ブルデュー国家論を読み終えて

とりあえず、600頁の「国家について」を読み終えた。三ヶ月かかった。

その間、ブルデュー国家論、吉本共同幻想国家論の、ゲラ読みをかねていたから、実質は2ヶ月ぐらいだろうか。

シンプルな書だから、すんなり読めたが、いざ逐語訳的にやると、それなりにさすが緻密ではある。

1989_1992年までの3期であるが、25年も前の思考だ。1、2期目はそれなりにおもしろいところがあったのだが、しかし3期目は、つまらない。官僚制が、王の家から、不可避に発生してくるとき、法律家たちによる司法界の普遍化がなされる歴史経緯なのだが、歴史の社会学的な見方が、シンプルな視座からなされているだけで、3期目の逐語訳はやめた。まとめても、意味あるとはおもえない。ただ、12世紀から18世紀にたいして、日本の分析をするときの見方の一つの参考手法にはなるものがあり、それを「武士制」においては、幾分活用しようとはおもった。

とるべき点は、「家の論理」が、国家の論理になっても残存する、同胞愛とか父子関係とかいうことだが、それをみて、なるほどSTATEを「国家」と訳語をあてたのは、本質をみての言表化であるのかと、逆に関心はした。たんなるイデオロギー訳ではなさそうだ。母国といったり、「家」の論理がたしかに国にたいしてはとられている。

だが、理論的には、それでは何もいっていない、のみならず、共同幻想国家論を仕上げたものとしては、対幻想が国家的共同幻想へ統治制転化されることが、ブルデューには何もみえていないのだということが、確認される。「国家の神秘」だとか、国家は複雑で難しいとか(そのわりには単純化されている)、illusioだとか言っているとき、幻想界へ直面しているのだが、気づくよしもブルデューには(またフーコーにも)ない。illusioを盲目だとみなすしかないブルデューである。幻想初源論とわたしがくくった閾がまったくないのだ、それは禁制、憑人、巫覡、巫女、他界の論理相になる。吉本思想の偉大さが、こういうときつくづく感じられる。

人類学的考証の成果が、アジア的なものとして不在であるから、アフリカと中世西欧化がくっついて、そこが対象化され得ないことになる、西欧論理の限界である。中に、中国論と日本論がでてくるのだが、まったく粗野すぎて、しかも認識がとどいていない。

「一般社会学」の講義は、2巻目もでたが、その方は圧倒的におもしろい。だが、あえて論じようとは思わない、すでに語られていたことを多彩化しているものだ。

いずれにせよ、理論後退してしまったブルデューの「国家について」である。

「国家はわれわれの思考の中にある。国家についてはラディカルな疑いをもたねばならない。国家の歴史は、その歴史にたいする我々の考えの歴史だ」というのだが、フーコーや吉本の方がはるかに本質に近づいている、機能的関係を明示するだけのブルデューである。だが、現実的な国家に近いゆえ、ここはふまえねばならない。

どう料理するか、これから考える。活かさないかぎり、無駄骨になってしまう。

フーコー、吉本をもってひきあげないと、マルクス主義国家論の修正国家論になってしまう、邦訳されたとき、多分にそうなろう。

期待してのぞんだ「国家資本」が展開されきれていないのだ、ただ「メタ資本」として設定されるにとどまる。これに、がっかりした。非常に有効な概念であると思うのだが。

 

わたしの学校論が、古本でAmazonで3万9千円でだされているのを知った。在庫が山ほどあるのに、市場経済の自由でこういう現象が派生するのも、国家配備が背後に、経済規定を構成しているから、末端でこんな現象がおきる、支配ではない、統治制的に配備されているものごとである。国家論は、こういう次元にある。どんな小さなことであれ、国家にすべてが集約されていく構造があるのだ、それがブルデューが開示した国家論になる。