今村復興大臣の「失言」という本音のシニフィアン:主語制シニフィアンと客観へのシニフィエの共謀

今村復興大臣の立て続く「失言」によって辞任を余儀なくされたが、政治資本の低下現象に、本質的に主語制様式の完徹した様態と、客観への総合を伴った、国家資本の現象の現れを顕著に見て取れる。

巨大地震が、「東北のあっちの方でよかった」という主語的判断は、客観データの総合化において保証される。実際の被害総額、被災状態は、はるかに都市型であれば膨大になる、それはどんな素人であれわかることだ。それに、価値判断をつけた、つけてしまった、主観の主語的シニフィアンが、「東北の被災者たちの心を傷つける」という、主語制の客観化の判断基準から、同じく批判される。同質である。主語制基準からは、今村大臣は、被災者を慮っていない、他方今村への批判は、被災者を慮っている、と対立させられるが、主語制シニフィアンが客観によって保証される、客観シニフィエが主語制シニフィアンによって判断される、という形式様態は同一である。

災害は、巨大であろうが小さかろうが、シニフィアンを破壊する。そこに、意味化などの作用は全く意味を持たない。科学的測定のシニフィエも、全く意味を持たない。つまり、国家資本などを超えた向こう側に起きる「破壊」「悲惨」であって、シニフィアンが崩壊している。

今村に考えがないのではない、考えがあるから、そうした発言をしている。日本一(世界で30位以下の)の東大卒の学歴資本が蓄積している、主語シニフィアンの典型である。それは、シニフィアンによってシニフィエは多様に拡散しうるということが排除された、シニフィアンが一つのシニフィエに合致すると「考えられている」思考形態、認知構造になっている(矮小化されたソシュール構造)。

政治資本が、そのシニフィアンとシニフィエとが同調するのだ、と「考えている」言動に落下しているのだ。安倍首相が、謝ったから、「そういうことなら」と撤回し、党本部が圧力かけたから「改めて」謝罪し、「否応無く」辞任しただけであって、被災者側への考慮などは、最初からない「復興大臣」の政治資本である。それは、官僚構造の元で、復興費の不正使用を含み、被災者が未だに仮設住宅で過ごさざるをえない実状に結果している「客観」から保証されていたことだ。

新復興大臣は、福島出身で、自分も被災した、被災者の最後の一人まで見捨てない、と「自負」を持ってやると言っているが、構造は主観シニフィアンを超えてシニフィエされてしまっていることを、超えるシニフィアンを働かせることにはなり得まい。

 

記者、マスコミは、発語されたシニフィエを、掴み取り、攻撃するが、シニフィアンの政治作用の本質を全く掴んでいない。

安倍の直後の謝罪は、シニフィアンを変えて、シニフィエを拡散させる政治手法であった。そのマヌーバ性を、シニフィエしか見ていないから、記者、マスコミは批判できず、「任命責任」というシニフィエを問うだけである、野党も。任命責任のシニフィエを先取りして、攻撃される前にかえてしまった、姑息さである。

安倍政治のシニフィアンを把捉し、批判しない限り、安倍体制は存続する。蓮舫の言動が、全くダメなのは、意味されたもの=シニフィエへの与党批判をしているだけだからだ。シニフィアン主体を問わず、転倒したシニフィエ主体を攻撃しているだけのお粗末な野党である。シニフィアン主体とシニフィエ主体とは、別の場所にいるのだ。「発話された主体=シニフィエ主体」は、発語したシニフィアン主体ではない、シニフィエには存在していないのだ。

政治は、シニフィアンである。シニフィエではない。言い換えると、多様なシニフィエの可能条件に対して、いかなるシニフィアンを働かせるかである。シニフィアンは、シニフィエを持たない、シニフィアンスにおいて働く。その間に、多様なシニフィカシオンが作用する。

政治家は、言葉に気をつけろとは、この作用が、露呈するからだ。

だが、主語性シニフィアンに固着してしまった認知構造は、今村に典型なように、言語の一致が何を派生させてしまうのか、全く気づかないで「知っている」思考構造にしかならない。二階幹事長も気づいていない政治資本になっている。

姑息なシニフィアンを働かせているのが、官房長官、そして安倍である。だが、そのいくつもの「シニフィエ」が入る袋は決まっている。

原発爆発の直後、TVでコメントしていた原発科学者たちも同質であった。爆発したシニフィエさえ隠した。科学資本が政治資本に服従して低下している典型であった。

国家資本に届き得ていない政治資本ばかりだ。

 

主客分離の主語制様式は、必ず「客観への総合」を客観化することで、シニフィアンとシニフィエとが同一する物事を作り出す。実際は、同一などしえない。ゆえに、実際現実に届かない。ただ再認様態に届き、同じことが再生産されているだけだ。

日本人=国民の半数は、まだ述語シニフィアンを領有しているから、主語制シニフィアンの限界を感覚キャッチはしている。だが、思考形態は、ほとんど主語制認識アクトへ転移している再認構造へ入っている。

シニフィアンの構造は、しかし、複雑である。簡素化して、わたしは言っているに過ぎない。

知られざる知は、シニフィアンの結びつきの中に閉じ込められている。