全体主義と場所:ひたひたと迫る全体主義性向に抗して


ドイツで、ヒトラーの『わが闘争』を、出版させまいというような動きがおきている。研究上は大事な資料だとする出版社と、ネオ・ナチをうみだすのを回避するのだという「社会」イズムとの対立がおきているようだが、後者はナチスと同じ焚書をしていることに気づいていない、というかナチズム=全体主義が総括されえていないから、自分たち自身が「善」の名において全体主義化していくことへの自覚がとられない。それは、「社会」一般の均質・均一空間が前提設定されているためだ。
内容が悪いから、出版はしてはならないというのは、形式でなにがなされているかの自覚がないからだ。
日本では、図書館で『アンネの日記』の書籍がひきちぎられる、ということがおきている。
全体主義は、こうした小さな愚行が、ある閾でかたまりになって出現していくが、それが正当化されていく根拠があるためだ。
無気味な動きが、あちこちでおきているのだが、その現在性はみぬいておいたほうがいい。

ナチズムの本質は、「真面目」主義と「清潔」主義の結合が、「正しい」こと「善」の全体化として正当作用していくところにある。「不正」からうまれるのではない。「よいことだ」として作用していくから、全体主義化しうる。
2チャンネルでの誹謗中傷は、語る者たちはただしいこと、まちがってはいない「ほんとのこと」を吐露しているとおもいこんでいる。それは実際はまちがいだらけで、自分がないコトが自分だという転倒がなされうる、そういう情報技術が、ツールとして、その表現の可能性を開いた。これも禁止すべきことではないが、一般化していくシステムは制限しておけばいい(検索にのせないガバナンス)、それがなされないと、全体主義化する。
出版は、情報次元とちがう物質にあるが、それとて、情報次元へデータをのせれば同じ事になる。禁止ではない、制限の技術が大事なのだ。

つまり、現在は二つのことにおいて、「全体主義化」がなされうる土壌がすでに開放されてある。
第一は「情報」ツールとして。
第二は「社会」空間として。
この、二つが、結合して、「全体主義化」作用が、正当化を行使する。
情報は、匿名攻撃が可能になったツールであり、情報生成しえないデータ専横が「正しさ」を支配しえていく。
「社会」は、均質規則に従えと押し付けてくるもので、近頃は、オリンピックで選手は国の金をつかっているのだから、ちゃんとしろ、既存の枠にしたがえと、代行ぶっておしつけするようなありかただ。給与もらっているなら文句いうな、いやなら去れと、当事力をもってもいないのに、代行言動をとる仕方になっていく。真面目主義が、排外主義へするっとすべる。
すると、主体の自覚の問題が大事だと、転移され、そこに「教育」が大事になると、また次の次元での「全体主義化」の地盤が正当化されてつくられていく。批判性の閾が、抑圧、排除される。
これらは、すべて「均質」「均一」の一元空間が基礎になっている。不純物・逸脱を排除するということによって、最悪の不純物が作用していきうる設計になっているものだ。多元化をさせない仕組みである。

要するに、民主主義、社会主義、全体主義は、円環して相互変容していく。この思想的裁断は、認識・自覚の基礎になる。
次に、最善は最悪である、という認識・自覚がなされることだ。
このふたつは、「自覚」の次元である。他者へおしつけることではない、自らへむけての自律の自己技術である。
そして、「社会」ではない「場所」に立つ、という実際が大事な要点になる。
この場所は、しかし、かつての郷党主義がうみだされたように、場所が貧しく疲弊していると、全体主義への通道がそこにうみだされる。原発誘致は、その変形された典型である。
場所文化、場所の歴史、場所の技術、そして場所の幻想技術が、しっかり場所環境を「資本」として豊かに稼働されないと、そうなってしまう。

ウクライナでは、西部のEU側が勝利したが、するとこんどは東部のロシア側が不満・抵抗にでてくる。市民運動を暴力抑圧した大統領が、殺人犯罪者として指名手配される。あっというまの、近年まれにみる、まさに革命であった。
しかし、ナショナル一元国家を構成しているかぎり、その一元化では、相互変容し、治まりえない。場所を無視するからそうなる。場所自律と国家次元での連合・連邦とを、両立させていく、スイスのような仕組みにしないと、国家自体ももはやもたない。
USAのような仕組みでは、パブリックなものがソーシャルな一元性へ支配されてしまう。unatedではなく、confederationの、co-である、相反性の共存である。

少数でいい、全体主義化と対峙しうる力をもちえていることだ。その多元性がなされることだ。それが、多数にたいし微力であるなどと、商品主義の感覚をもちこまなければいい。
たとえば、このブログである。「感動の場所」として浅田真央(やスポーツのこと)を述べるブログは別につくった。それは、あっというまに、80から、300、1800、そして3000とアクセスが、一日きざみで膨張していく。それが、経験上わかっているので、このブログにはのせずに別の場所をつくってある。浅田真央については、自分で語りたいからだ、しかしここで語ると、その量に圧迫されてしまう。ここは、少数の80〜100ぐらいで推移していく、それでいいのだ。
多元化していくことを、わたしは自己技術へのせている、一元化は回避する。
量化の作用と、質化の作用は、設計原理が異なる、前者が商品設計、後者が資本設計である。この相反両立を、うまく統御していけば,健全さが保持できる。情報とは、通過である、フローであるが、とどめストックすることも大事な作業である。
自らが操作されてはならない、自らで操作できるように、自己技術をはたらかせていくこと、その設計を、去年から少しずつすすめている。情報技術の負の作用、社会の負の作用に、負けてはならない。

資本の働きをとりもどす、場所の存在をとりもどす、自己技術を自律的様式ではたらかす、その理念規準はしっかりもってである。