スコットランド独立は、場所統治政治なのか?

スコットランド独立の住民投票は、反対派の勝利で終わりそうだ。BBCの放送を、みながら、「変わること」への恐怖・不安は、やはり大きいのだと、感じた。
だが、これは、わたしの言う場所の自立ではない、圏域のミニ国家的独立であって、国家共同幻想の閾をでているものではない。にもかかわらず、一元的国家統治に対する批判であることは、はっきりしているゆえ、イギリス中央国家側もスコットランドの自治権拡大を保障するとはいいはじめている。ウクライナ東部の親ロ派の強引な住民投票もそうであったが、類似しているが、ともに、政治次元での決着づけが優先され、環境土台が確立されていくようなものになっていない。
したがって、既存のものと同じことをしているため、反対派が勝利する必然にある。ウクライナ東部のように勝利しても、基盤がない、武力衝突へと後退してしまう。住民投票は、一見直接民主主義のように見えるが、「選挙」という代行行為の形態から脱出しえているものではない。日本では法的拘束性をもっていない。
プエルトリコやケベックなどで、すでにこうした分離独立と併合との拮抗は、なされてきている。

いま、どのようなものであれ、意見はほぼ半々に分かれる。事態が変わろうとしていることの、過渡現象だ。
これまでの、社会主義的な革命の仕方は、10分の1が、10分の9のために、国家権力を奪い取り、社会革命へと普及させていく、独裁型からの民主主義化であったが、そうしたものは、選挙による権力交代においても同様、根本からかわっていくことにはならないと、20世紀は歴史決着づけてしまった。もう無効である。
選挙で成立したアジェンデのチリ社会主義政権が、軍部クーデターでつぶされてしまったことから、日本の民主党のぶざまな政治破綻に出現したところまで、同じことが、別のベクトルからなされるだけで、代行政治は機能しない。

理論的に言うと、環境経済が下部構造ではなく、上部構造になり、政治が土台・下部構造になることが、場所政治の本質である。これがなされうるには、場所の自律としての自生エネルギー地盤がつくられていかないと、中央からの分配がそのままである物質環境状態が変わらない。つまり、水道・電気の生活インフラの場所統治が経済的に形成されること。政治表層だけ変えることではなされえないということだ。政治は、中央集権からの「分配の政治」に支配されている、それを場所環境からの「生産の政治」に転じる事、それが政治が下部構造になるということの意味である。「条例」を使って、国家法へ対峙し、相互共存の道を開いていくことがなされうる。その政治の質は、ネオリベラリズムとコミュニタリアンとを超えていかねば開かれない、「社会」概念空間を「場所」概念空間へ転じえていかねばならない。他方、反体制などの実践・思考などは論外である(アイルランド共和国軍の抵抗運動も執拗な動きをなしてきたが、もう力をもたない)。パワー関係のもろもろの対抗軸を、きちんと相反共存させていく多元的政治力をもたないと、不可能である。
もはや、国家設計=社会設計の時代ではない、それはもう実質機能しえない、それに代わる理念・ビジョンと新たな設計原理が希薄なのだ。
保持と変化とは、半々状態で、あらゆる面において出現しはじめている。それは、一義統治が不可能になっている徴候である。その相反共存は、日和見ではない、別規準の次元へ飛躍しないと、相反共存はなりたたない。高度な言説が生産創造されていかないと、領導へと向かない。

日本では、いつ、どこの場所が自律への動きを宣していくことになるのか。いつかかならず動きは起きる。戦国時代は、まだドラマ次元への共感でしかないが、イメージはもうそこへはいってはいる。政治の力能がおいついていないだけだ。
橋下の仕方は、既存の枠の圏域への縮小として、同じ地盤にある設計指針でしかないから、機能しなくなっていく壁に直面する。