大学という教育商品市場に対する「大学資本経済」と資本経済ビジネス

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 大学が、経済市場や政治関係から切り離されて、純粋に学問の自立性をもってなされることだ、という産学共同批判の大学自治は、皮肉にも大学闘争以後、崩壊していった。

だが、わたしが大学教師に就職していた頃から、10年ぐらいはなんとかまだ、大学教師の個人的自由度はあった。自治の自立性は崩壊はしていたが。また、学生は、感覚的ではあったが、学問の大事さ、高度さを感知できる者たちが半数以上はいた。

これが、一挙に崩れ始めていくのは、コンピュータの普及が学生の半数以上を超えた頃に、兆候として露呈し始めた。レポートが、ネット上で見つけたことのそのままのリプリントで出始め、学生自身が、自分で読み自分で考えることは「不確かなこと」であって、ネットに書かれた「シニフィエ」が「確かな世界なのだ」と思い始めていく。

現在、新卒の大卒人間たちの就職で、顔が無表情で死んでいる、不機嫌そうな顔をしているという。選ばなければいいのにと、言ったなら、いや皆、全員がそうなのだという。そして、言われたことだけは真面目にやる、と。真面目で清潔な、トータリズムの存在表象であろう。

そこには、ひたすら自分を守って来て、自分を押し殺し、自分を喪失した「大学ゾンビ」がいる。

ゾンビ映画の流行は、世界総体が、人間喪失になっている産業社会経済の効果を表象したものであるが、かろうじてゾンビからの襲撃を逃れ、戦う人たちがいるが、生き延びるのが精一杯で、ゾンビは死滅しない、ますます感染し広がっていく。

 

この大卒ゾンビたちは、必ず、客観には総体があって、例えばここでのわたしの叙述は部分を指摘したものでしかないと、「正しい」指摘はするが、それではその「総体」とは何かについて全く無知であり、知ろうともしない仕方をする。向こう側においたまま、ただ他者否定に使うのだ。そこは、パワー諸関係が集約されてもいる場であるゆえ、そこに従属すれば、その「知らない」総体から自分が保証されていると信じている。

 

そして、旧来の大卒者たち幹部は、企業組織内で、「売り上げを上げろ」、「儲けにならないことはするな、削除しろ」、そして「変わるのだ!」と、構造自体が利益率を高めることができなくなっている法則も知ることなく、もうけ=利益が文化や環境や社会の諸関係から生産されていることもわからなくなり、このままでは売上が上がらないから、何が変わることなのか知ることもなく、自分が変わることもせずに、組織のためだと、社員たちをさらに死んだ状態へと追いやっている。完全に逆生産状態になっているから、社員たちはわが身を守るために、現場で実感していることやほんとのことを言わなくなり、その結果が新卒者たちのゾンビ化に現れていること自体を受け入れざるを得なくなっている。

役所では、規則を守ることで公文書改ざんするは、新収賄状態を無意識に意識的に逆生産している。

政治では、自民党は、国民無視で、党員へ従わねば座はないぞ、とたかが数年の脅迫によって口を塞ぐ。野党はとって代わる政治ビジョンを何も持てなくなって、ただ給与の座を守る。

 

こうした状態は、生産諸条件の再生産が外部でなされていることの実際効果であるのだが、その実社会外部と考えられている、つまり教育システムにおいて、大学システムで決着されている、「教育商品経済」の最終効果の表れである。

日本は、教育批判が総体的に不徹底であった。徹底したのは、わたし一人であると言って良いほどだ。なぜなら大学就職できなくなると思い込んでいるためだ。骨抜きにされたシニフィエ理解があたりさわりなく部分的になされてはいるが、経済理論や政治理論よりも高度になった、教育理論革命を、本源的に了解し得ていない。学会で、私の著作を参考文献であげると、削れとまで院生たちは言われたという。

だから、対抗的緊張状態がないままに、教育肯定も教育批判も双方が総体として上ずったまま、大学知へおさまった。

他の分野もおしなべて皆そうである。理論転回は、60年代の構造論をへて、70年代前半に大きくなされた、それを日本は吸収消化しえなかった。完全に、その時、世界に遅れをとった、その結果がいまだ。

 

独立行政法人化がなされた時、大学改革を試みたが、多数の「数」で、実現は不可能であると知り、ジュネーブへ逃れて、世界総体の理論総括を6年かけてなし、表したのが2006年の「哲学の政治 政治の哲学」の1500ページの大著(普通の単行本にすると15冊ぐらいになる)であるが、それをもって、わたしは日本アカデミズムなどの次元を相手にしない商業主義出版社も相手にしない、世界線での言説生産の次元での研究生産作業だけを進めて来た。「場所」はもう把捉していたが、「資本」や「述語制」「非分離」「非自己」へと探究場所は転じた。2011年の『哲学する日本』で、日本への着床を始めた。この本が、いま、売り切れて、7年かかっている。

 

ようやく、周囲の現実が追いついて来たかな、という感触がある。ホスピタリティも、中身がわかられずとも一般化している。

そこで、去年、引っ張りだされて、日本学術会議が不能化しているから、日本高等学術会議を立ち上げるべく「学会」を新たな形式で作り、そのプロセスから、「日本ホスピタリティ大学」を作ろうという動きになっている。若い人たちが動いているが、若手の大学人たちがあまりにいない。恐れから解放され得ないからだろうが、優秀なのは2割はいる、その人たちが活性化せねばならない。

 

いくら程度が低いといえ、東大や早慶大と同じ系で、その100年の歴史的蓄積に対して、こちらが勝ることなどあり得ないし、その大学人口は年齢の半数を超えて満杯である、全く別の系を作らねばならない。

多くの知的な文化資本度の高い親たちは、既存の学校や大学などに希望を見出していない、その市場はあるが、世界一の最優良校にならない限り機能はしない。Japan Hospitalityの世界最高度の文化資本があるのだから、世界一の大学になりうる。それは、経済にも政治にも行政にも役立ちうる。学問基盤は、近代学問体系を超克しない限りダメだが、もうその基盤はできている。

企業協働は300社あれば機能する。そこで、教育商品経済を超える「大学資本経済」を形成することだ。

産学協働は積極的に推し進めていくべきだし、大学で閉じた教室で机に座ってお勉強していても、なんの意味ももはやない。文化が大事だと、実世界から分離してお勉強しているのは、文化そのものを世界から分離して破壊してきた仕方である。文化が生かされない経済世界をそれはつくってきたからだ。

また、企業側は生産諸条件の再生産は企業内でしうると錯認している、絶対的にありえない。

だから、経済と教育との非分離システムを構築せねばならない。それは賃労働者になるための偏差値能力からは形成されない。

自分の資本力を形成する仕組みを作ることである。

各地の場所に拠点を形成していく。そして国家資本を、真っ当な述語制言語様式へ戻し、かつ世界普遍化する。賃労働者形成ではない、「資本者形成」である。

 

だが、多くの困難な複雑な課題に直面する。めんどくさい規則や規範の処理にも明け暮れねばならない。

そこで、既存の組織の賃労働に従属していた方が楽だとなる。

そうやって、なんと膨大な「智力」が日本で喪失されてきていることか。この損失は、取り返しがつかない極限にまできているように思える。

 

ブツブツと文句を言っていても意味ない、創造するしかない。ゴールを「日本の開発だ」と位置付けている。