佐川元理財局長の国会証人喚問にみる「人格的関係における<規則的人格>の結晶体」

 

この人、個人の問題ではなく、官僚<局長>の構造化された究極の<規則的人格>の結集物であると思う。

人格関係の物的人格への転移は、マルクスが論じた閾であるが、それを制度化社会はさらに抽象的に具体化して、社会的代行者を個体から分離して、全く別ものへと作り上げるのだが、「朝から晩まで、夜通しで」「ボクちゃん答弁の準備を一生懸命やった」ということが前面に出ているだけの確信があり、コンテンツやコンテクストなどへは了解がなく、まったく内部機構的な規範・規則的「処置」にしか動けなくなっている、<規則的人格>の完成体がそこにある。これは、改竄しようが、規則遂行上の不備さえなければいいという、企業でもあちこちでなされたデータ改竄と同質の線上にある。

彼=官僚局長には、その時、公文書改ざんという「犯罪」をなしたという自覚認識はない、一生懸命規則ルールを間違いなくうまくやろうとしたことに、どうも納得しない人たちがいるようだ、ぐらいの「実存」しかないように見える。うまくやるやり方に、ちょっと粗雑さが入っちゃったなぐらいの実感しかないから、「丁寧さを欠いた」という認識にしか至らない。虚偽答弁をしたという認識などは、全くない。

佐川には、文書改ざんをなしたという犯罪感覚など、微塵もないのだろう。

ただ、国会答弁の「処置」を乗り切ることしか頭にない。だから、朝まで毎日必死にやった、どこがいけない、となっている。答弁さえこなせばいい、という仕方である。試験だけとおってしまえばいいという、大学システムの下での教育システムの仕方だ。知性は、規則に従った処理の仕方、進め方にしか活用されない。

 

「刑事訴追の恐れがあるので差し控える」という拒否の、その内実こそが真実であることを、この人格はもうわからなくなっている。

拒否したということは、改ざんを実行したということを意味する。していないのなら、「していません」と言えばいい、だがそう言ってしまうと否定が事実の表明になる布置にあるから、言えない。偽証罪になってしまう。

つまり、否定表現できない、回答拒否しかできない。

回答拒否という否定は、否定表現と違って、拒否されたことに真実・事実があるという表現の仕方である。言っていないか、嘘厳命ではない。詐述の究極形式である。約50回の、事実があるということになる。

そして、「申し訳ありません」の言表化には、そう言っておけばその場は保てる、その他にはないという、<規則的人格>としての人格確保があるだけで、多分、心も喪失してどこにもない。強靭な精神力ではない、精神の喪失だから無機質になっている、そういう官僚業務の日々を送っていかざるを得ない構造しか、官庁には無くなっている。

官僚エリートが、「知的」損傷に陥っている、それは総理大臣も同じだ。関与したのではない、「関与しないことによって見えない関係で支配をなし得ている」安倍体制の構造が全ての元凶であるのに、それが不在化されて、実在がなされるという構造の完成体だけがある。実体が自己原因である構造が完成されているから、自己原因を不在化できる、そこまで内閣人事局体制が成功したということだ。

そこでは人格的に、知的損傷にならないと、国のリーダーになれない、という社会現象が結果している。大学知システムの大卒人知性が生み出した、日本の最悪の効果である。手続きだけ、なんとかうまくこなせばいい、実質などどうでもいいという仕方だ。

自民党側は、自分たちに不利になる証人喚問でなかったから、それ以上の追求をしない。国民の判断に任せる、とした時、国民の無知さ、愚民さに依拠するという政治姿勢になっている。

それを許す国民に成り果ててしまうのだろうか?

佐川は、補佐人弁護士を通じて自民党と結びついている、それでひょっとしたなら助かると思い込んでいる。

国会への完全な愚弄だ。「文書はない」と繰り返した虚偽発言がまかり通る、去年の佐川の答弁、それを容認している国会である。

 

そこで、さらに驚くべきは、午前中のは、共産党以外に、真っ当なと言える質問をし得なくなっている、これは、逆に恐怖だ。佐川が動揺したのは、共産党からの問い詰めだけである。正しい問いを立てられるのが、共産党しかしない、他が、正しい、真っ当な問いをなし得なくなっている。これは、スターリン的粛清裁判の兆候である。その証拠に、午後の共産党からの追求の仕方は、脅迫的な正義の突きつけになっている。右の方からの全体主義化と、左の方からの粛清化、その共存的ドッキングが、底でうごめいている。間は、全くの不能。

午後の質問で、まっとうだったのは、公明党だけ。権力追随与党。

つまり、客観化を客観化しえているい位置に立てたのは、この二つだけだ。あとは、野党は、同じ繰り返し。

他方、自民党は、総理大臣、官邸が「何も関与していない」という証言をとって、党利の保存を図っただけで、口先だけの「国民の疑惑を晴らす」として、自民党安泰をなしているだけで、党内反対派を封じているだけだ。見え見えの安っぽい政治である。

 

「正しいという主張が、相反しながら対立にもならず、裁判行為が政治だとされ、「真実」は究明されるべきだと、建前だけで一般化して述べられ、他方、訴追の「保証!?」、助けの名のもとに事実が隠蔽され、つまり、裁判行為が主導になって、政治を腐らせている。犯罪と犯罪者とが同一化されて、パワー関係が作用する、そこにいるのは<規則的人格>の人格関係社会である。実質も対象もどうでもいい、ただルール従属だけ「正しく」処置するという仕方だ。

佐川証人は、証人喚問でもそれをやった、約50回も証言拒否している。

それは、内実なしに、その場を「うまく乗り切る」だけの処置のみがなされる。去年理財局長としてやり抜いた同じ仕方である。

背後に「確実」に作用している物事は、「言っていない」「書かれていない」を規準に、消し去られる、永久に真実は「語られない」、最初から不在とされているからだ。

そこに「忖度」という騙し用語で、処理される、そして「忖度はどこにもある」ことと一般化される。

 

これは、相似的に、どこにでも出現している。民主主義の危機ではない、民主主義の害悪の本性が王道にまかり出ている現れだ。

最善が最悪になる、その民主主義表象のことでしかない。

 

認知としての、場所の自ずからの中心的存在が「社会規範・社会規則」の場に抽象化され、自己の場所的中心が「規範・規則の代行者」に転じられて、社会機構的な規則遂行の営みがなされる。

事実、真実という対象それ自体は、永久的に把捉されないで、不在の「追求」に転じられる。

TVの主要全局が、中継する「全体化」の中で、国民の最大関心事が、何の真実も明示されない場に浮遊する。そこに、与党追随派と、野党のだらしなさ(特に民進党は腐りきったさまの露出)の中での共産党とだけが真っ当だみたいな、恐怖政治の兆しが立ち上り、最大権力派以外のものへの拒絶反応が感覚的に起き、さらに実際には、真実の「検察」のみへの委託(相撲界で、貴乃花がやったことでもある)で処理される、国会の威信などはもはや微塵もない。

 

政治家も官僚も民間企業も、3者の「最悪」が共謀した森友学園問題は、戦後日本、いや近代日本の垢の塊の出現であるが、あちこちに浸透している「歴史的負の本性」そのものの露出でもある。

とんでもない次元へ、入ってしまっている、それはもう止まるまい。

自分の身の回りで必ず起きてくる、巻き込まれずにいられるかだが、既存組織外に立たない限りありえまい。

日本総体の停滞だ。

「日本とはそんなものでしょう」と、真実ではないのを知っているのに、真実に直面しないことを諦めで選択する若者の発言。

これで、もし内閣支持率が下がらない結果が近日でたとしたなら、もう日本は崩壊へまっしぐらだ。どうにかなるさ、の余剰などはなくなる回路に入るのを意味する。

 

ルール遂行で、正しさは遂行されないのだ。規則的人格は、規則を遵守することで規則を一番破る。

そこに対しては、規則への自己技術によるズレへの倫理的行為が要されるのであって、倫理道徳の襟を正すことではない。

財務省の「犯罪」は、佐川が犯罪<者>となることによって、消化はしないが、佐川前「理財局長」の訴追によってしか、構造へのメスは入らないであろう。

国会の威信はもはやない、公文書改竄した一官僚に振り回されて空転し、堕ちるところまで堕ちた。規則的人格関係が、国会議員までも巻き込んで、社会で主流になっていることの現れだ。