小池都知事のキモノと安倍首相のマリオ:リオ・オリンピック閉会式での表象

 

リオ・オリンピックの閉会式で、小池都知事はキモノ姿、安倍首相はマリオ姿と、非常に象徴的に現出した。

 

キモノ姿でのオリンピック旗の受け継ぎは、正しい。日本生活文化としてのキモノは、もっとも根源的文化地盤である。

開催地決定のときの「おもてなし」表明、そして、東京五輪への引き渡し時での「キモノ」表象、ともにわたし自身がやっていることの表出が、そこに表象されているのだが、確実な地盤であり新たな初まりの可能条件は、ホスピタリティとキモノにあるのは、すべてにおいての物事choseの事態situationである。

 

それに比して、安倍のマリオは、政治不能disablingをあざやかに表象したものになっていた。

ドラえもんとは、のびた君の不能事態にたいして助けてあげる、不能人間を対象にした行為表象の典型であるのだが、可能であるかのような錯誤を構成するものとして感知されている。それゆえ、産業化発展の不能さに対応する感覚として、世界普及している。

安倍政治の不能さを、ドラえもんがマリオを助けるようにして、安倍にマリオ代行させた。

マリオは、ラテン的なキャラクターであるゆえとりだしたのであろうが、ゲームは、敵を気絶させることだ。龜や蟹である。

舞台は土管からベルトコンベアーに転じられたが、産業化背景の表象である。

国民をカメ、カニ、そしてハエののろま、汚いものにたかるもの、としてあつかい、気絶させ、意識をなくし、本気の軍備なき、USAへの金魚の糞的安全保障と憲法改正をはかる、安倍政治の象徴は、ブラジルからのブラックジョークか、いずれにせよばかさまるだしの演出である。せめて、安倍もキモノ姿で登場か、ないしポケモンにでもしておけば、いくらかましであったとおもうが、ドラえもんやマリオがなぜ受けているのかへの認識、叡智がない、ただアニメが日本文化だと一般化された次元での不能対応がそのままでた。

ポケモンは、産業社会のあちこちに出現するバケモノ退治を代行する快楽消費だが。

USAも、スーパーキャラクターたちのアベンジャーズの連合、同盟へと、マンガ世界が映像化しているが、もはや一人では闘えなくなっている。スーパーマンは、救済したのに市民たちから疎外された。

 

大衆商品文化でしかない、アニメ、ゲームのキャラクター(マンガ自体はアニメとは違う文化)と、キモノの実体とは、まったく異質の文化基盤である。

それが、ナショナルな首相の不能表象と、場所的な知事の実質文化表象との差としてはっきり表象された。