国家論を放棄すると何がおきてしまうのか?!

  • 2016.12.17 Saturday
  • 08:54

国家論をやってきて自らへ分かったことがある。

それは、ブルデュー国家論の基本認識でもあるのだが、精神構造、そこに差し込まれた認知構造が国家構造と合致しており、先周りして、認識を収奪してしまっているということだ。それは、知覚カテゴリー、評価カテゴリーにまで浸透しており、行為actionsは、国家アクトactesとして作用するだけになっている、というものだ。

なのに、自分では自発的な行動agirをなしていると思い込んでいる。

だが、これは、マルクス主義的な経済還元の決定論ではない、規整化regulationの領域での自由度があるということであり、そこはフーコーのパワー関係にも対応することである。

そして、共同幻想自体を変えることはできない、つまり国家的共同幻想は変えられない、のみならず、現実において幻想の統治制化によって配備され、生活形態に構造化されている。そこでは国家の規整化理念が、暗黙のビジョンとして理性として機能している。唯一たどりついた可能性として、他の可能性が考えられえなくなっている、ということだ。

 

吉本思想が、ある意味、国家論から疎外表出されて思考されていたこと、そこにさらに政治として肝要なのは言語論であると設定されていたこと、それが、共同幻想論となって頂点的に構成され、地盤では心的現象論となり、その間を言語表出論が、対応していくことになっている。既存の国家論では、意志なり思考の上限が、閉塞されたままになり、政治は機能しなくなるということだ。1969年前後に、それなりの決着づけはなされたといえよう。

フーコー思想が、言説論から権力関係論へ配置されたとき、国家論が試行的に思考されていた。それは、国家論自体としてまとめられなかったが、言説やパワー関係の上限での疎外構成がどうなっているかを、自己領有したものであったといえる。1979年前後だ。

他方、ブルデューは、プラチック理論をほぼ仕上げ、社会空間、社会世界がどうなっているかをある程度、明示しきって、「支配する」存在の解明に向かい、国家貴族=学校大貴族を歴史生成的に検証していくなかで、「国家について」を位置づける、1989年前後だ。ブルデューも国家論自体をまとめていないが、国家資本というメタ資本の作用をとりだして、資本関係の窮極構成があることを示した。

 

わたし(たち)は、フーコーから出発していたため、権力諸関係の窮極形態である、国家についてはもう考える意味はないのだと、そこを前提にしての考察を「生政治」「解剖政治」としてなしてきた。

したがって、国家論は、プーランザスとアルチュセールのイデオロギー的国家装置論による修正でいいとしてきたまであった。そこには、国家に対峙しても、政治的敗北の効果しかうまれない、それは、現実でさえもはやないのだと感じてきたものであって、わたしの場合は、社会制度の経済的編制とその政治作用を、主にイリイチからだが、そこを詳細化していけばいいとし、ブルデューの社会プラチック論とフーコーの言説的プラチック論とで、理論生産していった。

だが、学校制度が、政治と経済編制の要になっているということを、貫いてである。

1999年から2006年の間、わたしは著書を出していない。ジュネーブで、世界理論総体の総括に没頭していたためだ。それは、1500頁の、冊本にしたなら15、6冊の書になる、『哲学の政治 政治の哲学』に集約されたが、このとき、もう自分の領有した文化資本に、既存の出版社はとどきえないことを認識し、自分で文化生産のシステムづくりにはいった。

批判体系の世界線での総括であるが、そのなかから、可能条件の芽をみつけた。それは終章に記してある。

そして、三つの可能条件として設定した、資本と場所とホスピタリティである。これが、国家配備されえていない、異なる共同幻想、対幻想、自己幻想の可能条件になっていくということの確信になった。しかも、その土台が、新たな設計原理として日本にあることーーしかし、すでに「文化技術」として探りつづけていたこと――が、明白にわかり、近代二元論の超克という、学生時代から廣松哲学によって示されていた、その机上の抽象論と廣松の限界が、物象化論をも含めて分かった。

そして、そこに、言語理論として述語制があることが、はっきりと、把捉された。

つまり、可能条件が良しと感知されても可能の現実とならない、その根拠は、場所共同幻想の可能条件が考えられなくなっていること、そして主語制言語様式に編制収奪された言語統治の徹底化になることが、資本が商品の論理と異なる(これは、すでに文化資本論として1999年時点で資生堂の福原会長との協働研究プロジェクトから確信していたこと)ことに加えて分かった。

場所幻想の解明は、東日本震災と吉本さんの死との交叉から、古事記考察へいくことで、明示した。

そして、武士制と述語制の日本を対象にしていきながら、<もの>資本の存在を確認し、理論や思考技術の壁があることを痛感、それが「国家」論の不在からくるものであることにいたり、吉本、フーコー、ブルデューの3極水準から画定しておかないと一歩もすすまないことがわかった。誰も、国家ともはや対峙しなくなっているのだ。それは、共同幻想が固定化され、統治制化が固定され、国家資本への対応が不能化していることとして見えてきた。この1年である。述語制言語理論が、その壁で、どうしてもつきやぶれないということが一方であったからだ。

 

学生時代、わたしたちはいかに稚拙たろうが、国家と対峙していた。

企業も、国家対峙といわずとも、国家の統治制にたいして市場経済の自由の開発をなしえていた。大学は、国家に手をつけさせない擬制であろうとも大学の自治の学問自由の時間と空間とを保持していた。政党は、国家資本にかかわりうる政治資本をかろうじてもちえていた。

それが、いまや、まったくなくなってしまって、企業は新自由主義の延長上での統治的経済依存で資本不在の商品経済主義に落下し、大学教師は学問自由よりも管理代行者教師になりさがり大学資本の劣化を促進し、政党は国家資本にまったくとどかない低次元の政治資本となっている。

日本のすぐれた技術資本は、まったく活用されず、部分的な協調でいくほかなくなっている。そして、伝統技術の文化的技術資本は消滅寸前においこまれている。国家の文化資本がもはや機能しなくなっている。

規範化、規則化の社会編制浸透が根拠だと考えていたのだが、そうではない、そうさせている国家配備の統治制化が根源である。国家論が不在であったため、批判考察さえ、国家構造の枠内の認識でしかない次元へおしこまれる。

 

だが、ブルデューもフーコーも、国家論を媒介にしていきながら、思想は後退していく。なぜか?

幻想論がないからだ。

フーコーは、「国家理念」「国家理性」として、ブルデューは「国家の魔術」「国家の神秘」としてしまっている界閾である。

ブルデューは、国家生成の長期的波動でとまったため、カビルやベアルンのアジア的段階を対極的に相対化で示すことしかしえない。しかも、アジア的段階としての普遍化を把捉しえずに、人類学的傍証にするだけで、マルクス主義的図式へと後退する。

フーコーは、しかし、古代にまで遡り、認知構造の根元である自己技術の考証にまでいたったが、そこでとまった、つまりキリスト教的パストラールの制度化を相対化することでとまってしまう。

吉本思想のみが、原初の、前古代、そして前胎児、前言語段階へと対象を設定しながら、しかし、現実過程ではすっきりしないままになってしまう。自然過程と文明過程とが渾融されてしまうのだ。

すると、この吉本本質論を基盤に、フーコー、ブルデューの西欧思考のラディカルな極限までいった歴史思考体系を、総合的に、つまり、あきらかに異なる系にある思考世界を、統合的に開いていく次元からはじめるほかない。それが、このたびまとめた、3大国家論になる。すでにわかっていることの再考察であったため2著は1年で、くわえて半年で完成するが、毎日の言述格闘は、体力勝負であった。これで、はっきりとマルクス主義的国家論からの脱出は明示しえた。国家をヘゲモニー独裁せよとか、国家の死滅だ、などという仕方の間違いである。国家に、そんな存在意味はない。国家に実体などはないからだ。

共同幻想論だけでは、国家論が不在になってしまう。幻想の統治制化としてここを突き抜けた。

権力関係論だけでは、国家論が不在のままだ。「国家配備dispositifs」の統治性化としてここを突き抜けた。

社会プラチック論、象徴資本論だけでは、国家論が不在のままだ。「国家資本」の「国家アクト」として、ここを突き抜けつつある。

つけ加えておけば、フーコーは言説として、ブルデューは言語交換として、吉本はいうまでもない言語表出として、かれらは言語論を構築している、言語理論は政治・経済を考察するうえで不可避のものである。

 

そこから、ようやく、主語制言語様式に対峙しうる述語制言語様式の言説生産が可能になり、武士制で日本特有の歴史過程を明証しうる。

ここまでは、どうしても自分の責務のようになさねばならないとおもっている。あと3年で、しあげられよう。

言説化しないと、現実は動かない。

同時に、ジャパン・ビジョン会議を設置した。国家資本にとどきうるメタ資本の構築である。多くの方々の協働にによって2年でまとめあげる。

そのさきに、資本、場所、ホスピタリティの具体現実が、開削されていきうるということだ。国家資本と場所資本の相反共存を設計していくことである。

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