田原坂を観る:西郷はなぜ、戦ったのか:場所戦争の最後

1987年に作られたTVドラマ、「田原坂」を2日に渡って観た。

里見浩太朗が西郷。よくできているドラマになっていた。

 

「田原坂」を知ったのは、藤純子の「侠客芸者」で、藤が踊った舞を調べていたときだ。西南の役の唄であるのを、そのとき知った。東国に住む私たちには、あまり馴染みない唄であるが、薩摩にとってはよく知られているのであろうか。

記号的な年表の中で、征韓論に敗れた西郷が、下からの士族の突き上げでやむなく戦ったと表層でしか知らない出来事であるが、学校知で明治維新の矛盾、薩長土肥の対立、といった表層でしか認知されていない。佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱、秋月の乱、といった士族の乱の最後の西南の役であるが、ただの不平士族の反逆としか認識されない、国家資本の側からの認知になってしまっているものだ。だが、西郷は、戊辰戦争で、幕府を滅ぼし、政府の中枢、参議、陸軍大将であった、それが下野し、政府に尋問ありとす、と決起した。しかも、8千名の部隊が、2月から9月まで、7ヶ月に及んで持ちこたえている。ということは、民衆に支えられていたということである、それなくして食料が備給されるはずがない。政府側の大久保利通は、西南の役の翌年に暗殺される。

2018年、明治元年から150年、明治維新が、根底から見直される年になろうか。

NHK大河ドラマも、「西郷どん」である。林真理子知性でどこまでしうるか疑問であるが。

 

見直しの根源は、国家=社会的な均一統治と場所多元との対立の、捉え返しになる。廃藩置県は近代統治に不可欠な統治技術の転換であったが、軍事や産業だけではない、国家語の学校化を伴い、言語資本の主語制化が目論まれた、その限界に至っている150年の見直しになる。国津神を封じ込めた近代統治の共同幻想の国家化の限界である。史実の真偽の問題ではない、統治技術の国家資本化の偽装・擬制の歴史観、その理論的な問題である。歴史学者たちの対象への客観化における主観関係の限界の問題だ。立憲民主の政治資本の限界でもある。

将門の乱に始まり、天皇統治への反逆とみなされてきた、歴史上の様々な「乱」には、乱の義がある、しかも、それを天皇への逆賊と配置した官僚統治裁可があるだけで、天皇=天津神への反逆ではない。場所魂の存在表出である。その視座から見ないと本質へとどかない。権力者に反乱し敗れたから「乱」であるというシニフィエで考えてはならないということだ。出来事の客観化において、消し去られているものが膨大にある、認知の仕方である。

西南の乱とは言えないものは、戦役になったからだというだけのことではあるまい。

 

明治維新において、統一的幕府統治は腐敗したが、場所の藩統治は矛盾対立を抱えながらも腐敗していない。「勝てば官軍」でしかない、といった官一元統治の限界である。統治アートの視座からの歴史の見直しが、なされるべきことであるが、ナショナル空間が設定されての歴史観では解けない。鳥羽伏見の戦い、会津城の合戦、五稜郭の箱館戦争、そして西南の役までの明治の10年間、それを国家資本の日本国家論として、場所から見直してみる一年間になりそうだ。場所復古維新であろうか。712年古事記と720年日本書紀の1300年の間での見直しだ。

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