デジタル資本主義の諸相:「日本のジレンマ」情報とは何か?の若者たちの議論


日曜の晩、NHKEテレの「日本のジレンマ」の「情報とは何か?」で、若い論客(?)たちが、「賢い」議論を紳士的にかわしていた。米倉以外に、誰もデジタル資本主義の限界と可能条件を対象化の閾へ、認識をあげえていない、体験的実感の既存の枠内のただ中にとどまっている。彼らは、「テクノロジー」を現実の基本地盤とし、人間をその対極へ布置し、「良心」的にウェッブ2.0からスマホ1.0への技術変貌を見ているのだが、思考形態は、二十世紀以前に退化しているのに気づいていない。データ・アクセス量の短期性を基準にしている限界を察知してはいるが、どうしてそうなっているのか、中層インテリ量化が民主的で、パーソナル化した良き状態であり、またアナログの知的存在が一部「支配」層からの多数者啓蒙であるとかんちがいしている。無自覚の知的コンプレックスの逆立が反映的になされているのだが、知の新しい形態へ接近しえていると錯誤している。
量化基準が意味をもつのは、普及欠如が埋められていくだけのこと、そんなもの民主主義でもなんでもない、ただの無い所に有るものが普及していくだけのことだ、商品論理から一歩も出ていない情報経済の仕方である。
「資本主義」の全体像も、まして情報・メディアの政治性も、さらには言語形式が思考におよぼしている本質にも自覚や認識がない。
米倉が「集合<愚>」だと指摘していたことだけは、現実<性>の転倒現象を認知していたが、それがわたしのいう大卒中層インテリによる「ポストモダン・ファシズム現象」をうみだしていることにまで気づいていない。テクノロジーの「未熟さ」を感知しているが、情報経済が、商品サービス経済の枠から一歩も脱出しえていない閾を認知できていないまま、テクノロジーの未来発展がありうるとしているように見える。
つまり、高度情報データ商品産業主義の対象化がなされえていないのだ。商品とは何であるかの認識など、微塵ももちあわせていない、サービス経済上での情報技術を論じているにすぎない十八世紀的「古さ」である。技術は、たしかに新しい次元にあるが、思考形式が十九世紀以前にしかない、大卒知のままとどまっている。NHKもマクルーハンを引き合いにだすが、情報理論を深化ささせたマヌエル・カステルもアルマンド・マッテラルトもスコット・ラッシュもターケルも情報理論として認識されていない、ディレクターたちの既存大学知以下の次元にある。
民衆は、新聞やTVのメディアなどに踊らされてもいなければ啓蒙もされていない、池上彰レベルの似非知の次元にもおどらされてもいない、無知な芸能人たちが関心しているだけのことだ、世界はそんな次元に存在していない。浮遊した若き知識人たちが、それを気にしているだけのはなしだ。彼ら知識人的な知の形式は、かつての書物知識人たちとなんのかわりもないどころか、大学知の停滞・退化した知識次元の枠内で、はるかに後退している。中層インテリ化は、何ら民主主義化でも個人化でもない、液状化されたセグメンテーションでしかない、その次元からの思考である。
フランス語をわかっているらしい一人が、コンピュータに向かっている身体姿勢とスマホを使っている身体姿勢とに違いがおきているといっていたが、ちがいなどはどこにもない、外在化されたデータと向き合っている消費がそこにあるだけだ、その身体の疲労がいずれ人間をとりもどすであろうと、生命的反応にゆだねてしまった閾へ「解」を放置している、そして情報消費ではない「情報生産」装置をみずからがつくっていくべきだとしていたが、テクノロジーと社会学との合体から「解」は開けていくだろう、というが、そんな次元から開けはしない、そんな大学知次元でしかものごとを観れていない滞留である。

ときおり、ふと、若い人たちが何を考えているのかと聞耳をたてたりするのだが、いつもただ愕然とさせられる。TVにでてくる水準はいつもそんなものだとおもったりはするが、<現実>はそんなものよりはるかに進んでいるともいえるし、まったく彼らより停滞しているともいえる。相反性の負的表象しか見えてこない<現実性>は現実ではない。論理がテクノロジーに負けるなど、あきれはててものも言えなくなるが、感性はテクノロジーに負けないという能天気さにも、驚愕した。理性は不能化しているが感性はまだあったのは、コンピュータ普及が学生たちの半分にいたっていない時期の段階でしかない、感性の浮薄化・麻痺はすさまじくすすんでいる、自己主体の感性しか感知しえていないからだ。感性は非自己においてしかはたらいていない、その非自己を喪失しているのだから、感性などはたらきようもないのが現在社会だ。規範社会の構造化・膠着化が、「集合愚」をうみだしているのであって、未熟な情報技術からではない。状況認識が、相当にぶれている。理性や思考形式は、情報テクノロジーの次元に従属などしない。言語形式の地盤変化をそれはなしえないからだ。いかに人工知能化がすすもうと、言語形式に変化がおきるのは五百年ぐらいの年月を要する。彼らが生きている間に、絶対的におきえない。ハリウッド映画がイメージしている次元ぐらいのことしかおきない。

なぜ、こうした浮遊した思考になっていくのか?
それは、旧来の商品経済の意味と、新たなデジタル資本主義の意味とが、なんらキャッチされえていない、貧困な知性であるからだ。あまりに勉強していない、と老人はぶつくさ言うほかない。
ちょっと気のきいたことを言うだけの、それは学校優等生知性であって、浅田彰あたりからおきてはいたが、真の思考からはるかに遠い。真の深い思考は、彼らよりはるかに周縁の少数にしかない、それは啓蒙的布置にもなければ支配の布置にもない、そこへ懶惰であることは、みずからをみずからがうらぎっていくだけのことだ。わかりやすさだけ馬鹿になっていることさえ気づいていない。

デジタル資本主義とアナログ資本主義のはざまで、わたし自身、指針のだしかたを呻吟してはいるが、デジタル資本主義のテクノロジーの可能条件は、その非分離・述語制・場所・非自己の技術次元においてのみある、ことぐらいは見いだしている。
かれらは、述語制そのものの日本語でしゃべっていたが、認識の思考形式はまったく主語制言語様態にあるため、主語化が非主体化を逆生産していることに気づきようもないでいる。概念空間が無意識のまま、社会空間と主語制空間におかれたままなのだ。つまり、情報技術の意味さえわかっていない。まだ、未熟だと感知しているだけで、可能条件の意味さえつかみえていないのだ。商品物象化、制度物象化、社会物象化の枠組みのままである。批判思考を無駄だ、無意味だとしている、似非肯定知性が「善人」の相をもって横行しているのだ。情報技術で命をかけて闘っていくほかない状況におかれているアラブやイスラム圏や中国の若者たちと、それはあまりに隔絶している、道具としての情報ツールの布置を根柢からみうしなって、表層の消費的技術いじりをしているだけなのだ。