バットマン対スーパーマン、そしてワンダーウーマン

JUGEMテーマ:人生論

ジュネーブにいると夜があまりに暇なので、よく映画を観る。
バットマン対スーパーマンを観た。予想以上にシリアス。しかし、漫画はマンガ。映画も、マンガに負けているゆえか、大作はコミックヒーローものの映画ばかり、しかもタッグを組んで、同時登場が、ついにバットマンとスーパーマンにもやってきた。もはやひとりではともにもたないということか。だが、この映画、最後にはなばなしく登場するワンダーウーマンが、あまりにかっこいい。バットマンとスーパーマンの二人のスーパーヒーローをしたがえ、ひけをとらない、そして化け物に、いろっぽいアマゾネススタイルでたちむかう。大笑いだが、魅せる。
前作で、メトロポリスを救ったスーパーマンだが、そのときバットマンの会社ビルが崩壊し、バットマンの信頼する人が死んでしまった、がれきに呆然と立つ少女をすくい、スーパーマンの活躍に、疑いの鋭い目をもつベン・アフレック)バットマンがそこにいたという設定ではじまる。しかもスーパーマン)クラーク・ケントは、ゴッサムシティで悪を残忍にこらしめるバットマンを批判する記事を書いていた。ニューヨークではなく、ゴッサムシティが向こう側にあるのでメトロポリスになっている。
このふたりをたぶらかす、若僧が、あのソーシャルネットワークの俳優ジェシー・アイゼンバーグということで、オールド・ヒーローもこけにされたものだというのは、近頃の若者の大人顔負けのスキルにたいする皮肉か。科学者で青年事業家でもある、ポストモダンな悪を彼は演じた。やわだが、不気味な悪である。TVドラマ「ゴッサム」のテオに類似している。ウェイン家に対抗していた企業だが。
一方、スーパーマンは眉間にしわをよせた苦悩の姿ででてくる、その眉間のしわがとれたのは、ふたたび「わが世界」=地球をすくったことでだ。
だが、スーパーマンはなんと死んでしまう!国葬までされるが、棺桶の砂が動いている、よみがえり、つまりキリストになるということだろう。
前作「マンノブスティール」の、ゾット将軍は、あきらかにアラブ系、そことの対立であったが、今作は、内部のオタク若者である。
敵はもはや外部には無い、という現在性が象徴されている。つくりだすのは、電気エネルギーを満杯にした化け物でしかないが、スーパーマンが命をかけて戦うほかない怪物だ。
バットマンがスーパーマンと立ち向かうため、えっさほいさと筋トレしているシリアスさも笑ってしまうが、メカ・スーツでたちむかう滑稽さもなかなかいい。なにせ、人間が異星人と戦うのだから。
白鳳がブーイングされたらしいが、白鳳よ、地球を救ったスーパーマンも非難されるのだ、日本人の人種・民族排外主義の問題ではない、「強いこと」への民衆の敬意と憎悪、そして恐れがある、しかもバットマンや化け物に叩きのめされるスーパーマンの姿をみるといい。まける弱みがあってのスーパーである。もう、完全無欠のヒーローは存在しない、自分が自分であるほか無いという、育ての母のことばをこころにいだくほかない。
なにより、ワンダーウーマンの予告的な映画だ、この2作目よりも、ワンダーウーマンの映画公開がたのしみだ。

ところで、自分の思想・哲学をマンガにしようという話がある。哲教授の哲学マンガである。
そこには、「非学校マン」が登場して、「学校マン」たちの転倒ぶりを観察したり、ときに闘ったりする。ブラック・ギャグになる気がする。学校の無い社会がおとづれ、国民が自主・自由になりすぎて、政府があわててふたたび学校監獄をつくっていくとか。
箸マンが、「非分離マント」を着て、「分離」原発科学モンスターと対峙する。
風呂敷マンが、下駄をはいて、「述語制」を世界へ普及する旅にでて、主語制の宿や場所にとまっては、悪銭苦闘する。あるいは、主語制マンの外人が日本に来てあちこちでとまどう笑いをかもす。
モネが北斎と、水の描き方で論争する。ゴッホと広重が、木や雨の描き方で競争するも、ゴッホは雨を描けない、とか。「述語技術」マンが、それを調停する。
猿田彦マンが、現在にタイムスリップして、神が無い場所に神々を招いて、日本人がめんくらっていくが、やがて神をとりもどしていく。八岐大蛇は原発だ、となろうか。安彦良和の「ナムジ」「神武」「ヤマトタケル」を超える古事記ものをどう描けるのか。まったく変えねばなるまい。
「資本」マンが、「商品」マンと弥次喜多珍道中をくりひろげ、マルクスやケインズやレーニンや本田宗一郎や松下幸之助らと会っていくのだが、商品マンは賃労働マンや利子生みマンとリーグを組み、バブルや不景気をうみだして、ついに原発とともに崩壊を招く。そこへ資本マンが登場し、賃労働をなくし、環境マンとリーグを結成して地球をすくう。資本ウーマンにしたほうがいいかも。
などなど、マンガ好きの自分として、かけてみたい挑戦だが、まだこちらのイメージが浅い。実現するかしないか。日本のマンガは、欧米のマンガとちがって、述語的で非分離だとかつてマンガ編集者であったK氏は言う。わたしの思考にあっているというのだ。
自分の思考は「述語制の日本」で峠をこえるので、その気になって、実現してみたい。マンガで皮肉ったほうが、理論の意図がわかる。スーパーマンやバッットマンに対抗してみたいものだ、1938、39年に登場したコミックだ、大恐慌後である。荒唐無稽さが、読者をひきよせる、マンガの偉力がある。
だが、マンガはアニメではない、マンガ原点に立ってのマンガ化だ。