現実を変えた、替え歌:チェコの、マルタ・クビショヴァによる「Hey Jude 」


原発の替え歌は、現実を変える力にはなりえないであろうとしたとき、それはイロニーによるずらしの力しかもちえていないためだ。
歌が現実を変えるわけではないが、現実を変える力をささえる歌はありうる。
1968年、チェコへのソ連侵攻にたいして、歌手マルタ・クビショヴァが、ビートルズのHey Judeに、新たな詞をつけて歌った、その替え歌はイロニーではない、チェコの現実を直視するこころへ響く歌であった。
https://www.youtube.com/watch?v=FPFgTRT7jGE
その歌が歌い継がれ、ベルリンの壁崩壊のあとの、チェコ民主化の現実をうみだしていく、二十年にわたって「マルタの祈り」とともに歌い継がれた。
共産党独裁、そのおぞましい愚行は、検閲・監視を徹底させる、全体主義の一様態であるが、マルタのレコードも焼かれた。
NHKのアーカイブスで、マルタに関するドキュメントを放映していたが、抵抗した国民的歌手として、1968年からずっと、その生き方をつらぬいた人だ。当時、わたしたちは、その存在も知らなかったが、ソ連・中国の社会主義国批判の姿勢は強く持ち、プラハの春を支持していた。民主化がなされた、その群衆をまえに、伴奏無しで、マルタは「マルタの祈り」を歌った。
まだ、民主化されていないとき、プラハを訪れたことがあるが、寒々としたあの広場に人影はほとんどなかった。民主化の後、そこは急速に消費経済化され、人の群れであふれていたものだ。
研究をふまえ論理的に、社会主義批判を徹底してきたわたしだが、実際に、プラハやキエフの実際を観た時、その確信を強くもった。
現実世界の批判は、産業主義経済と社会主義政治との、双方への批判でないかぎり機能はしない。人の存在と自由を麻痺させる、二つのシステムである。

歌の力で、もうひとつわたしが注目しているのが、チリのビオレッタ・パラのGracias a la vidaである。この歌は、ラテンアメリカの抵抗運動のなかで、かならずのように歌われる、とくにピノチェットの軍事独裁下で、夫、息子を返せと、母親たちが、放水車の水をあびながら、耐え、必死に歌っていた映像が印象的であったが、ジュネーブで、メンデス・ソーサのコンサートがあったとき、アルゼンチン独裁下で彼女のレコード盤をもちだして守ってくれたという話しを、彼女がしながら、歌ったものだ。感動的であった。
歌の力、ひとびとにうたいつがれ、こころの底から、力を与えてくれる歌、そうした歌が、フクシマの中から、まだできあがっていない。いくつかの、歌の創造がなされているが、こころへ響ききれていない。