新著、『<もの>の日本心性』を脱稿

昨晩、「<もの>の日本心性」を脱稿した。
「哲学する日本」の第鵺巻だ。つめこんで、540ページに、またもやなってしまった。
<もの―わざーこころ>の3領域を、日本論として論じ、述語制の日本語、武士制の日本、とで、構想は完結する。
<もの>は物体ではない、心性であり、心的技術として、絵画にもっともよく表象される。絵画表象史を概略的であるが軸にしつつ、ラカン理論をもって<もの/Ding>に接近した。語られていないもの、見えていないもの、それを掴む理論である。
指示表出、自己表出にくわえて、「述語表出」の基盤閾があるということ、その「穴」の対象化である。
わたしたち日本人は、この「穴」を感知し、無自覚だとこの穴に埋没する。無自覚な埋没は、ウルトラ・ナショナリズムになる。自覚してとりくんでいくと、文化技術表出が可能になる。
かつて、日本の商品は<もの>を感知して、物づくりをしていた。
それが、いまやただ物体の商品の再生産しかしなくなっている、経済停滞の根源的根拠だ。
他方、<もの>が消えていく、消されていくのが、近世の言説であることがわかった、国学が<もの>を取り戻そうとしたが、古事記を歪曲させ、ものとしての「神」、つまり大物主に代表される国つ神を、消し去り、黄泉国を死者のくにとして、宣長も篤胤も「禍津日神」をそこへ登場させ、幽界と顕界を共存させ、後者に天皇を布置する言説生産をなした。この顛倒は、書紀世界へ古事記を従属させて、古事記をひろいあげるという、詐取技術であるのだが、それが、いまの日本人の幻想技術に暗黙に布置されている。それが、もっとも本質的な、日本停滞の根拠である。「社会」が、その幻想技術を、規則代行する社会技術をはたらかせている。商品生産の労働集中市場が、それを物質的に支える。<もの>の不在化がそこでおきている。
すべて、そこの壁に、実際が直面する。
<神―タマ>の幻想技術において、日本人は転倒しきってしまった、それが消費生活の多数をしめる現代神話になっている。
その物質的現れが、「着物」をすてた日本人である。洋服の労働着、遊び着に、完全占拠された。
縦絲の心棒の喪失である。

理論的に非常に難解な閾へはいりこんだが、しかし、現象面では、あまりに明証に出現している。
わたしの抽出したことは、10年後には当たり前のことになっていこうが、いまは、ほとんど了解閾は、少数でしかない。
わたしの死後、わたしの言述が見直されるだろう、という感慨が、自分へリアルになってきた。
体力が、だんだんなくなっていく、気力がそれにともなって、衰える。
人為にまどわされず、つきすすめ、という託宣を巫女を通じて、大神神社の場所環境神においてうけたが、神のみぞ知る、とはよくいったものだ。神からの語りとは、<もの>からの純粋疎外が、自らへとどくということだ、これを近代は自己の意志としたにすぎない、同じことなのだが、述語制からみると作用は逆ベクトルになる、ここを共同幻想疎外すると、信仰、宗教となっていく、わたしはそれを述語的自己へとどめ、神=タマを古事記的に環境布置する。社会・商品・制度の顛倒した現代神話よりはるかにましな構成がなされる。
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