からは、真逆である。
狡猾な世界の手口に、つけ込まれる。(日本の銀行は、質屋商売次元から出ていない。)
資本は「利子」ではない、利子は商品マターでしかない。
資本は、利益など求めないのだ。世界への、人類への貢献を求める。
(それが軍事・戦争などへ歪曲されたりするゆえ、「平和」への強力なビジョンを意志せねばならない。ファシズム制圧の正当性で、原子爆弾が開発されてしまうのだ。)
冷静にファンドを見てみたまえ。
4.38%の利回りだが、その元の10兆円が、別のところで動いている。
それは、一体なんだ?!
雀の涙が、学術へ回されるだけでしかない。
元本確保? ありえない。損失する。
10兆円の1%で、1000億円である。
文化系なら、10億円で、一つの主題で、かなりのことができる。それをこのファンドは配分もしないだろうし、配分されたところで、動かせるマネジメント・キャパシティが大学人にはない。
1億円超えると、人間がおかしくなる実際も見てきた、とんでもない勘違いのことをし始める。
マネーとはなんであるのか、根本が、わかられていない文化土壌(お金は汚いものだ)が日本にはあり、そこに産業商品的仕方が乗っかるからだ。騙し物象化ビジネスしかしていないゆえ、社会主義的組織統治している日本である。
研究生産マネジメントをきちんと学者自身ができるようにならないと、学術の発展はありえないのだが、何もかも他人にやってもらっている大学人の賃労働無能さは、根本ができていない。自分がそうだったから、よくわかる。
スイスで、ほんとに学んだ。マネーは使うもの、貯めるものではない、その仕方だ。
建築家やデザイナーの、ほんの1部の学者ができているだけだ。
科学者の方は、もっと純朴。ノーベル賞受賞学者が、基礎研究が大事だ、1億円賞金をその支援に当てると、あまりに純朴に言っていたが、1億円など一人で1年で消えてしまう。何にもわかっていない。基礎研究が大事だとい言いながら、基礎研究にどれほどのの予算が必要なのかもわかっていないのだ。所有マネーだと勘違いしているからだ。
パリの社会科学高等研究院から教えられたこと、マネジメントは学者自身が自分で必ずすること。
そして、大学人の嫉妬には気をつけろ、であった。日本だけのことではない。
その長だった、マルク・オジェ(人類学者)が、わたしの研究所へ支援金を求めてきたことがある。わたしの動きは彼らには知られていた、日本ではまったくわかられていない。海外で、わたしは学術活動していた。
科学の重要性は、少しは気づいているかもしれないが、科学技術を運用する叡智は、文化である、哲学である。
それもないくせに、10兆円基金が、ハーバードやスタンフォードを超える、学術基金になるなどあり得ない。
しかも、官僚運用である、笑止千万とはこういう事態を言う。
資本は、本質的にプライベートなものだ。プライバシーではない、それがパブリックに機能してこそ、キープされる。
ソーシャルな仕方は絶対的に機能しない。
この違いは多局面で出現するが一番わかりやすい例を挙げると、パブリックな仕方は「法を使うこと」、ソーシャルな仕方は「法に従うこと」、これは全く違う仕方になる。
スイスを含め、今や金融資本はもう限界にあるのも、資本経済が国家経済次元を超えて機能しなくなっているためで、場所環境経済システムにならない限り、今後資本経済が働くことはない。
これも、市場とは経済範疇ではないことを忘却しているからで、市場調整機能など、現実に機能しないから、GAFAなどにいいようにされている。
利益というものは、利子産み資本の利子ではないのだ。
ファンド=基金=資本、とはマネーマターだけではなされない。
若い学者たちに、基本ノウハウを教えてやりたいが、誰も出てこない。年10万円の大学からの研究費、そこに自分のお小遣いお勉強で、十分なのだろう。生存生活は守られているから。
知の劣化は、国を滅ぼす。もうその閾に入ってしまっている、その典型事例が、この似非ファンドだ。
学術への供給より、管理運営でマネーが使われるのがおち。学術会議自体がそうなっている。
大学人が、自分たちでマネジメントしファンド運用しない限り、こういうことが起きていく。
学者たちが成熟しない限り、何をやってもだめだ。
お金が不足しているんではない。
マネジメントができない、予算依存消化しかできないという、学者たちの能力不足があるのだ。
土台、初発が間違っている。
]]>
彼らの、勝利は、大きく二つある。
メダルを取るということにおいて、
A)一つは、「国家を負って闘う」という態度や気持ち:柔道に典型(だが、井上監督によって回避されつつある)。テニス。
B)もう一つは、自分のなしている競技を極め高め、広めたいという態度や気持ち:卓球に典型だが、スケボーなどの新種目。
A)で、野球は、その国を背負うという転倒意識から、脱して、一つ一つ勝つ、その結果、AやBは付帯すると純真化されて優勝した。
サッカーは、Aの転倒で、メダルを取れずに敗北した。技術スキル純心であったなら、スペインにたいし勝っていたであろうが、ほんの一瞬で敗れた。
Aの転倒は、柔道のように、競技自体を歪めていくのだが、金メダルを取れないと「申し訳ない」という態度の転倒=義務感になる。だが、兄妹は「二人で金を」を優位化した。
テニスなど、世界大会が機能しているのに、オリンピックがわが名を使っている。無意味だ。錦織は、日本の国のためなどとやっている、転倒。
Aの他律優位の仕方で、自律性は萎縮する。
Bは、選手たちの自律性の表出だ。
Bは、楽しく、本気で闘っている。女子バスケがそうだった。不可能と言われていた金メダルへひたすら挑戦することで、決勝まで行ってしまった。USAの本気度に、紙一重で抜け出せない、それは真に技術の限界であって、国家など関係ない。
小さな日本人でも勝てる、というのは、自律性のスキルのことであって、ナショナルな民族性の問題ではない。
卓球は、中国に勝つということだが、日本国家のためではない、自分たちの力量として、能力としてであり、水谷はそこへ徹していたし、伊藤は何度も楽しむと自分へ言い聞かせていた。
スケボー女子は、あっけらかん。ただ、ただ好きで、努力してメダルへいたっていた。優勝したサクラは、協会ではない、地元の場所の人たちがサポートした。
オリンピックで不快なのは、国を背負っているんだというスポーツへの統治性を優位化させる亡霊が、まだ蠢いていることだ。
それは、もう、勝てない。
フィジーの7人制ラグビーは、国と言ってはいるが家族たちへである。冷たい国家のためではない。
男子体操も、このメンバー=団体を金メダルへ、という意志であり、もう日本国家のためではない、それは結果ついてくることを内村以後、浸透させている。
スポーツの自分たちのスキルで、メダルへ、という純真性は、見ていて気持ちがいい。
400m陸上リレーは、勘違いゆえ、ミスった。個々の100mのスキルであって、バトンタッチのテクニックの問題に転倒したものが行き着いた「ただ勝つ」という転倒が優先したからだ。
このAとBの違いが、かなりはっきりとした、今回のオリンピックであったと思う。
Bの個人力があるのに、Aを立ててしまった、バトミントンにはっきりと出た。ただ、混合の二人は、ひたすら二人の力を磨いてきた。
柔道団体はフランスに負けた。自分のことではない、作用が優位化したからだ。
女子ボクシングで優勝した彼女は、大学終えたならボクシングやめる、パリ大会など関係ないとあっさりしている。
こういうアマチュアリズムが、一方で大事だ。
野球は、高校野球の基礎をプロ選手たちが、一つのミスもなくやり抜いた凄さであったゆえ、栗林のような新人の活躍が光った。
選手たちが、オリンピックを特別化して、オリンピック自体を作っていることがはっきり見えたのだが、そこを利用しているIOCなどスポーツ官僚・商売人たちが問題であることも、はっきりと見えた。
ソフトボールの上野もただ競技としてのソフトボールを、オリンピックでと、競技の方を重視しているから継続してきた。
日本だから、やらせてやる、とアコギなIOCである。
団体のメダル表彰式で、ソフトボールのカナダチームが、選手間でのメダルの掛け合いをしてから、それがみな広がっていったが、選手たちの純真さが互いの苦労を称え合っていて、とてもいい。IOC官僚からかけられる灰色の行為がなくなったのはいい。
そして、選手たちは、自分の超絶的なスキルだけでメダルを得ているんではないことを、自覚した、これは大事だ。
作家主義の主体認識がまだうろついている日本だが、そこが脱しえた。後ろの協会がだらしないと、勝てない。
不可能と言われていた、ラグビー、そして、今回の女子バスケのように、海外コーチから「できない」ことを先に立てるなという「負け意識」が払拭されて、夢、意志を持つことで、自分へ勝っていく。
先進国開催たらい回しになっているオリンピックの商売主義が捨てられない限り、オリンピックは頽廃していくであろうが、選手たちの純真な、またその偉大さのスキルへのサポート体制の充実化は、オリンピックに代わるものをいつか生み出していくのを願って。
女子の活躍が際立っていた今回である。
19歳の男子も。
Bの次元にあるからだ。
だんだんと、見ている観客が、関係者たちであろうが、増えていったのはいいことだ。
パラリンピックは、無観客ですべきではない!!
]]>一点づつ返していき、9回に追いつき、
そしてあの延長戦。栗林が、純粋に、精魂込めて、全力投球でゼロにおさえ、甲斐の見事なリード。
そして、代打栗原が、1球目でバントを決め、ついで甲斐が、1球目で、内野五人シフトの頭上を超えて、見事に外野フライ。
たった2球で勝負を決めた。相手ピッチャーは何もできなかった。
ドミニカ戦での甲斐のスクイズもそうだったが、完璧である。
まず、負けていても諦めない。
9回には、同点に追いつく、そして、高校野球の純粋なる基礎野球の遂行で、勝つ。
プロが純真になって、本気で高校野球やると、それができてしまい、かくも完璧に成し遂げる。
高校野球のお手本になる、見事な野球だった。
高校野球を一番やり切っている、プロの甲斐が今のところMVPである。
駆け引きでない、純粋基礎野球の美しさであり、見事さである。
プロは偉大だと、改めて、別の角度から感じさせてくれた。
山?も、ペナントレース以上に、思いっ切り純粋に全力で抑えた姿に、短期戦ということもあろうが、底力を見せた。
打たれた田中でさえ、打たれたことへの批判などできない、一途な投球であった。
明日の韓国戦が楽しみだ。
USAも今回は本気度があり、決勝は対USAになろうか。
この日本野球の仕方は、決勝戦にはいくと思う。
だが、稲葉監督、WBCは、プロの戦いである。オリンピックのアマチュアリズムでは勝てない。
他方、サッカーは、スペインとほぼ対等、谷がよく抑えた。
ほんとに強くなった若手たちだが、延長戦、残り6分の疲れた一瞬で点を取られてしまったが、久保と堂安を、次の試合のためであろうが、下ろしたのが敗因。
スペイン側アセンシオが決めたように、この二人ならどちらかが点を最後にはとったであろう。
何度かゴールシーンがあったが、久保以外は、ただゴールへ蹴っているだけ、球線を読めていない。
ほんのわずかな差だが、「次がある」と設定してしまったなら、世界では勝てない。
プロ優先のサッカーをしているゆえの、敗北。
吉田は、とうとう3位決定戦は「気持ちの問題だ」と、自戒的に照れながらもメダルが欲しいと言っていた。
相当に疲れているのだろう。試合行程は、プロ行程ではないアマチュアリズムであるからだ。
ただ、次のワールドカップが楽しみだ。
それにしても、あれこれの競技の中で、19歳がすごい。お見事。
オリンピックに出るだけで大変なんだ、すごいことなんだは、日本レベルでのこと、世界線のことではない。
世界一になっていく、19歳、これはすごい。心身を統括する知性をきちっと持っている。
一所懸命やったね、など、物事をする上では当たり前のこと、慰めにもならない。
そのさきへどう突き抜けるか、世界線はその次元のことだ。
それは1競技であれ、総体が投入されている。
ただのバントではないし、ただの1球ではない。
卓球女子団体は、いよいよ中国。
男子は、ドイツを破れるか。
石川や水谷が破れても、平野や丹羽が勝つ。伊藤と張本が、ガッチリといる。
だが、やはり、石川、水谷のベテランがコーチと一緒に試合運びを支えている。これは、強い。
それにしても、競技が重なり、あっちへこっちへと、集中して見れない。I0Cへのまた憤り。
2週間へあれもこれもと詰め込む、官僚的オリンピックなど、ほんとに別な祭典へと転じるべき。
選手たちの純なる本気度を巧妙に使っている商売など、もういい。
劣悪な場所の寝泊まりに閉じ込められている、オリンピック関係者送迎バスの運転手が不平をもらしていた。
無観客にした、愚行のつけが回ってくる。
中等症感染者も自宅待機にさせる。医療化が医療化さえもできなくなっている逆生産が、はっきりと出現し始めている、そういう貧相な統治なのだ。
観客を入れて感染対策を徹底することができなかった、浮薄な医療化統治が生み出していることだ。
病院だけが、医療の場ではない、医療独占している医療化が医療をできなくしている根源である。
病院は病気になるところ、病気を直してくれるところではない、そこに自覚がない限り、自宅へ放り出すことは、医療危機を増大させる。病院よりしっかりした医療の基礎的な仕方を支えること、医薬品を渡せば済むという事態ではない、また愚行統治化が進む。
自転車競技を、橋の上に集中化して見ている、そこへ来たのは医療関係ではない、「警察」である。こういう風に医療化はどんどんひっくり返っていく。
もう、ワクチン接種が7割以上進んでいるUSAでは、ワクチンが効かなくなるウイルス変容が起きると言い始めているが、ワクチンは予防にはならないこと、医学的にはっきりしていることなのに。
感染防御対策は、医薬品のマターではない。「環境」マターの総体的なことであり、人口統治のことではない、個々の身体マターのことである。。
]]>オリンピックでいうと、日本記録が出た、というもの。
スポーツで言えば、日本チャンピオン。
それは、世界と雲泥の差だ。わずか、1秒でも、0.1秒でも、その隔たりは大きい。
予選落ちする。
ただ、ナンバーワンになるということではない、そこへ至る努力研鑽は、「不可能さ」に挑戦していることだ。
日本で通用してしまう、とりあえずの完成物を仕上げてしまうことは、世界性の放棄である。
しかも、それを正当化する。期限があるからとか、売れないからとか、業績を作っておかねばならないとか、出版社がそういうからとか、つまるところ、日本の既存の「社会市場」で無難に収まることをし続けることに、世界線はない。
学術的に言えば、わからないことだらけだ。それを、「わかってるつもり」で、マルクスは資本主義の支配・搾取を暴き出したんですよとか、フロイトは無意識を性から発見したんですよとか、フーコーは権力論だけではない主体論もやってるんですよとか、ブルデューは世界の悲惨を告発したんですよとか、どうでもいいが、わかったつもりで、でたらめ邦訳し続けている、つまり、「不可能性」に気付いていない、直面していない仕方、そのいい加減さのまま完成物だと偽りを作り続けていく、そこに世界線はない。
探究において、まず完成物など、ない。1冊書き上げるごとに、次の課題が出てくる。
その問題構成は、世界線で組み立てるしかない。世界の論者たちがなした成果の先にあるものだ。
マルクスで言えば、資本主義ではない、資本そのもの、フロイトでいえば、欲望や享楽の構造、フーコーで言えば国家論、ブルデュー で言えば「社会の実定性」を超えるもの、それは、論じ切られていない。だが、考える素材がそこに潜んでいる。
つまり、すぐれた理論は完成物ではなく、問題提起を新たに開いたのだ。
そこを見出すには、既存の次元に還元して「わかったつもり」にすることではない。
イリイチ、フーコー、ブルデューの三つの言説を地盤にするとは、それらの間で、考えられていないことを見出すためである。
吉本とラカンの言説から、幻想・心的なもの、言語の、考えられ得ていない域を見出すためである。
不可能であるがゆえに挑戦していく。
最初から不可能だと賢く放棄して、とりあえずの完成物を仕上げてしまうのが、世界線の放棄。
この完成物は、妥協の誤魔化しである。
「できること」に意味はない、「できないことに」こそ意味がある。わからないから探究する、わかっていることに意味はない。
例えば、今、わたしは「てには」研究を探っているのだが、「歌学史」において、歌から「てには」考察がなされているのに、それが切り離されてしまっているのに気づいた。
それは「歌謡論」「歌学」としてもう、わかっていないことを意味する。偉大な、佐々木信綱がやってしまったことだ。全10巻、別巻5巻の大変な資料集だが、もう初発において「とりあえずの完成物」がなされている。
他方、文法の方で、時枝が歌学を少しもしていないで、言語は芸術だなどといい加減なことを、国語学の完成物に仕上げている。
もう、日本語それ自体が、考察されないようになっている。
「歌学」と「てには」とが、同時的に考証されていた日本なのに、近代的に分節化・分離化されてしまっている。
文法論がおかしくなった根拠を発見できたが、そこに、漢学も考証に入れねばならないが、徂徠と淇園をもってくればブレないだろうと思う。成章も御杖も、歌学と「てには」とを同時にやっている。
わたしは、歌学とてには論とを学びながら、同時に和歌を自分でしたためながら考えているが、そうしていかないと述語制を世界線で理論水準としては語れない。
これは、be動詞/コプラの西欧言語論=哲学を超えていくうえでの基本になる。
ほとんど不可能に近い。だが、挑戦していくしかない。
英語でこちらが書くことではない、日本語を彼らが学ぶことだ。
先日、驚愕的な事実を知った。
竹笛を手で持って発語するのと、セルロイドの物差しを持って発語するのとでは、「音」が違ってくるという、ことだ、
実際に自分でやってみたなら、確かに違う。電磁波の違いだという。
また、香りを、西欧人は鼻で嗅ぐが、日本人は喉で嗅ぐという。ハーブの方では当たり前のことのようだ。
生命的な「物」は、人造物とは、全く違う。それを日本文化は、知っていたのだ。
先日、大雨のあと、箱根の誰もいない場所でいつも笛を吹いているのだが、全然響かなかった。
大量の水で、電磁波が変わってしまっていたのだ。ただ、自然の中で吹けばいいということではないのを知った。
非分離事実が、あちこちで明証に発見されている。理論化されていないにすぎないのも、文化放棄してきたからだ。
中途半端な完成物で、通用するようなことを積み重ねてきたことからは、何事も創造されない。
創造することさえ排除してきた日本である。
不可能さに挑戦している、オリンピック選手たちの純朴さの強靭な意志からは、感動が伝わってくる。
それは、素直に讃えたい。
]]>競技スポーツでは金メダル、1位になることと、他方に「世界記録」という、二つのことが規準にあるが、それも、高さ、長さ、速度という、とりあえずの客観数値のものと、評価点数制との二つがある。
とりあえずの客観数値といったのは、温度や湿度や風速など、またグラウンドの土など、環境条件によって身体規制が変わることがあるからだ。観客がいるかいないかも、大きく作用する。
点数制の人為など、わたしは愚行だと見ているが、精緻に数字化してなされているが、ちょっと着地の足がずれたら0.3とか、まったく恣意的なものの専横化がなされ、点数次元を超える演技を、審判は評価できないことが多々起きていく。
柔道で言えば、訳のわからぬ「指導」などが典型だ。
近代スポーツ競技は、二元論的前提にたち、「客観」への総合を擬制にして成り立つ。
これは、ルールの次元とは違う「評価」の次元だ。ともに、選手の身体技術を規制ないし規定さえする。
これが拘束条件として、測定不可能な技の創造的表出を可能にしていくことにもなるが、去勢することにもなる。
スポーツに「偉大さ」を見るのは、ただ勝つためのこざかしさや隠れた不正を磨き上げるものとは全く別次元で、こうした拘束条件を創造的技術へと磨き上げていく技の高度化である。
主語的、客観分離的に「勝つ」という仕方と、非分離に述語的に「勝つ」ということとは別技術になるのだが、日本のスポーツ選手たちは、この相反する技術の共存で、苦しみまた抜きん出ることをなしている。もちろん、多くの敗北が、背景にはある。
アマチュア主義から、プロを囲い込んでのオリンピックに変容したことで、商業主義がスポーツ競技に不可避に張り込んだオリンピックは、選手たちが「特別だ」として神聖化してしまっているのが、今回も強く感じられたが、もう明らかに、別の競技スタイルの場所を作り出さないと、その一途な選手たちの述語意志は、萎縮される次元にまで世界はきていると思う。
「近代」へ制度化された次元を脱出することが、スポーツにも求められているのだ。
さて、学術の世界性、世界水準、世界次元という「世界線」は、もう「ノーベル賞」などという制度の次元にはない。
それはさておき、小人としての自分が、どこで世界線を感じたのかということだが、それはイリイチの研究所へいってのことだ。
大学時代の指導教官は、なんでUSAやヨーロッパの有名大学へ行かないのかとわたしに言った。
大学院の指導教官は、日本で何にも知られていないCIDOCに、しかもメキシコに、いくわたしに、黙って、何らかの足しにしろとお金を手渡し、日本の大学院の方は処置しておくから心配するなと黙って、わたしを容認してくれた。
もう、ここに、世界線の意味の差が明らかに出ている。
研究所について、図書館を見たなら、何百冊もの教育批判の文献があった。
日本では、全くに知られていない。
彼らは、これをほとんど自国語で読めているわけだが、日本語で読む時間と英仏西で読む時間には、明らかに差が出る。むさぼり読んだが、その時、これは日本ではありえないことだという実感。
しかも、CIDOCで固有の資料集がどんどん生産されていく。これも、今まで、これ以上のものを見たことはない。世界のいろんな研究所も紀要的に出しているが、薄い。
さらに、研究所での言語交通は、何か国語も日常で話され、読まれる。その、トランスの壁と飛躍がある。これは研究生産スキルに決定的である。
わたしのような語学劣等生でも、英仏西は、こなしているが、このとき、もう一つ、あまりに語学的な優等生が、外国人でも「深み」がないことを知ったのはおおきい。「わかったつもりになってしまっている」のだ。
わたしは、イリイチとマンツーマンで、Deschooling Societyの理解を1章ごとに進める機会を得たわけだが、彼が語っていることと書かれていることとのギャップを知り、また拙い訳と日本語では、それは全くに邦訳不可能であることに気付いてしまったことだ。これは、語学次元の問題ではない、言語の心性・技術の文化的問題だ。
そこに、さらに、実際のメキシコでの生活がかぶさる。まったく、非産業的な価値の文化である。これを、在留の日本人たちは「愚か」として蔑んでいる。バナキュラーな存在を見れていないのだ。ただの「異文化」ではない、生存根源に関わる。
物事を「学ぶ」、研究するということは、これらをふまえないと、何らの意味も価値もないと、わたしは知ってしまった。
基礎である。上限のことではない。わたしは、ほとんど無一文状態で、日本語教師アルバイトしながら、研究していた。
そして、基礎基盤に配置する「知」を、選択的=戦略的に、三つ以上設定しないと、世界線に立ちえない。個別専門家研究など、全く意味ない、誰でもできる、学生でもできる。わたしは、イリイチ、フーコー、ブルデューを選択した。基礎としてであるが、それらの了解の質は世界レベルであること。だが、それは、日本の大学人や編集者たちにはわからない。この3者への、特にフーコー、ブルデューに関して膨大な論が世界的に出ている、それを踏まえることが基礎だ。アルチュセールは大学院時代で、もう了解できていた。
そして、古典では、マルクスとフロイトを総体として、+αを配置した。+αは、種別対象としてケースごとに選択する。社会学で言えば、デュルケーム、ヴェーバーであり、哲学でいえば、ヘーゲル、カント、ベルクソンなどであり、人類学で言えば、モース、言語学で言えば、ソシュール、ヤコブソン、などとなるが、総体的に配置はしない。この+αは、そこへの研究考察を派生的に配置する、ヘーゲルでいえばイポリット、コジェーブとなる。マルクス、フロイトは、総体的なものとして配置するが、より本質的には吉本/ラカン言説を領有する。
古典の了解は基礎中の基礎であるが、その理解水準は世界でどんどん上がっていく、そこは踏まえておかねばならないのだが、派生的な常識としてである。例えばスピノザであれば、マシュレによる考察を踏まえること。
そのうえで、同世代的な世界最先端の学者たちと直接交通しながらそこから学んだ。パリの社会科学高等研究院のメンバーを主にわたしは選択したが、個別に、各国で優れた質と関わる。
C IDOCから帰国して、日本の低開発文化市場にコミットすることの意味は、全くないことを知るし、既存の出版世界も話にならない。自分でやるしかないと、その場を開く試み・企画をいくつかなしたが、ジェンダー論を提示したとき、その反応のバカバカしさに、一切、もう日本を相手にはしないと決断した、1990年ごろだ。
だが、日本にも優れた研究者たちはいる、そこは選択したが、とくに言うまでもない、世界線で通用するのは、現在では吉本思想だけだ。西田哲学や折口学は通用するが、和辻や柳田は通用しない。こうした規準はどこから来るのか、明証にせねばならないのであろうが、島国に閉じたままのものか世界へ開けるものかの違いだが、近代学問体系に閉じているものは欧米の方がまさっているのは当たり前だ。
(逆に、欧米の日本研究の劣悪さといったらない。ベルクなどひどいものだし、ブルデューやフーコーが日本について触れたものは劣悪すぎる。)
そこを世界へ出さねばと、英訳を雑誌国際版で試みたが、翻訳不可能な日本語であることに気づく。
それが述語制である。これは、全く対象化も理論化もされていないが、西欧普遍より普遍である。
ここで、わたしの世界性は規準が反転する。
世界理論の総括が2006年で、「哲学する日本」が2011年と、5年かかったが、地盤転移は世界線として見えた。
ここは、もう、創造の段階である。
世界線での理論領有は、CIDOCの四年間を踏まえ、1979年に帰国して普及的に活動したが、2000年からジュネーブを拠点にして、学術財団を作り、2006年まで、6年かけてまとめた。四半世紀かかっている。日本のアカデミズムも商業出版も全く関係ない、自分で企画し、研究生産システムを大学とは全く別個に作ってきた。
研究生産環境を整えること、研究生産物としての出版体制を整えること、この両輪で、軸に実際の研究協働ワークを実行することだ。
でないと、研究などできない。大学環境の賃労働大学教師では、狭い、一つの限定されたことしか研究できない、それは、わたしがCIDOCで体験したことと雲泥の低次元である。多くの優れた研究者たちが沈潜してしまっているが、安楽にあるのも事実であろう。
大学知は、自分・社会系において、世界線に全くない。そこから、排出される大卒知性が、世界線のアクションをできるわけがない。
優れた者は、世界へ自分で出ていってしまっている。
スポーツなどは、歴然とそうなっているが、学問も同じだが、制度化された国際学会など、世界の無能な学者たちの社交場でしかない。大学規定から脱していないから、制度再生産しかできていない。
大学の終焉は、1968年の世界的な大学闘争で、もうとうに明らかになったことだ。
その継承が、日本では学問的になされなかった。わたしは、そこから「近代学問体系の転換」をはかり続けている。
実証からではそれがなされ得ないゆえ、また実証研究の不可能さを、修士論文、博士論文で、知ってしまい、理論研究にわたしは取り組む。わたしのメキシコ革命教育史研究など、日本の誰にも意味はないが、その素養は、自分に対して非西欧的な存在文化として領有はしている。社会主義批判は、わたしのキューバ革命教育研究からきている。
それが世界線である。その実質を供せるのは、日本の文化資本の原理である。
「在るのに知られていない」。
「日本語」という文化言語で可能になる。欧米語では、もう世界線になり得ないが、三カ国後以上の言語駆使ができていないと、日本語自体を対象化できない。今までのように、「ナショナルな特称」で終わってしまう。
言説化し続けていくしかない。
その内実は、わたしの著書がすべて論じている。
世界一になれるのは、一人しかいないが、それを可能にする諸関係や諸条件が確実に形成されてのことだ。一人でできることではないということも、偏差値学力の能力ではわかられていない。
スポーツではそれがかなり整備されてきているが、学術においては、まったくに無い。
一人作業が、大学賃労働で支えられているだけであり、堕落した商業出版がさらに劣化を、大学人へ強要する。
大卒知性劣化は、日本だけのことではない、世界的に起きている。産業的知性の不能化である。
オリンピック開催が、いわゆる産業社会先進国で、繰り返されているだけで、開発諸国でなされないことに、もうオリンピックの商業主義限界が出てきている。
コロナ禍とともに、オリンピックを含め、近代社会は、もう危機から崩壊の過程にある。
自転車BMXの競技を、競技場の向こうの橋に密集して人々が見ている。無観客が、逆に密集化を生み出している、こういう愚行統治制しかできない近代国家なのだ。
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コロナ感染は、統治制化の絶好のチャンスであるが、世界各国は、それぞれの統治技術の文化的な違いを背景に、ドコもかしこも
「国家の統治制化」として感染<人口>統治に、個々のマターへの規律テクノロジー規制を重ねて、医療の不備を、医療化においてごまかそうとしながら、ごまかしできず、統治の不能さを露呈している。
統治制がない社会主義は、ただ支配抑圧するだけだから、感染抑止にうまくいっているように外部から感取されるが、とんでもない抑圧管理・監視・監禁がなされているだけだ。
統治制においては、「統治しないことが最善の統治である」から、自由放任のまま「緊急事態宣言」の自己正当性を、「国民の生命を守る」として、スローガン遂行するしかない。
効果がないゆえ、処罰を導入して、「効果」を測ろうとするが、それはしっぺ返しが来ることに、行政は気づいていない。
統治効果を目指して、統治技術放棄をなすことになるからだ。
感染は、監禁や処罰によって、なくすことも鎮めることもできない。
病院独占のある限り、感染は増大する。
治療の医療医学は、経験知の、後追い科学でしかない。
ワクチンの治験をしている間に、感染は増大していく。
医療化されている医学の本性は、見抜いておいたほうがいい。
統治制は、国家の叡智であるゆえ、相当な歴史過程の中で培われてきた。
フーコーの理論言説であるが、現在を考える上で有効である。
統治性/統治制化を知りたい人は、
を読まれたし。
邦訳は、微妙にというか根源的にずれているゆえ、拙書をもって了解されたし。
8月20日発売、624頁の大著であるが、生やさしい問題ではない。定価:2970円。新書にして、廉価にした。
物事をちゃんと考えたい少数の人へ、少しでも、役立てばと。時宜をてらった金儲けではない、たったの500部だが、自己技術をしっかりしたい人への、いささかでも役立つ書にはなっていよう。
192ページの、わかりやすい書にしようと試みたが、ごまかしにしかならないゆえ、やめた。
いい加減な知識で、対処できるような事態ではないからだ。
困難な事態に、安易な知で対応はしえない。
緊急事態宣言は、「質素な統治性」の典型である。機能効果しないことで、統治機能はしているものであって、感染とはまったく関係ない。
効果があるのかと、統治制をまったくわかっていない大卒知性記者が詰めよったところで、統治制には何の関わりもない詰問だから、平然と政府は、「やっている」と応える。目標対象は、感染ではないからだ。
医療化にもなっていない統治制だから、尾身会長は不満を政府に示威する。
どちらも、感染拡大に不能である。
オリンピックをしようがしまいが、感染抑止に何の関係もない。
人流の外在要因を見つけては、「するな」と言っているだけの、医療放棄の似非専門家を、もう国民は信用していない。
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なぜなら、感染と「緊急事態宣言」なる方策とは、まったく別ものであるからだ。
去年の最初の緊急事態宣言では、東京駅周辺、日本橋など、ゴーストタウンみたいになった。
わたしは白内障の施療のため、人が誰も歩いていない、日本橋の目医者へいったから、その様子を知っている。
新幹線は、がら空きになった。
だが、今や、緊急事態宣言が発令されようが、人の流れは日常の平常状態とほとんど変わりない。
7月はじめ、東横線に乗ったなら、ぎゅうぎゅうづめであった。わたしは即、特急を降りて、各駅停車に乗り換えた。
どう考えても、感染の危険度は高い。
品川駅で、新幹線に乗る時、わたしは人混みを避けて、並ばない。
だが、ホームでほとんど密集的に人は並んで、乗車している。
わたしのように、緊急事態宣言も、ワクチンさえも、まったく最初から信用していない者のほうが、ディスタンスをとっているのも、規則や規範からではない、医療化など無意味である、感染は自分自身の身体に関わることと、自律性としての行動をなしているからだ。
コロナ感染は、自らに事故のように降りかかってくるものであるゆえ、自律性でしか対応できない、と知っている者のほうが、
緊急事態宣言がどうしようが関わりなく、己が身を自己統治している。
政府関係者や行政関係者たちは、万策尽きたなどといっているようだが、無策が尽きたのだ。
感染と、緊急事態宣言などという法的な統治規定性とは、まったく関係ない。
ウイルスの感染は、法律でもなければ、規則でもない。また医療化でも防げない。
それを知っているわたしは、感染に対しては何もできないことを知っている。
尾身会長がいっていることは、未知への無知である、
「今、この感染を下げる要素があまりないが、上げる要素はたくさんある。一般の市民が『コロナ慣れ』していること、デルタ株の感染力が強くなっていること、夏休みやお盆、さらにオリンピックだ。」
医療的なことも科学的なことも何も言っていない、これが「専門家の本性」である。
「感染を下げる要素はあまりない」とは、医療のみならず、医療化も何もできないと言っているのを意味するのだが、政府の統治性や緊急事態宣言の無効さに従わない国民のことへ転化して言っている。
そして、「夏休み」「お盆」「オリンピック」のせいにして、それを批判している、これはもう莫迦としか言いようがあるまい。
国民の命を守っているのではない、自分の立場を、「俺は言っただろうが」と正当化して、自分の社会的地位を守っている、言動でしかない。医療放棄し、ただ「医療化統治制化」を進めた張本人である。科学の一字もない。
TVに出てくる医者たちの、医療と医療化統治を混同させたままの無能ぶり。
「どううまくいったらいいか」など、感染にまったく関係ない、不能連中ばかりが統治性に関与している。
感染であろうが病であろうが、それは「自分の身体」のことゆえ、自分の自分への自律的な自己技術で、乗り切っていくしかないという行動しか取りようがないのだ。
他者が、政府が、行政がどう言うか、いかなる施策を出すかなどに、まったく関係ない。
ワクチンにいかにも意味効果があるかのような医療化がなされるが、それは感染者たちと直接に多くの時間接するほかない医療従事者にとって、しないよりはしたほうがいいから必要であるが、
健康な一般の人々にとって、予防作用などにならない。
イギリスでの接種後の感染増大を見ればわかるだろう。
フランスでは、ワクチン・パスがないとレストランやカフェにも入れないと統治「規定化」がなされたことで、反対デモが「密集的」になされているが、統治性の愚策に対しての怒りであり、「反振る舞い」である。
ワクチンの義務化のラディカル独占が施行されようとしている。これは、国家の統治制化として不可避に起きる。
だが日本では、まだそれが起きないで、「オリンピック反対」などと歪曲して、部分的に起き、開会式の競技場の外で、賛成派と反対派とが、密集して喧嘩している。
海外メディアも、オリンピック批判したり、ロックダウンしない日本を批判したりしている。
外に出れないと、選手や関係者たちは不満を募らせる。「監視監禁」オリンピックだ。
だが、競技は、感動を数々生み出している。
凄まじい矛盾が多生していく。
医療化は、世界拡延しているが、その中でも、日本は統治しない統治が最善だという「質素な統治」に徹している。これももう賢い政治ではなく、愚かな統治だと逆生産へ転じてしまった。
地方行政は、場所感染統治をできずに、政府に「緊急事態宣言を出してくれ」と、無駄なことを、真面目な顔して、また要請している無策。
オリンピック以前から、もう緊急事態宣言を「守る」ということは無効として、国民的に感知され、振る舞われていたことだ。
オリンピック競技場に入れたほうが、感染拡大は起きない、なぜなら、規律を感染しないよう意識的に「守る」からだ。
国民を信用していない政府代行者たちが、無策を乱発しているだけだ。
その無策が尽きた。
残るはロックダウンのみ。統治性の最後の手段。
これは医療化のクーデタによる戒厳令。無策の究極である。
ただ緊急事態宣言を信用していないのではない、その無策が、自分に関係ないと知ってしまった人たちが、まだ医療化のまっとうな策を要請し依存するという仕方を配備したまま、振る舞っている仕方でしかないようだ。
自律行為としての振る舞いになっていないと、感じる。
だから、感染者増加が起きている。
かつて、抑えられたのは、自律的な振る舞いを国民自身が、個的にそれぞれがなしたからだ。
政府・行政の無策を信用しないなら、もっと自律性を自らへ発揮せねばならないのに、逆に、自律性の放棄の傾向になってしまっているように見えるのも、医療は何かをしてくれるという信仰は保持されたままであるからだ。
医療は、ほんの数人の「真の」医師以外、何もできない。
身体に感染病を巻き起こす温床があると不能専門家たちが指摘し、
人口にたいしては画一的規範規制統治で自粛さらには処罰までを含んで、
そこに医学と衛生とから構成された全体としてのテクニック知が、
科学なるものの介入を身体と人口、器官と生物学的プロセスにたいして
規律化する/規整化する諸効果をもたらしていることでしかない。
感染自体のマターではない物事において、医学は固有の権力諸効果をともなった「介入の政治テクニック」を行使して、医療化の拡大をなしているだけだ。
この認識が、国民に自覚されていないゆえ、自律性の行使がなされない。
酒を飲むな、食事中会話するな、とただ馬鹿なことを言い続けている、統治する側。
7月20日だったか、会議があわった後、知人と久しぶりだったので、9時過ぎ、品川の居酒屋に入った、人が「いっぱい」で、お酒も飲めた。
まったく、関係ないと無視して開業していた。我々は、1時間ほどで、軽く飲んで、すぐに出た、長居は危ういと感じたからだ。
この店を処罰したところで、感染拡大は止まらない。
宣言を守っているところは、援助金を必要としているからだが、それでも店は、もうもたない。
不能な専門家たちが、提言して構成された「規定化」でしかない緊急事態宣言である。
身体統治と人口統治とを混同している統治性が機能などするはずもないのだが、
緊急事態宣言は、もう「逆生産」に必然のように入っている。
なぜなら、感染という生命的身体マターでしかないことを、人口統治マターにしているものでしかないからだ。
感染は、ある生命的限界線に達しない限り、拡大し続ける。
絶対的に、防げない。
すべきは、医療体制の総動員大勢である。
ただ入院することは、何ら安全ではない。
医療崩壊など、感染者が増えれば、病院依存である限り、起きるに決まっていることだ。
生死のsufferingを覚悟で、自宅療養する「諸策」を明示すべきだが、それは、医薬品と酸素吸入機の提供でしかない。
それを、病院独占しているから、拡大する。産業的な個人孤立居住の仕方の環境は、危険であるのは言うまでもない。
死んでしまうかもしれないが、自分のことだ。対処されたし。
だが、いまだに、わたしの知人たち周辺で、感染した人はひとりもいない。
わたしは、家から、ほとんど出ないが、週1度くらいの会議などには出席し続けている。
わたし自身の日常には、何の変化もない。
他者から、責められたくないからマスクするが、人が」見えなくなったなら即外す。
酸欠の方が害になるからだ。
すべて、自律行為である。
人口統治の生政治など、何の効果もない、まったく信用していないし、効果などない。
医療化も信用していない、何もできないから医療化がなされる。
自分は自分で守る。それしかしようはない。
死んでしまうことを含めて、自分のことでしかない。
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もう、2セットとられたとき、やはり中国には勝てないのかと、諦めてみていたなら、とんでもない!
反撃は、3セット目からはじまった。
相手の動きを見抜いた水谷は、打ち返せない伊藤が打てるように体勢を組み立て直し、ともに、怒涛の反撃をなす。
あのドイツ戦の、もうまったく後がない状況から、逆転したように、水谷の諦めない、相手を見抜き、伊藤が活躍できるように配置し直していく、長年の彼の孤高の戦いの集約がそこにはあるのだろう。
ひとり、旧態のまま閉塞していた日本卓球界の次元にとどまらず、世界へ出て、世界レベルでの技術を領有し、さらに中国に対戦できるレベルへ向けて、彼が牽引してきたものは、新たな若手、子供たちをあちこちに生み出した。
ロンドン大会で女子の飛躍に先を越されながらも、リオでメダルへ辿り着き、さらには、そこに登場してきた少年張本に完膚なきに負けたとき、今のままの自分では張本に勝てないと、自分を見つめ直し、新たな次元を開いていった。
卓球育成へのスポーツ支援環境も形成されていった。旧態の日本卓球界の保守体制が転じられたのだ。
己と他者を、冷静に客観化しうる、その経験の蓄積の総体が、伊藤美誠という天才的女子の出現の協働をえて、ついに金メダルへと、台湾、中国を打ち破って、頂上にいたった。
ドイツ戦の大逆転劇を見たとき、水谷という存在はとてつもないものだと、伊藤も驚いたように、観る者を圧倒させたが、淡々と試合にすべてをかけていく、その姿勢は、たいへんなものだ。
まさに、ゼロから最頂点へ、一歩一歩積み重ねてきた現実を具体化してきた魁。
卓球環境も、改善され、多くの子供たちも、若手へと育っていく環境が作られ、若手たちの自覚は高まった。
水谷の試合運びの転換に、すぐ対応できる伊藤もすごいが、水谷の凄さ、偉大さを一番実感したのは伊藤であろう。
スポーツ界にまた大いなる偉大なる選手が、また生まれた。いや存在していたのに、わからなかった、それが現出した。
ただ、この無観客という、政治愚行の環境は、返すがえすも腹が立つ。
やるなら、せめて五百人でも、1000人でも入れるべきである。
感染は自己責任であると、誓約書を書かせればいい、それこそ、統治性の本来の市場自由放任である。
選手も命をかけていれば、観客も命をかけてもいい。
この水谷・伊藤の、激戦を見た観客は、生涯忘れられない体験をしたであろうに。
この無観客の統治性不能のしっぺ返しは、選挙で現れるであろうが、野党側は、もっと愚行支配統治をのたまわっているだらしなさゆえ、かろうじてもっているにすぎない。
それにしても、黙々と試合に、苦闘であった日々の鍛錬を、力一杯投入しているけなげな選手たちだから、さらに感動は伝わってくる。
ただ自分たちの利権確保しかしていない年寄どものはびこる組織体は、もうほんとに無効である。
だが、残念なことに、若者たちの知的資本は、旧態のままだ。氾濫する低次元の大卒知性の市場に依存したままであるためだ。
自分たちにふさわしい、新たな知的資本を領有しないと、被害を被るのは次世代自身である。
せめて、わたしの批判言説ぐらいは領有して、先を開いて欲しいものだ。
わたしも、学生時代から既存権威などに、一切妥協せず、己が学術の道をひとり開いてきたが、使える既存のツールは可能な限り使うも、新たな原理の体系に基づいての活用である。既存の仕方ではない。
商業出版には便乗しないが、印刷技術は活用する、というように。
そして、若者たちは、偉大なる若者たちと、既存状態のまま忍苦(ないし安楽)している若者たちとへ、完全に分岐してしまっている。
大野のような抜きんでた選手も、ひたすら同じ練習を繰り返し、戦いにのぞみ、その「恐怖」に打ち勝ってきた、と述べていた。
わたしのような老人にはできえない物事を、彼らは自らの自らへの闘いとして貫いている。
近代オリンピックを超える偉大なるスポーツ祭典が新たに作られない限り、選手たちの偉大なる才能はもうオリンピック次元をはみ出している。
偉大なる彼らに比し、卑小ながら、老人も最後の締め括りの言説体系転移へと、刺激されながら突き進む。
表彰台で、ほんの一瞬だが、マスクを外す時間が設定された。
次にすべきは、残り時間、限定観客をいれる事態へと、即刻変更されることだ。
決まり事順守などしているべき、この事態ではない。
偉大なる選手たちを讃え、感動を、彼らへ返してあげるべき決断をしないと、政治崩壊が不可避に起きるぞ!
それはさておき、柔道100キロ超級で、あの、薄汚い逃げ勝ちしかしないくせに俺が世界で一番強いと、「勝ち負け」の愚行を主張し続けているリネールを、原沢が打ち倒してほしい、と期待する。
そして、ただ勝ち負けの戦術に走っている、これはオリンピックが柔道世界選手権にも支配作用した代物であると思うが、この次元を本来の「柔術」の次元へと、回帰させることだ。近代スポーツのダメさが、現れている柔道である。
「道」と「術」との違いが文化的な問題であるが、こんな柔道やっているべきではない。
日本それ自体においても、問題は多々あるが、オリンピックが介在したからだ。
わけのわからぬ「指導」など、審判もひどいものだ。そこにくさらず、淡々と闘う大野であった。
矛盾や葛藤は、複雑である。だが、原理が違う。それを、白人主義ルールへ統括しているオリンピックである。
スケボーも、オリンピックが彼ら若者のもう目標ではない。オリンピックを使って、スケボーの普及を真面目にはかりたいと、彼らは言っている。もう、オリンピックなどをはみ出している。
そもそも、オリンピックで金メダルとって、何の報酬があるというのか、利益はIOCが独り占めしていく、選手に還元されていない。
アマチュア主義の犠牲をズル賢く使って、そこにプロまで、「国家のため」と巻き込んでいる統治性だ。
コソボを知って欲しいと優勝した柔道女子選手の姿勢を「政治利用だ」などとは言えまい。
あちこちで、オリンピックを超えた物事が、オリンピックの中で生み出されてきている。
そこに、良き兆候が見られる。
水谷・伊藤の金メダルも、オリンピックゆえのそれではあるが、もうそんな次元を超えてもいるのだ。
選手たちの偉大さは、オリンピックをもうはみ出している。それゆえの感動である。
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選手たちの懸命さの純真さに、感動する。
オリンピックを信じてやまない、その一途さを、誰も邪魔してはならない。
オリンピックを信じて疑わない彼らに、IOCも組織員会も応え切れていない。
晴れのメダル授与式に、マスクをさせ、いかにも、感染対策しているんだというデモストレーションしている、組織委員会の愚行に腹が立つ。
メダリストたちを利用して、感染対策してるんだと、ただ組織委員会の管理正当性を示威しているだけだ。
顔を見せてやれ!
会場内に、応援選手たちを入れたのはいいことだ。
大声上げて、応援している、どんどんすべき。
讃えあい、ハグする。涙する。なんという、純真な選手たち。
くだらぬ、ソーシャルディスタンスだ、声を出すななど、どうしようが感染するときは感染する、似非科学、ただのコンピュータ計算、そんな疑似科学に従う必要はない。
わずか、数分、数秒の勝負に、人生をかけてきた選手たちの、ひたすらさが伝わってくる。
その「晴れ」の瞬間を、なんでマスクで隠す! ふざけた、官僚どもだ。
選手も、あまりにけなげに従う。
せめて、メダルをかける、その一瞬だけは、マスクを外させてくれと、反対の声を出すべきだ。
炎天下の、ただスケジュール消化の仕方に、テニスのジョコヴィッチたちは、時間を遅らせてくれと、声をあげた。
真昼の炎天下での試合など、無茶だ。
だいたい、真夏にオリンピックなど、IOCが疎外され、やむなく設定した、選手無視の日程である。
しかも、競技が終わったならすぐマスクしろ、など酸欠になる、それこそ、科学ではない。
医療化という愚行が、オリンピックにまで入り込んでしまっている。
さすが、マスクをかけたまま競技しろとは言っていないが、いずれ、そうなってしまうような医療化の愚行気配だ。
淡々と投げる上野。水谷・伊藤ペアは、ドイツ戦で、ギリギリの逆転劇、水谷の偉大さが光る。
高藤の必死さ、阿部兄妹のあれほどマークされても勝ち抜くひたすらさ。
サッカーチームの、メキシコに勝った質の驚愕的レベルアップ。
そして、瀬戸の競技をなめた仕方の予選落ちに比しての、大橋のひたすらの戦い。
惜しくも、数秒で決勝進出を逃した池江たち。
わたしは、ずっと、テレビで、彼らの活躍を感動的に味わっている。
そこから感じるのは、こんなにも、純粋に、オリンピックにかけている選手たちが、無観客で、マスクを強要されるなど、可哀想だ。
いつしか、彼らがオリンピックなどより、もっと大事な純粋スポーツ・プレイの場所を自分たちで作り出していくのを願って。
今は、この瞬間を味わう。
オリンピックが偉大なのではない、選手たちが偉大なのだ。
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開会式での、バッハの「連帯」と「オリンピック・コミュニティ」の繰り返し強調には、国家増強、国家間均衡、自由放任市場への統治性、を、「国家代表選手」による<競合>として、規則統治し、国家間均衡から溢れた難民選手団を設け、シンガポールや香港、台湾、さらに英領、プエルトリコなど、独立性を認め、国家間均衡の補助作用にし、国家増強をオリンピック・コミュニティ増強へと転移する統治制化がはっきりと出ていた。
国家理性ならざるオリンピック政治理性の叡智図式があるのだが、国家代表者が賓客に招かれているように、国家間均衡として休戦協定もさせる。
オリンピック新自由主義を、無意識ないし意識的なオルド自由主義としてドイツ的に継承している統治性の適用でしかない代物だ。
つまり、ナチスに対するオルド自由主義の関係が、サマランチ・ファシストに対するバッハ新自由主義として、政治関係相同しているのも、統治性が同じであるためだ。
オリンピック・コミュニティだ、などと擬制をはっているが、国家の統治制化の新自由主義構造と、まったく同質でしかない。
旧態の自由主義の継承は、オリンピック旗を持たせた、アフリカ代表に白人を、ヨーロッパ代表に黒人を配置する、表象騙しに、人間種を統治する擬似生政治の仕方としてはっきり見えていた。
反差別表象の裏には、人種差別が統治条件に否応なく入り込むためである。
天皇の開会宣言が、昭和天皇の時のように「祝う」と言わなかった、訳文で違うと問題になっているよう、国家的理性を利用しながら、オリンピックを政治利用させない、という代理表象政治を、統治性においてなしているIOCである。
つまり、国家元首を政治利用していながら、国家元首には「政治利用させない」という貧相な統治性が派生させる、不可避の政治作用である。
IOCの決まり文句のまま言っていたなら、天皇の立場さえ危うくなるという作用が働くことを、規制しているのだ。
長いバッハ演説は、IOCの本性をを露呈させていた。
はっきり言う、時代錯誤である。
国際官僚たちは、どこもそこも、ひどい低知性に落下しているのは、国家の統治制化を超える統治技術の理性を生み出しえていないためであるが、これは、スポーツにおいてサッカーに現れているよう、国家間競合のワールドカップとクラブ間競合の場所間競合との違いとして出現している。
そうした傾向の中で、オリンピックは、国家間均衡を測ろうとする統治性の象徴的=実際的な政治作用をなしているに過ぎない。
世界の低知性化も、進行している。
それにしても、ラグビー ワールドカップもそうだったが、世界スポーツイベントに対する、日本の演出クリエーターたちの知性の低さ、和文化理解のなさ、それによる美表現の勘違いや浅薄さは、ひどいものだ。
職人、木材、歌舞伎などの上っ面、そして、漫画やゲーム、<日本>が文化的にダメになっている姿そのものが露出した。
野村萬斎が、いられなくなった力関係にも現れているが、でたらめな者たちが支配して、結局、次々とその劣悪さが露出していった。
真の質の高いクリエーターは呆れ果てているだろう、そういう一流を使えないのは、演出クリエーターたちの質が低俗だからだ。
学術世界も同じである、低次元が低次元をよんでもたれあっている。
大卒知性の知識で日々、ただ目先の商売主義に関わっているだけでやれている貧相さが、どんなイベントにも露出する。世界の恥である。
民族論もジェンダー論も、歴史認識もない、貧相な大卒知性である。
だが、より根源では、ホモ・ペナリスがホモ・エコノミクスと結合して、「女性差別」「ホロコースト」「いじめ」などのホモ・クリミナリス裁定が、なされている。
法の経済的メカニズムを、知のインフレーション、認識のインフレーション、 言 説 の イ ン フ レ ー シ ョ ン へ 置 き 換 え 、審 級 ・ 制 度 ・ 決 定 諸 要 素 が 増 殖 し 、法 的な名 で の 判 決 が ノ ル ム の タ ームで個別化措置していることの現れである。
このおぞましさにおいては、ただ彼らを解任させるという処置では、何も解かれていないのだ。
漫画をわたしは大衆文化として、それ自体を高く評価するが、それも膨大な幅がある。
漫画でするなら、またはゲームでするなら、その総体文化性を表象しない限り、それはただの広告屋の発想でしかない。
吹き出しのばかなプラカード、それは漫画文化の高さの質を何も行かせていない。
海老蔵の歌舞伎姿など、凧に歌舞伎化粧を書いているのと同じ次元の表象である。
だめクリエーターに加えて、電通文化インペリアリズムの商業主義が覆いかぶさる。
日本文化を一番解体的にダメにしているのは、大学と電通だが、ともに貧相な大卒知性によってなされている。
実に、文化浮薄な開会式になっていた。
スポーツ選手もアーティストも、世界レベルなのに、演出クリエーターたちの底の浅さだ。
いい加減な知識でやってきているからだ。
国民は、IOCの官僚ぶりも、組織委員会の粗末さも、演出クリエーターたちの文化・英術性のなさも、感知している。
世界は、もっと認知している。
次々と問題が発覚したからではない、もうそれ自体が浅薄、低知性である。
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まず、本質論の水準。
オリンピックは、環境破壊活動である。自然破壊、都市破壊、経済破壊、など。人為的なハードな建造環境、競技環境で、諸関係を破壊し、その破壊によって、営利を統治化する。(1964年の東京オリンピックが、首都高速など、都市環境を破壊したまま、それがいまだに残り続けているのは典型。水系は環境から排他的に配備された。オリンピック時の経済利益が瞬間的に稼働しても、オリンピック後の経済環境破壊状態(長野冬季オリンピック後)。などなど。)破壊的イベントの典型がオリンピック、一時的祭典でしかないからだ。
社会的水準。
オリンピックは政治活動利用される関係に配備されている(ナチスやソ連の大会、ボイコット)。本来的に、統治制化に配備されるイベントであるゆえ、国家は、それを、自らの統治性技術において利用しうる。
政治利用させない、という「統治性」の政治であるが、国家代行をしているにすぎない、質素な統治の統治性である。
オリンピックは、IOC官僚統治による、営利主義活動。地球規模で、主に放映権営利という、市場経済の自由放任を権利化した、独占体制を官僚統治している仕組みになっている。
技術水準
スポーツ選手たちは、オリンピックをスポーツ競技であると純粋化し、自らの力能を「競合」しうる「機会」であると人生をかける。
この無垢さを、外在関係が利用する仕組みになっている「スポーツ・マネジメント」が、現在時点では新自由主義統治のモデルケースになっている。
文化水準は、完全に商品経済化へと構成されてしまって、スポーツ文化は、個々のスポーツ世界選手権が創造しているものを利用しているに過ぎない。オリンピックの「聖化」が、商業主義に支えられている。
と同時に、大阪なおみのように、スポーツ競技外で、人種主義と闘う選手も出ているかと思えば(競技では、表彰台での黒人パワーのレジスタンスがあった)、いまだ、水泳に黒人選手がほとんどいないように人種主義と根深く結びついている、一種の優生主義が背後にまだうろついている。トランスジェンダーの問題もある、などなど。
要するに、オリンピック憲章なるビジョンは、ただの建前になって、IOCダラ官僚が、政治的に自己営利を確保するために、時代に合わせて、統治性を変容させながら、スポーツ選手の純粋さを利用している代物になり下がっている。サラマンチ・ファシスト体制であったその本性は、変わっていない。
スポーツ外の諸関係に、侵食されているのだが、競技場所自体を整備するため、外在条件は正当化されていく。
スポーツ競技だけを、「観る」という分離を構成することによって保持されているスポーツ商業主義の官僚統治ゆえ、今回のような似非クリエーターたちが徘徊しうる場の諸関係になっている。必然。個々人を処罰して、本体の正当化を保存する(医療化統治と同じ)。エンブレム、競技場コンペ、など、今回大会では、ことごとく露出したが、組織委員会のだらしなさなど超えて、オリンピックそのものの本性が露出したのだ。(七万人収容競技場に、1000人弱の、官僚観客状態が露呈。)
IOCとサッカーのFIFAとの政治的・経済的対立のように、スポーツ・マネジメントのマフィア化は、いずれ解体構築されるであろうが、スポーツ選手たち自身が、目覚めていかないと利用されるだけだ。
にもかかわらず、あまりに純粋なスポーツ選手たちが生み出す感動は、彼らが競技の一瞬に、自分の心身の総体をかけて、身体の破壊寸前の極限で、プレーしているからだ。
わたしは、観る者として選手の立場に立つ。
オリンピック反対だ、などの粗野な「反振る舞い」に立たない。官僚的統治性は、それによってただ正当化を強化するだけだからだ。
すでに、世界選手権やワールドカップによって、個別のスポーツ環境は、問題を抱えながらも実行されている。
それを一つに集める意味など、もはやない、という外在的な問題である。
三つの克服点が擁される
1)競技場が、場所へ開かれた、場所寄与の統治性へと配備されること。住民が参画できる環境配備。
2)スポーツ・マネジメントが、スポーツ選手自身によってなされること。
3)スポーツ資本が、商品主義経済から脱して、スポーツ資本経済へとエンターテイメント性を含んで機能すること。
そして、付帯的に、知人の体育教師たちが試みたりしているが、sportをひっくり返してtrops運動をしているが、これは、「競合」という新自由主義的な「不平等」の経済統治(順位を競い合い、それを評定する)に対して、平等的な等価関係の「楽しみ」を組み込んだ仕方を、競合競技と相反的に価値づけることだ。これは、ゴールとプロセスの身体行動のあり方を変容させる。
プロの偉大さを、わたしは尊重する。これを、舐めてはいけない。いろんなことが、個の身体から表出される、それは感動の共感をうむ。
同時に、素人の多様なアクティビティの場を作っていくことだ。
スポーツ競技が、オリンピックのように、産業的シテに汚染され、還元されていることが問題である。
感染を統治できない政府が、政治的統治性の確保のため、無観客にするような「粗末な」統治性へほうり出されてしまうことからの脱出である。それは、国家の統治制化を、政党の統治制化(選挙で勝つため)に切り替えた愚行でしかないゆえ、多くの国民から疑われる。
だが、どこかのTV評論家のように、「国民が、国民の納得が」などを繰り返す、ポピュリズムは、ファシズムを招くだけである。
スポーツに対する、特に、プロスポーツに対する、個々人の様々な意見・見解が、相反的に共存しえていること。
その論争が、ある調整を、時代ごとに作っていく、それが今、一元統治されていることの未熟さである。
スポーツは、政治と経済の代表象になる関係に置かれてしまうのも、ただ市場経済がそこへ安易に絡むからではないことが、今回、無様なオリンピック統治において露出した。
スポーツ統治性は、重要なマネジメント・ファクターである。
スポーツ選手は、売買商品化されるべき者ではない。
オリンピックは、そこに対してアマチュアリズムを背景におきながら、実際はもうプロ化しているが、いかにもその商品交換から離脱した、純粋の「競合」世界を偽装配備している、ただの新自由主義経済であって、この偽装から、選手たちが自身によって解放されることだが、周囲にいる者たちが、今や真っ二つに分裂しつつある。スポーツ存在論的な仕方と既存の力・利益従属の仕方とにだ。
多分、日本のメダル・ラッシュに、世界からのバッシングが起きていくと思うが、オリンピックは、もうなくなるべきだというのが、わたし個人の見解。問題だらけだ。
そこに、人生をかけるスポーツ選手が、悲劇を被るだけの時代になりつつあるのではないだろうか。
バッハ会長のお調子対応を見ていて、それを祭り上げるような体制が問題であろう。
それぞれが責任逃れしているんではない、統治性・統治アートがない統治をしている、それは社会主義現象である。
スポーツの純粋化は、ありえないのだろうか、といつも感じる。永久平和と芸術純粋主義のカント主義だが・・・・・スポーツには、このシテが大事なように思うのだが・・・・。
政治と経済の未熟な統治性を、打ち破ってほしい、そのパワーが、プロ的スポーツ選手には配備されていると、わたしはおもっている。
また、他方では、引退した選手たちが、選手の立場に立ったスポーツ・マネジメントをなし、既存のおぞましい政治や経済に対峙していくタスクが、組織マネジメントの官僚主義的管理統治に対抗して、要されてあるのだ、この人たちは純粋主義では機能しない、負けない政治力が要される。日本は、素朴すぎるというか、幼稚だ。
おぞましき、外在世界を、それなりに認知した上で、しかし、この時点では、わたしは選手たちの活躍を、素直に見て、愉しんでいく。スポーツ自体は、偉大だからだ。生で見れないなど、無様な統治性に呆れつつ・・・・。
スポーツも音楽も、生であることの偉大さがある。
それを、どんな事情があれ遮っているのは、ただ統治性の愚行・迷走以外の何ものでもない。
ばかな医療化専門家どもが、感染が拡大すると、ありえない感染予防を盾にして、愚言をろうしている。
感染は起きる、そこをどう引き受けながら、最小限限界をなすかの統治性が必要なのだが、完全放棄された。
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ご協力、ありがとうございます。
とはいうものの、amazonは、自分を守るべく消去しているのであって、こちらを理解しているわけではない。
だが、くだらぬものは、一つ一つ、依存ではなく、自律として、打ち消すべくはうち消していかないと、自分たちの文化市場は形成されていかない。
goodが、自然性で機能しうる時代ではなくなっているゆえ、他なるものがどうであるかではなく、
自分の自分へのあり方として、軸をブラつかせてはならない。
批判はとても大事な行為です。
しかし、小生、一度たりともまっとうな批判を受けたことがない。
批判以前に、わが書を読めている人がいると思えない。
よく、わたしは10%の法則と言って、3000部本が売れたとする、その本を最後まで読む人が10%の300人、そのうちで、理解できる人が10%の30人、そして賛同してくれる人ないし真に批判してくれる人が、10%の3人。この3人が基調だが、それすらありえないのが、ほとんど。これが実感である。
現在、よくて500部だから、50人、5人、そして、0人。
こういう計算は、コロナ禍の医療化がなしている仕方。
逆に、選択がもう少数だから、読んだ五十人は、共鳴してくれているはずだ。
書に対して知的に気取る連中たちは、一般にまったくに読めていない。
知識にしかならないからだが、知力にならないのも、主体所有しようとして、対象に領有される仕方がわからなくなっているためである。領有されると、自分がなくなると思い込んでいるように見える。
すると、知的行為が、偉そうに、自分のいたらなさをごまかし、自己保守的に自己正当化し、他者の動きを窮屈にさせるよう、働かせる。
理論が、巷で、一般的に嫌われ、また意味がないかのように拡延してしまっているのも、知的行動が転倒しているから、そういう結果になっている。
理屈を述べる輩の質があまりにひどい低次元だからだ。
世の中嘆く前に、自分の自分への努力をなすべきなのに、放棄してしまっている。
批判理論は、そのさきの可能条件を開くために徹底されることだ。ところが、批判理論水準で閉塞的に理解し、めげてしまう。
安楽さにある自己自身を見直すのが辛いのだろう、浮遊して、世の中嘆いている方が楽だからだ。
その先に、可能性が自己技術として自由プラチックに開けるのに、やめてしまう。
考え抜かないからなのだが、読むことは読んだものに従うことだと誤認しているからだ。
受験教育で、そういう訓練をされてきたため、自在に、自分へ向けて読めなくなっている。
正しい正解の理解を忠実にせねばならないと、思いこまれているようだが、それは「意味されたもの」においてだけの読みでしかないし、読みはmisreadingでしかない、それゆえ、誠実に、素直に、真摯に対象へ向かうことだ。
「読む」ということをしっかり明示してくれたのは、アルチュセールであった。
「資本論を読む」であった。コジェーヴやイポリットではない(そのヘーゲル論、深みがない)。
これは、わたしの大学院時代の自己訓練であった。
しかも、それは邦訳のでたらめさを教えてもくれた。ひどい訳だった。
ちくま学芸文庫で、元のすべてが、それなりにしっかり訳されている。相変わらず、プラチックだけはそのまんまだが。
<理論実践>などありえない。理論を実際に働かせる、読む実際的行為が理論的になされる、それが「理論的プラチック」である、アルチュセールの基本概念である。
間違いだらけの読みというか、低次元の読みしかできない日本だが、大学教師のほとんどが自分の専門さえ読めていないのだから、必然。
理論書の邦訳は、全滅的状態になっている、構造論の現代思想段階からそれは、とくにひどくなっていった。
読みをしっかりしない限り、何事も始まらない。
自分が何をしているのかを自己対象化することなしに、他なるものへの関与は、しっかりなされえないし、対象それ自体を正鵠に把捉できないゆえ、「なす」ことは多分にブレる。制度規定された、アクトしかできなくなる。このactesも、邦訳でまったくでたらめ状態ゆえ、わかられるはずもない。
アルチュセールもフーコーもブルデューも、ラカンも、レヴィ=ストロースも、セルトーも、みな、pratiques/action/actes/comportement/conduite/praxisを識別しえて論じているがゆえ、マルクス主義と現象学とさらにはサルトル的実存主義から脱していく言説次元を開きえた、なのに、邦訳は、「野生の思考」をのぞいて全滅である。
新たな理論次元が、開示されるわけがない。修辞的理解で、停止したまま、粗野な客観主義が、主意主義的に語られるだけになっている。
これだけ、しつこく言い続けてもわからないのだから、この理論病理は凄まじいものだ。
知の転回が進行していたとき、文学批評理論も深化していった。
とくに、ポール・ド・マンの論述は、大きな意味をもった。
それは簡略化してしまうが、書かれたものはすべて比喩でしかない、そして読むことはmisreadingでしかありえないという。
その通りなのだが、社会科学の概念は、比喩では済まされない。
文学と哲学の差異をド・マンは取り払いますが、比喩としての文学の表出と、哲学ないし社会科学の概念表出とは、やはり違う。
ド・マンの先に、ここを理論生産しないと、社会科学は、「社会の実定性」から脱していくことはできない。
「社会」概念を比喩であるとして済ませていては、その虚構的空間で規則性・規範性をもって行為されているプラチックの実際を把捉できなくなってしまう。
メキシコから帰ってきて、「学校・医療・交通の神話」を数ヶ月で書き上げ、1979年7月に処女作として刊行した。
しかし、まだ定職はなく、非常勤大学教師状態。生活費がままならぬ。
共同通信の松田さんが、小生の仕事を評価してくれて、共同通信配信の「書評」のアルバイトをくれた。
1件、1万円ぐらいだったと思うが、生活の糧になるため、必死で、書評をかき、アルバイトをした。
これは、いい、訓練になった。何冊なしたか、何を書評したか、まったく記憶にない。必死に、かなりやったと思う。
その前に、メキシコにいたとき、山?カヲル氏から、ボードリヤールの消費論の書評論文を書くように、仕事をもらって、必死に原文もチェックしながら、長い書評論文を書いた。書評というものは、1冊の書物が対象である。それは数枚の原稿用紙で書くなど、不遜きわまりないことであって、だ本ならそれでいいが、一冊の高度な書に対してできることではない。
この書解読論文は、いい訓練になった。ちょっとしたミスも見つけたように、原書と合わせてしっかり読んだ。
ボードリヤールの面白さと理論的な限界が、自分にはっきりと見えた。原書も見ずに書評などしているのは、もう論外であるが、平然となされているのも大卒知性の横暴な仕方だ。基礎ができていない、典型だ。
そのあと、同じ「経済評論」で、自分の考えの論考を書いたなら、担当編集者から難しくて何言っているかわからん、やさしく書き直せと言われ、冗談ではないとその論考を取り上げた。その瞬間、生活のかすかながらたしになる原稿料が入らない、悲しいきついなと思いながら、しかし、妥協はしない自分を失うことを、わたしは自分の学術生産においては一切しない。
これが「消費のメタファー」に納められている論文であるが、その時から、もう、雑誌論考に自分の論文はレベルが合わないのを痛感し、私は自分で企画編集を、大学職就職後に、同時に進めていくことになる。
「プラグを抜く」シリーズ、そして雑誌<actes>などの刊行だ。自分で場を作っていくしかないと。
いわゆる、大出版社とは、ことごとく対峙した、まったく波長があわないし、低次元を要請してくる、たまったものではない。
商業雑誌、商業出版の無知な編集者に合わせていたなら、自分がダメにされる、自分で企画し、構成するしかない。
それを、新評論のあと、新曜社と日本エディタースクール出版部が、応援してくれたが、編集はもう自分ですることになっていた。
週刊読書人で、「論壇時評」連載を1年、頼まれてやったが、雑誌論文の低調はもう始まっていた、どうにも次元が低すぎる。
世界線での質がどういうものか、イリイチの研究所で知っていた自分は、大学という場では、研究はできないと、実感し、世界線での研究の仕方がなされる環境づくりへと入る。
給与はもらって、生活基盤は安定しているが、研究生産できる環境に大学は、まったくなっていない。
また、商業出版に合わせていたなら研究生産にならない。紀要などは、逆に、自己満足もので、これも無意味だ。
書評のタスクは、販売促進である。それ以外の意味はない。
であるがゆえ、頼まれたなら、褒めることだ。
納得いかないときは、書かない、断る。
それが、礼儀原則である。
したがって、書評をすることは、評に値する大著は数百字でなせることではないゆえ、やめていく。
何百ページもの論述を、数枚の文字で表する不遜なことをしている、そこからまっとうな評など起きえない。
批判対象をきちんと読んで、理解し、そこへの異和や不十分さや、異見を出すことで、批評は開かれていく。
それは、短い書評でなされることではない。
学生時代、大学院時代と、私は後輩と合宿し、テキストを徹底して読む、レジュメを必ず書き上げ、報告しあい、理解する作業をしていた。初期マルクス、レーニン、ウル・マルクス研究(とくに、廣松渉、平田晴明、望月清司)、ピアジェ、ワロン、そして吉本隆明などだ。その結果、大学教師たちが、書を全然読めていないことを理解してしまった。
マルクス主義教師など、マルクスも読めていない、吊し上げに答えられない、ひどい低知性の大学教師たちである。
1字1句読む、自学を私たちは、大学講義など相手にせずに、自分たちでやっていた。
大学教官時代、一度だけ、数人の学生がやってきて、廣松渉の「存在と意味」の読書会をしたいので、レクチャーしてくれときた。
その意気に応じて、2回ほどやったが、これ廣松の堕落だぜ、「マルクス主義の地平」の方がはるかにマシだと、断った。
廣松は、マルクス資本論の第2巻、3巻を読めていない、それゆえ、ひどい停滞に入っていた。
近年、呆れるのだが、ほんとに大学人たちはマルクスを読めていない。
我々が、学生時代に自分たちで必死に読んだ、それにまったく劣る。知識主義でやっている、シニフィエまとめでも、読めていない。
わたしは、その遥か先を論じているがゆえ、まったくわからんのだと思う。
批判するには、何よりもまずしっかり読むこと。どんな書であれ、2週間あれば、まずは読める。
これをどうもしていない。
そして、論点、要点を最低限掴むこと。それには、比較が要される、素養、教養だ。
そこで、同意ができないなら、放置すること、関与しないこと。捨てること。
世の中、膨大な書がある、自分に大事な書は必ずあるし、見つかる。
そこから色々学んでいくことのみに意味ある。無能さで、アマゾンなどで評し続けて、どんな意味がある、はた迷惑だ。
どんな書であれ、著者は、一生懸命書いている、尊重すべきだ。
これが当たり前の常識だ。
わたしが邦訳がなっていないというとき、原著者にあまりに無礼だからだ。
上っ面の知識で、何の意味もない。意味のないことの蓄積だけやっているから、この世の中のいい加減さだけが、情緒的に感じられて、自分の変革力のない不能さだけが、自分へ帰ってくる。主語言語化された、効果である。お節介ながら、早く、自分自身のために自覚した方がいい。
他なるものばかり気にしているからだ。自分の自分への作業ができていない。
そして、評価は自己評価しかしえない。
他人への評価などまったく無意味、横暴である。
学生評価が、ほんとに苦痛であり、学生にも教師にも一番無駄な時間だ。
私が大学闘争で、実行したことだが、他人から評点されるいわれはない。
大学で一番無意味、無駄なこと、それは試験と評価だ。無能者同士の存在獲得欲求である。
拒否する学生が出てくるのを待ったが、ついに出てこなかった。
書物に、5段階などつけるのは、愚の骨頂である。
歴史的に、他者からの評価が、書いた当人より深まることはない。
映画評など、映画評論家たちが偉そうに星幾つとやっているが、映画も作れない輩たちがしている。
料理を作って、うまく美味しく作って、星三つ!と、やってればいいことだ。
ミシュランの星など、糞食らえである。
(と言いながら、高倉健・藤純子の任侠映画論では、遊びと自己目安のために、点数を付けたが。批判ではない、好みの度合いだけのこと。)
書物への批評は、無知からなされる。小林秀雄が典型だ。
書評は誰がなそうが。たとえ、吉本さんであれ・・・
だから、わたしは吉本さんの書評を、一切尺度におかない。吉本的言述だけを読みとる。
理解することは、暴力であるとアーレントは言ったが、こちらの頭が破壊されるのだ。
それは、快感ではないが、驚きであり、気づきである。それを、享楽へと、心的に配置することができたとき、書かれたものとの共鳴が始まる。
それを、私は感じるのは、吉本さんだけだ。
たとえば、数年前、唯一残っていた「初期歌謡論」を読破でき、そこから今、自分で「歌学史」全10巻を読み始めている、吉本さんは、ほんの1部をうまく取り上げているにすぎない。ただそこへの示唆が、吉本さんにあって、そこから考えていくことだ、真にはウケない。対象物を、わたしは必ず読むことにしている。
フーコーにもブルデューにも感じない、それは理論対象への知的技術が深められるだけだから、応用する、解釈しているんではないことが、わからないらしいが、自分が読んでいないから大学人知性にはわかられない。
新書という、「開いたもの」にすることで、マイナス反応の拡大は、必ず起こる。
マイナス反応が、無意味であるゆえ、限定した、目立たぬ出版を2000年以後、なしてきたが、
新書によって、拡散を意図したゆえ、それは受けていかねばならない。
つまり、市場という、自由放任の場で、係争は必然に起きていく。
そこを、侮っていると、新たな挑戦は、その力を剥ぎ取られる。
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