<賃労働ー資本ー制度>と<土地>:反経済の経済転倒

変えるべき関係は<資本ー労働>関係であって、<資本家ー労働者>の人格的関係ではない。

マルクス主義者たちは、資本家否定に連動させて資本を悪だとして批判否定するが、賃労働を否定しない、<資本ー労働ー土地>の<利潤ー賃金ー地代>の三位一体への考察において、その総体への批判解析であったのに、労働者・労働を神聖化する。

土地の商品化は、不動産業の興隆を、ハウジングと共に、地代とは別次元へと構成してしまった、マルクスの地代の理論構成は、「制度」論として読み解ける。つまり、現代社会の編制は、<資本ー労働ー制度>の三位一体が、土地の上に構成される構造になっている。ブルデューの「経済の社会的構造」論は、住宅市場論であるように、賃労働者は自己住宅の所有のために、身を削る賃労働へつく。支払い得ていないのに、住宅ないしマンションを購入し、そのローンの支払いへほぼ生涯に渡って束縛される、それが給与労働者=賃労働者のライフスタイルの基軸になってしまっている。

賃労働というと、工場肉体労働者のようにイメージされるが、一般には給与労働全体を指す。大企業の社長たちも賃労働者だ。

 

お金がお金を産む「利子産み」資本は、もうスイスでも終焉した。かつてのプライベート・バンクの面影はもうない。金融監視世界が、金融の破綻としてなされている。また、日本の主要都市銀行に、もうお金はない。

つまり、お金でお金を儲ける「不届き資本」(資金・資産化された資本の使い方)は、終焉した。

わたしの言う「和み資本」の次元が開かれることだ。

それは、賃労働者から、自らが離脱し、様々な生産手段が社会化されて自由市場に配備されている、それを活用して、資本者として自らの能力・技能を生産活動へとなしていくことである。

資本をなくすことでも否定することでもない。自らの資本を、制度資本から切り離し、実質の自己資本として創造的生産に当てていくことである。それによって、束縛されたものでしかない賃労働を無くし、自らのワーク=仕事としていくことである。

戦後日本に「資本主義」などはない。10兆円企業はトヨタ1社ぐらいしかない。ソフトバンクの売上高などただの1兆5千万円ぐらいでしかない。アップルは、20兆円を超える。

日本は、「産業社会経済」でしかない。別に言い換えると「賃労働社会主義経済」である。

 

一方、大学知は、東大で世界30位ぐらいで、文系は、はるかにもっと低いのは確実。それを頂点とした大学知など世界で、通用しない。大企業などは、大卒知で管理運営されている。

すると、そうした大学知次元が社会で機能すると、例えばグローバル化で、企業内報告書や会議は「英語」でやろうなどと、やっている。

英語のような主語制言語で為したとき、述語制の言語資本能力が破壊的に踏みにじられていくことを、全く自覚していない。英語で語り書けるようになることは別にそれでいいが、それを強制することによって企業能力が高まるなどと誤認していることの知的劣化が起きているのに、気づいていない、というようなことになる。愚か極まりない。英語を話す意味など、街角で外人から英語で問われた時、対応できればいい、それぐらいの意味しかない。

日本と交渉するなら、外国人の方が日本語を勉強すべきことだ、ナショナリズムではない、相手へのレスペクトである。

かつて、大学の教授会で、英語で大学案内書を作ろうという提案に、中国語の教師が、英語ネイティブの留学生より韓国や中国、アジアの留学生が圧倒的なのに、何で英語なのかと疑問を投げかけ、皆黙ってしまった。そういう、勘違いのグローバル認識だ。

英語で、わたしも論考をかつて記したことがあるが、そのあまりの単純言語で、思想的表出はなされないゆえ、やめた。言語資本力が落ちる。述語性思考の言語構造は、英訳など不可能である。

巷で、たくさんの外国人たちが流暢な日本語を話す、海外の研究者たちが怠慢なのだ。

 

日本の<資本>、特にその「文化資本」は非常に高度である(拙書「哲学する日本」1、2)、それが何ら対象化されないどころか、日本語は曖昧言語だなどと哲学者までもが転倒誤認する始末だ。日本語の述語表現の論理は、西欧語の主語・述語・コプラの思考論理よりもはるかに高度である。

 

日本の産業化・近代化は、述語性を主語性・客観性へと転じ、「資本」喪失の発展でしかなかった。賃労働者化は、世界でナンバーワンと言えるような水準であろう。初任給平均がおよそ20万円である。ボーナスが加わって、400万円台から700万円ぐらい、それ以上もあるが、月収制をとっているのはいざとなった時の危機対策である。手取りはもちろん、ぐっと落ちる。とても、資本主義先進国であるとは言えない。産業社会主義経済だ。何とか、生活が成り立つが、安定しているメリットがある賃労働者国だ。3800円上がった、などという水準である。

だが、なんだかんだといえ、賃労働としては、一般に「良い国」である。

賃労働である限り、剰余労働分の剰余価値利潤は、会社に取られる。でないと、会社は回転できない。搾取ではない、賃労働形態である限りの必然だ。

大企業は、大赤字になっても、給与を払わねばならない。それゆえ、社会的に潰れない。失業者を出すわけにはいかないと、社会主義的である。福祉国家だからではない。国家に、そんな力はない。

マネーは循環している、なのに消えていっている。国民の貯蓄分がある限り破綻しないだけで、もう時間の問題だ。預金も消えていっている。賃労働社会は、発展成長過程では社会力を発揮するが、究極、破綻するしかない仕組みである。

かつての労働者の闘いは、生産労働への寄与となっていくものであったが、今のそれは消費利益を確保するものでしかないゆえ、組合などの意味がなくなってきている。そこを賃労働マルクス主義大学教師は分かっていない、いや、マルクス自体を分かっていない大学知マルクス主義である。それは、大卒知の社会認識一般になっている。企業組織思考、官僚思考は、マルクス主義の典型である。

国家権力や権力が、自分の外部にあり、それが人々を抑圧支配しているという考えだ。この考え方は、実験行動心理学が明らかにしたが、自分の側には意志がないということになって、物事は人が決定する、自分に関わりないことだとなって、倫理観が破綻していく。賃労働意識は、それになっている。従順だが、倫理観はない。政権が共謀罪を決定した、政権=国家権力からお墨付きをもらった、と排斥行動を取り始める。国家がそうしろなどと指令していない、賃労働国民の側がそうし始める。賃労働意識は、政治的自律性の麻痺を効果させる。

 

利益は、ワークからしか生まれない。そのワークが賃労働である限り、生産性は劣化する。

マルクスが、1850年代に証明したことが、今、総体で起きてきている。資本論ではない、「要綱」である。資本論では、理論的な後退が起きてしまっている。<資本ー労働>関係を、<資本家ー労働者>の搾取関係へと転じてしまったからだ、労働技能を労働力へと退化させてしまった。そこを割り引いて資本論は、要綱とともに読まれねばならない。

無自覚に遂行されている社会主義化を批判的に乗り越えていくためにも、企業人は、資本論・要綱の「知識」ぐらいもっていないと話にならないのに、それを読めないのが大卒知性である。

地代への支払いが経済劣化を招いたように、制度資格への支払いが劣化を招いている。資格は、実質の技能・能力と関係ないからだ。土地所有は、農業地の劣化を引き起こしている。

土地は、本来は領有対象であるべきで、所有対象であるべきものではない。

 

<利子産み資本ー賃労働ー制度資格>は、反経済であること、土地の商品化も反経済であること、反経済のシステムが経済を停滞させている。

資本経済を真っ当に動かしていかないと、崩壊しかない。資本経済は、国家政策にはならない、国家政策は商品経済化しかしない、統治できるからだ。

だが、述語制様式を取り戻す高度な国家資本は、資本経済化を助力しうる。

 

資本経済は、場所から、また諸個人が資本者になることから、なされていく。

自らの技能・能力は、自らの文化資本である。それを生産へ自らで活かすことだ。