吉本隆明さんの墓前に

7月末日、吉本宅へおじゃまし、完成させた『思想の機軸とわが軌跡』『思想を読む 世界を読む』を墓前におとどけした。
晶文社の太田社長とスタッフもいっしょに、多子さんの料理を味わいながら歓談。
吉本さんもよろこんでいると、墓前の写真をみながら、ほろ酔いの晶文社の松木さん、2書の販売ルートも開いてくださっている。
全集をだしつづける、晶文社と仲良くなって、多子さんも安心しておられるようだった。
わたしの仕事を、ずっと容認してくださっているのは、嬉しいかぎりだ。
横超忌で語ったことを太田さんが起こし、それが晶文社の吉本全集のホームページに掲載されている。

生前は、おこがましいとなるべく身をさげて、吉本思想を普遍思想・普遍理論へとひきだす回路をさぐり開示しつづけた。
今回、対談集として1冊にまとめることを多子さんから承諾いただき、1年以上かかってしまったが、まとめながら、25年間もずっとおつきあいさせていただいていたのだと再実感。
三交社がデータを提供くださったので、作業は助かったが、さすが35本もの量、いささかくたびれた。

吉本宅へお邪魔したのは、何十回にもなるが、いろいろな思いでがある。
わたしの処女作(1979年)に本気でとりくんでくださったのは、吉本さんであった、一番深く読みこんでくださった。
以来、自分の自己形成は、吉本さんとのおつきあいとずっと並走していたのかと、あらためて確認。
自分が、世界の現代思想・現代理論をぶれずに読みこんでこれたのも、吉本思想を規準にして対応してきたからだ。
その延長上で、「哲学する日本」のわたし自身の固有理論生産が可能になっている、それはわたしからの世界線をふまえての、<日本>を媒介にしての普遍理論の開示である。
吉本思想を了解できていないかぎり、わたしの理論は了解域へいたらない、わかられないはずだと自覚した作業でもあった。

わたしからみて、まだ吉本個人思想の理解水準からでていないものばかり、普遍思想にとりくんでいた総体閾を理解している人がいるように思えない、非常に了解が遅れているが、これからなのだろう。
学生時代、吉本勉強会を後輩たちと合宿で何回もレジュメにしながら徹底して読んだものだが、そのとき文学論は自己へ領有しきって身体化してしまった、そこから政治思想を外在的に読んだ。直接対話は、すべて本質論の視座からなしている。40年以上、徹底して吉本言説を読んできた自分であるが、直接に接し得てきたのは、ほんとにありがたいかぎりであった。
ひどいのは、吉本さんには直感があるだけで理論がないなどという学校化=大学化された知性からの無知な見解だ、述語論理の高度さがなにもわかられていない。
世界思想の水準で、欧米の主語言語論理からのものに比して、述語言語論理を徹したのは吉本思想である、これは世界最高峰の思考である。それを客観化しえていない日本だ(筑摩からの講演集の月報に簡単なエッセイを書いた)。
全集刊行が8年ぐらいかかるという、そこからだと思うが、その過程でこちらはすべきことはしていかねばならない。
とりあえず、「共同幻想論を読む」を書き始めている、自分でわかってしまっているため、明示していなかったことがこんなにもあるのかと自分にあきれているが、国家共同幻想は隠喩的、商品幻想や学校幻想、社会幻想などは換喩的なもので、幻想シニフィアンを設定していかないと、この書は読み得たことにならない、共同幻想は国家論ではないということをまにうけていてはだめなのだ、「国家共同幻想論」は家族幻想論と主体個人幻想論とともに明示していかねばならない。意味にはシニフィアンの痕跡は消されているのである。そして、意味作用=シニフィカシオンは多元的に開かれる。シニフィエは答えではない。吉本思想に答えなどはない、あまりに正鵠な探究指針がはっきりとある。

心的現象論の読解セミナーも、10月で終了する。ほぼ毎月、4年間やってきたのだが、それでも、まだまだだが、ある閾はみえた。
その理論編制ーー了解水準・了解様式・了解諸相・了解変容ーーを、「述語制の日本論」として日本語論として自分はまとめあげているのだが、心的現象論は、別様の言語理論だ、病論・異常論ではない、ラカンとつきあわせがその次に残っているが、だいたいの対応はつかみえている。論述が残っているにすぎないのだが、論述がねじれるためやっかいだ。
対象にしたものの考察と、思想そのものが意味するものとは違う。
共同幻想論は「国つ神論」としてすでに批判開示し、場所共同幻想の閾を示した。
言語美は文芸批評理論とつきあわせてまとめあげていかねばならないが、これが観念論の地盤になる。
3つの本質論は、相互変容している。

吉本思想がひらいた言説水準から、すべてがはじまるのに、だれもまだなしていない。
山のようなフーコー論、それに比して日本の吉本考察は貧困すぎる、意味されたシニフィエ閾でしか理解していないためだ。意味するもの*シニフィアンを生産するのが、固有思想の普遍化になっている、それをふまえて、新たな言説生産をなしていかねばならない。意味されたものの解釈しかしない大学人の言説は、ほんとに無効である。
普遍思想を創造した思想家は孤立する、普遍をめざせばめざすほど孤絶していくのは、見えない意味するものをつかみとって、既存の言説を超えてしまうからだ。マルクスしかり、フロイトしかり、フーコーしかり、ラカンしかり、そして吉本思想である。普遍理論は、これらの理論次元の総体化から、理論言説を創出して、痕跡から消されたシニフィアンを顕在化させていくことでなされる。わたしの普遍理論化も孤立していく、必然である。

普遍思想と普遍理論との交叉を表明したのが、今回まとめた2書である。