NHKEテレ、吉本隆明特集を観て


昨日、Eテレで、吉本さん特集をしていたが、TVというものが、何も思想の核心を伝えられないという、当たり前のことであるが、あらためて痛感させられた。そこで語る「知識人たち」は一般論を言うだけで、誰ひとり、思想的なものを指摘しえていない、入門教科書にもなっていない、製作したTVディレクターたちの知的腐敗しか感じられない。詩やテープの断片文が、エッセンスであるかのように詐取表現される。思想家への客観化と思想自体の客観化とが、無自覚に混同されているからだ。すくなくとも、Eテレで、作家や思想家や作品を数回にわたってかつテクスト化もしていたように、5回、10回とやっていかないことには、最低限のものを示したことにはならない。そういうと、かならずのように、1度放映するだけでたいへんなのだと、量基準や内部事情からの裁定がはいりこんで、「質」の放棄がなされるのだが、そんなものはなんの力も意味ももちはしない、ただ映像消費されて、消えていく。自己表出と指示表出の図説明には、あきれはてたが(スターリン言語論以下へおとしめていた)、「対幻想」の布置にもあきれはてた、登場した知識人たちは、誰ひとり、吉本思想の内実へ内在化してそれを外化する自己作業をなしていないことだけが、はっきりみえたが、それはなにも吉本さんにたしてだけではない、すべての思想家・哲学者たちにたいしてもそうだが、Eテレ自体が、「教養」の水準にも達していない低次元にあるからだ。
TVでとりあげられたレストランやおいしい産物が、一時の反響をよんでも、やがて元にもどるかさらに衰退していくのと、同じである。

わたしは30代前半のとき、新聞やTVになんどか登場しつつも、そこでマスコミ次元での無意味さを知ってしまってから、いっさい断ち切り、「少数」での質の生産に専念すると、雑誌さえからも身をひき、自分が自分でつくるものへ転化したが、数分のコメントや数枚の原稿へ裁断されてしまうマス次元の表現は、文化生産にとっては世に意味・価値をもたないからである。
国家の共同幻想以上に、TVの共同幻想は、確固として大衆機能してしまっている、そこへどう対応しえていくのか、別問題があるのはある。それは、吉本特集の前の時間帯で、若い作家と若手俳優とが、ぐだぐだとおしゃべりしていたような次元のものだ、そういう「マス」に乗り得る意味次元である。
ある場所で、吉本『心的現象論を読む』講座をたのまれてしているが、1項目、1項目をひたすら読む、その作業は、YOUTUBEでも関係者たちによって流されているが、作業自体の70%は無駄になる、その無駄があってこそ、真髄へとやっとたどりつける。読み流しなどしているかぎり、なんにもたどりつけない。だいたい、みな中途で放棄する。てっとりばやい理解を欲するから誤認だけが蓄積されていく。
「語る」意味と限界とは、どうしようもないもので、それは「書かれた」ことと、ある細い1線でつながるものの、はてしない隔たりがある、その書かれた後者が、ほんとに読まれなくなっていく文明的退廃に、抗しうる地道な作業をひたすらしていくほかない。吉本講演集の刊行もなされているが、わたしには語られたことより指摘されて語られえていないものが、豊かにみえてくる、それは「書かれた」ほうにシニフィアンスの存在があるからだ。
真の了解水準は、吉本全集刊行者たちの血のにじむような努力からかろうじてなされているのであって、浮薄な便乗知識人たちによってではない。わたしが苦闘して読んでいる吉本思想以上の読みがなされてこそ、はじめて吉本さんの思想は生きる、それ以下のものは論外である。わたしの読みが頂点だとは言わない、最低辺の読みである。「読む」とは、お勉強でも解釈でもない、自己領有が了解の世界線へと立つ事である。
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