トランプ大統領体制で、なにが本質的におきているのか

 

大統領令を乱発し始めたトランプ、またこれまでの言動、それはUSAの国民の半分が支持し、容認していることであり、半分が反対していることであるが、なぜ、こんな存在が出現しえているのかである。

それは、この間、世界が「普遍的である」として普遍化してきたものが、もはや機能しなくなってきているのを表象意味している。

揶揄的にいえば、2チャンネル大統領の出現であるが、2チャンネルの「匿名知性」は、隠れたポストモダン・ファシズムの温床であるが、それが公の「大統領」しかもこれまでの蓄積における「帝国」に出現してきた。

個人的な人格権力とは、公的権能のプライベートな領有であり、その権能をプライベートに行使することが、ソーシャルに正統性に支えられて(公職であるという正当性)実行されていくもので、かつての王朝国家においてなされていたことの現在的残滓である。トランプはそれを前面に躊躇無くおしだしてきた。

公的権能と私的権力を分離させた王朝国家への切断は、官僚制による普遍化のオフィシャルな遂行であった、その普遍化の停止が、なされはじめている。つまり、官僚制がのっていく地盤が、官僚自体においても移行し始めていくのだが、ここが一番危ういのであって、トランプ個人の意志が危ういのではない。トランプを支えていく体制や代行行為が危ういのだ。(すでに、JALやANAは乗客拒否を代行しようとしている、お客自体に「迷惑かけない」ためだとしているのであろうが、実際はもう完全な代行である。そうやって拡大していく。)

ここには、「国家」が前面におしだされて露出してくる。普遍化のなかで、巧妙に隠れていた「国家」が稚拙な政治資本によって躍り出始めているのだ。しかも、「国家はわたしである、アメリカはわたしである」と言わんばかりである。

 

この出現は、奇妙な錯綜をこれから多様な現象で輩出させていくであろうが、本質は、プライベートなものがソーシャルなものによって社会的に変様されていた、そこが、トランプ的なオフィシャルな正統化によって、ねじまがって解放されるということであり、パブリックな可能閾を喪失してきたUSA的編制が、さらにパブリックな存在を押し殺す暴挙にでてくるということにある。潜んでいたKKK団の愚行が大統領と手をたずさえて横行しうることが、プライベートな諸個人を代行者にして拡張されていくことになる。有色とされる子どもたちがもうその犠牲者になってきているが、青年へ拡張されたとき、物理的暴力化としてさらにはげしく露出し、陰険な大人たちによって遂行されていくであろう。もはや、「アメリカ帝国主義」ではない、ドイツ・ナチズムを映画で徹底的に叩きつづけてきたUSAが、相互変容していくということだが、もはや単純なファシズムでもない、ポストモダン的なそれになろう。新たな命名がなされていくのも、時間の問題である。

USA大統領府はあらたな「宮廷」の再来となって、「王の家=トランプの家」の人格的君主が、外部の公的空間=アゴラ/フォーラムをつぶしはじめていく。USAには、王朝国家がなかった、それが新設されていくということだ。私的でかつ公的であるのが、宮廷である。官僚制を内在していながら、ひとりの人格に利益が集中化されている様態である。

トランプの一声で、私企業が右往左往し始めているのは、政治的諸手段の集中化が、私的権能の政治的剥奪=収用をともなう、という近代国家の発生期の実際を再出現させている。私的権能者たちの強制収用をなす「君主の意志」を出発点にして、近代国家は発展した。経営手段、軍事手段、財政手段を所有して、政治的に利用可能なあらゆる財を所有しているすべての私的権能者たちが収用されはじめていくということだ、トヨタの裁断でさえ自発意志のつもりだろうが、もう剥奪されているということだ。

日本自動車界が、USAに貢献しているなど数字でいったところで、人格的権力者には関係が無い、主観意志の象徴機能はそんな経済具体の次元に等はないからだ。

国家論が無い政治家たちには、わからなくなっている次元がある。

 

保護貿易化は、現実にもはや不可能である世界市場とUSA国家市場とが、市場矛盾をいかにおこしはじめるか、まるでショーを観るかのように見守るしかないトランプ劇場であるが、非トランプの国家間連合がなされないかぎり、対抗処置はとられまい。6年後を待てば嵐はとおざかるなどと高をくくっていると、世界は崩壊へと引きずり込まれる。

だいたい一般的に、程度の低い者は、高度な者が操作・操縦しうるとふんでいる誤認が一般化しているが、それは絶対的にありえないことで、低度な者はその次元でしかうごけないのだから、その低度にすべてが牛耳られることにしかならない。

『ブルデュー国家論』(2月末刊行)をまとめてその限界を批判思考していたなら、トランプのことを言っていること自体に直面してしまった。

愚行は喜劇では終わらない、悲劇にしかならない。

 

普遍的なものへの一元化によって、他の可能条件が記憶喪失になっている、それをとりもどし先行させていくことでしか、普遍を乗り越えることはできない。トランプは既存の同じもののうえにしかたっていない、普遍によって自身が背反されていくが、もうその普遍は機能していく力をもっていないゆえ、ともに滅びるから、反動力が脅威になる。安倍政権もその類いなのだが、代わる政治資本が日本のどこにもない。小池地方自治体が、かろうじてもっているといえようか、USAの知事たちの動きが鍵になろう、場所からの力だ。