マスコミで、国家政治をこえる小池都政の日々の報道

 

毎日のように小池知事の都政が報道され、安倍国家政治の影がうすれている、

東京都のことでしかないのに、なぜそれが全国報道されるのか?

それは、どこの場所でも起きているらしき共通さの「典型」であるかもしれないということと、実は、国家統合の本質が都政に露出しているのではないか、ということの二つの「推測」のリアルな現実性を表象しているからだ。あちこちで隠されつづけてきた物事が、露出して、「現実性」の根元にある「現実そのもの」が、露出していくことに、人々の関心がある。

それを、猪瀬前都知事が、「ボス構造が問題なのだ」とボケてコメントしつづけているが、「敵」を定めれば現実性だという崩れマルクス主義者発想から一歩も猪瀬の知性がでていないことを明示しているだけだ。「構造」といいながら、ボス主体の犯人探しをする思考形態でしかない。

そして、もはやマスコミに出現できなくなっている舛添前都知事が、隠れた利権構造にどっぷり便乗していただけであったことが、間接的に露出していく。彼は、安全性は確保されたと報告した最高責任者であったのだ。無知であれ、噓を言った最高責任者である。

 

築地市場の問題は、その小さな出来事の露出であるが、オリンピック関係では、どこまで大きな影の構造が露出してくるか、日本経済・日本政治の範型としての、崩壊と新たな可能性との双方が、不可避に出現してこよう。「日本を崩壊させよう」という「影の手」が、はやく露出していかないと、ほんとに日本は滅びる。影の手が誰であるかではない、影の手が作用しうる構造になっている日本の不備さがある。

他方、企業が自社利益だけのために「税」を奪い取ろうとする、悪しき経済のあり方の露出をもってそうした仕方は解体させないと日本は崩壊する、それは「ドン政治」のうすぎたなさの次元にはない、真の隠れた利権構造の市場経済と統治制との関係の問題だ。

それは、行政が「統治」をおこたってすまされる統治をなしている、悪しき統治の露出である。

 

築地移転は、建設業者たちが、利益にならないと敬遠、放置したことから、つりあがった建設費と、ずさん欠陥作業という、転倒の出現であるが、一般的に建設労働者たちを確保できなくなっている、それがオリンピック施設の建設の異常高騰化をもうみだしている。

つまり、サービス産業化が中心になって、商品消費経済の充足化の裏側で起きている、労働者不足の社会分業体制の崩壊的現象である。建造環境経済という国家経済のほころびが、建設費の高騰化をまねいている。また消費財の普及充足が、価格逓減をまねいている。

つまり、建造環境経済の蓄積様式の根源的転換が要されているのに、かわらぬ商品経済主義でやっていることの瓦解だ。

 

築地市場移転を「生活者」都民の目線から再検証するという小池知事の視線は、転倒した経済の限界を露呈させながら、いかに新たな場所経済を確立していくかにかかっていくのだが、社会現実を象徴形式凝集させた国家経済政治に代わる、場所現実を象徴形式凝集する場所経済政治の可能性が開けるかどうかに、存亡がかかっていく。象徴形式の水準が異なると、象徴形式自体がいかに転じられるかが明示されないとならない、それが未踏なのだ。

つまり、商品交換経済の効率性からみれば、建物の地下に隠れた土壌状態などはどうでもよい、これが移転促進派の利害規準になる。

他方、移転慎重派の利害は、環境土台に食品提供は関与する、環境土壌は環境統治しないと経済は成り立たないと規準にする、そこに変化への拒否という保守性が付帯する。

この経済原理、経済技術はまったく異なったものになる。前者は、交換経済に支障をきたすこととしてしか土壌の問題を感じない(それで怒っているにすぎない)が、騙されることへ依存してきた、その体質の結果が露出した、今回の出来事だ。

ただ、ここで小池都知事は、都庁職員を「粛正する」と社会正義の問題へ転倒してしまう。そうではない、都庁官僚は、ただ支配的規則遂行をなすだけであって、賄賂政策をしているのではない、官僚の存在根拠は、利益をとらないことが利益になるという仕方を本質とするからだ。利益をとる官僚は、賄賂として告発されてしまう。

官僚を動かす、その支配様式そのものがまちがっている、そこを転じてあたらな規則支配を形成してこそ、官僚統治のまっとうさをとりもどすことがなされうる。正義意識をもつことは、官僚はできない。「正しい」という規準原理は、官僚には無い。

 

だが、「委員会」形式の識者たちの認識構造が、「社会界」の社会空間として国家収奪された精神構造にあるかぎり、この可能閾は開かれない。かつての専門家会議が、答申をだしたままで、盛り土をしていなかったなど、知らぬという実際で出現している。「委員会」「専門家会議」が、ただアリバイに使われているだけである、そういう国家認識の構造に最初からなっているのだ。

原発委員会が、まさにその典型であって、安全検証を厳密化しているのではない、再稼働の可能条件を国家認識に基づいてなしているだけで、場所住民無視の認識を実行しているだけである。信仰なき信念の、忠義なき忠義の、従属なしの従属が、社会秩序の基盤を守るものとしてなされていくだけなのだ、それが、国家認識の構造の本質機能である。これはイデオロギーではない。電力が便利であるということと生活安全が第一だということとの対立における、象徴レベルの場所が蓄積の原初様式であるということの現れである。

 

場所の認識構造は、場所環境総体の認識に立脚する、そしてそれが開くのはパブリック空間へであって、社会空間の均質性へではない。パブリック空間は、場所ごとの違いの、そのプライベートな利害の相互関係を、相反共存させながら調整をはかる、そこを均質・均一規則関係へ抽象化しない。非常に高度な政治技術を要されるが、場所認識構造をもっていなければ、それはなされえない。橋本大阪政治は、それをある程度やりえたが、日の丸問題等、国家認識構造の解体にまでいたらず、圏域政治を社会政治の縮小版でしか構想しえなかった限界にある。

 

小池都政が、どこまでやれるのか、それは国民総体が、安倍政治以上に関心をもっていることなのだ。

国家は、容易に自らを押し付けることができる時代が終わってきていることが、かすかながら出現している兆しであろうが、しかし、逆に隠れて何をしでかすかわからない、ということでもある。