骨折して、世のすべての<分離>空間に気づく


正月元旦、初詣に、山奥深い神社参拝したところ、苔むす坂道で転倒、そこにあった側溝に足をとられ、足首骨折。
ヤマトタケルを祀る神社で、「国つ神の興隆」を祈願したため、ヤマトタケルの怒りをかったのかと思い、巫女へたずねたところ、そうではなく、神がもはやいないのだろう、魔物が占拠しているのではないかということだ。なるほど、神主もいない、村人が守ってはいるのだろうが、しかるべき祭祀がなされているようにもみえない、東国にはこうした神がいなくなっている小さな神社が多いのだそうだ。ヤマトタケルは、国つ神制覇をなしたのではなく、悪霊退治にかなりおわれたのかなと推察。国つ神と悪霊との識別は、だいじなことになりそうな東国である。わたしたちは、ともかくも、悪霊跋扈する日本橋は見捨て、神田界隈へ移動することにした。

どうしてもいかねばならぬ会に2度だけ無理をおしてでたのだが、松葉杖でひいひいしながら、駅から道路へ歩くだけで、連続していたとおもっていた空間が、すべて分離の接続でしかないことに気づいた。エスカレーターなど、あぶなっかしいといったらない、いちどはひっくりかえった。エレベーターなど遠い分離されたところに1本だけ布置されている。健常人からみれば、すべてつながっている便利な空間であろうが、じつは、あちこちでぶつぶつと切れているのが、歩けなくなって分かった。道すら分離空間である。ホームから外へでて、タクシーにのるまで、すさまじいいくつもの分離空間を、身をかばいつつふうふういいながら歩く。障碍者用の通路など、すこしも非分離ではない。基礎、土台がすべて分離なのだ。
たかが足一本、身体総体が、不能化される。着物はすっと着れるが、パンツ(われわれ世代はズボンというが)ははくのが大変だ。いままで使っていないというか、無理がかかっていない部位が、あちこち痛くなる。

ボルトを手術でいれれば、直りが確実で早いといわれたが、冗談ではない、この有機的身体内に非有機的物体等をいれこんで、身体総体がおかしくならないはずはない、拒否、自然回復を待つ。びっこになるかもしれませんよと、結構、もう歳だ、走る必要もない。書斎まで、はいつくばっていく。
おかげで、高倉健の映画、30本以上を確認出来た。
ひとつのことがわかった。物語全体をながれでおっていくとさほど感じなかったものが、いくつかのきわめつけのシーンだけ、確認で断片をみていると、ジーンと涙がでてくるほど、入念につくられているのがわかる。
残りは、網走番外地と藤純子の緋牡丹博徒。月内には、脱稿予定。
タイトルは『東映任侠映画 昭和残侠伝と緋牡丹博徒:高倉健と藤純子のジェンダー表象』、ちょっと長過ぎか?